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第二章 -7



 7



 元の牢獄に戻された後、ルキリウスは父のために長いあいだ泣いた。けれどもコルネリウス・ガルスへの憎しみはたぎらなかった。

 かっとなったのは、最初の一瞬だけだった。ガルスは身構えていたに違いないが、再度蹴り飛ばす間はなかった。ルキリウスは即座に飛びかかり、ガルスを壁に押さえつけていた。首を絞めていたかもしれない。

「ほら見ろ!」

 衛兵らがルキリウスを取り押さえた後、ガルスは彼らに向かって息も絶え絶えにわめいたのだ。

「やはりこの男は私を殺しに来たのではないか!」

 しかし衛兵らがどう思ったかはさておき、ガルスは自らの不当逮捕を認めざるを得なくなっただろう。ルキリウスはこの瞬間までガルスが父親の仇であることを知らなかった。それがわかったはずだ。

 だがそれで、結局なにが変わるというのだろう。今やルキリウスに絞め殺されかけて、暗殺未遂は既成事実となった。そして殺されたにせよなんにせよ、父はもう戻っては来ないし、どこにもいない。

 それでもルキリウスは、ガルスを嫌いこそすれ、憎むことができなかった。もしも彼の手にかからなければ、父は今も生きていて、家族のもとに帰ってきていた──そんなふうにはどうしても思えなかったからだ。ガルスでなければ、だれかほかの人間が父を殺しただろう。最終的には、アントニウスの最期を見届けて後、父自ら自分を殺しただろう。

 結局父は、アントニウス亡き世で生き長らえる意思はなかった。家族と二度と会わない決意も、ここを死に場所とする決意も変えなかった。

 そもそも父は、その十二年も前に死んでいるはずだったのだ。ブルートゥスの身代わりになった時に。

 どちらの時も、父がしたことは同じだった。もはや絶望し、自決を選んだ友。その誇りある最期のために時を稼いだ。自らの命と引き換えにするつもりだった。ただ偶然アントニウスが、父を殺すのではなく友として迎え入れただけだ。二度目は、ガルスがただ元の望みどおりにしてやっただけだ。

 父さん、あんたの友だちは、もうこの先を生きる意思すらない人たちだった。そこまで自分を追いつめ、運命に絶望していたんだ。

 見捨てられなかったのか? それとも、そんな人を好いてしまう性質だったのか?

 もっといい加減に生きている男なんて、いっぱいいるのに。何度も友を替えて、寝返って、それでなおさして罪悪感もなく、しぶとく生きているやつなんてうじゃうじゃいるのに。

 どうしてほかの生き方ができなかったんだ?

 いずれ、父は思いどおりに生きることができたのだ。だからガルス当人だったにせよ、その部下だったにせよ、ルキリウスに仇を憎む筋はない。だれも憎まず、だれをも憎ませずに生きて、死んだ。それが父だ。

 だったら、なんでぼくなんか作った?

 どうして母さんと結婚したんだ?

 祖父さんに言われて、嫌々首都に出て、向いてもいないのにしぶしぶ公の出世を求めて、でも結局いつの間にかブルートゥスに心酔して──。

 悪い父親であればよかったのだ。家族をまったく顧みない薄情者。仕事人間。理想ばかりで現実を見ない、役立たずの愛国主義者。

 しかし父は、会えばとても息子を可愛がる、良い父親だった。共に過ごした時間は長くないのに、息子は楽しい思い出をたくさんもらった。九歳での、最後の別れの時でさえ、父は泣きじゃくる息子を胸いっぱいに抱きしめていた。なだめようと背中をさすりながら、何度も何度も詫びていた。

 だから憎むべきは、そのような父を変えられなかった息子、その無力であるはずだ。

 なんのための息子だ? 家族だ? 

 息子も、妻も、父も弟も、家族皆が「友」に敗北した。「友」を選んだ父の生き方を、だれも覆すことはできなかった。十二年の猶予があって、なお。

 やっぱり最悪の父親じゃないか……。

 他人の運命を変えようだなんて、おこがましいことなのか? だったらなんのために他人はいるんだ? 友はいるんだ? 家族はいるんだ?

 ああ、父さん、結局あんただって、友になにをしてあげられたんだよ? 二人とも絶望の末に破滅した。共に死ぬことしかできなかったってだけじゃないのか?

 結果論? ああ、そうだろうね。友情は結果より過程だって、そう言いたいんだろうね。

 でも終わりが肝心って言葉を、聞いたことがないのか?

 二人の友は、絶望はしていたけど、不幸ではなかった? 結局自分の望むようには生きられたのだから、満足しているだろうって?

 父さんは、そんな友の幸福に少しばかり貢献できた。そう思ってる? 自分よりはるかに大物で身分の高い、二人の友。アントニウスはともかく、ブルートゥスが父さんを気に留めていたかは怪しいもんだと思うけど、それでも父さんは、彼らのためになにかをしてやれた。それで満足だった。

 ああ、そうかい。ああ、そうかい。

 世の中には、友の役に立ちすぎる人がいる。アウグストゥスの右腕アグリッパがそうだ。あの人こそ世界一の友だろう。

 しかし勝者でもなく、さして才能もない男が、友を愛したならばこういう生き方しかできない。

 見ろよ。友情だって結果論じゃないか。アウグストゥスが勝ち続けるかぎり、アグリッパは最高の友であり続ける。アクティウムで負けていたら、アグリッパも父と同じことをしただろうか? それとも超有能な男だから、アウグストゥスを守りながら、なんとか巻き返しただろうか。

 くだらない。わかっている。くだらない。

 だがそう考えれば、父は友へ分相応以上の貢献をしたのだ。

 無念じゃなかったのか? 友が敗北することが。死んでしまうことが。自分の力が及ばなかったことが。

 それとも、運命に立ち向かうなんておこがましいと、潔く受け入れて、あきらめただろうか。

 なにも変えられないのなら、結局好きに生きるならば、お互いなんのために一緒にいたんだよ?

 だから──まったくもってガルスのせいではない。戦争のせいですらない。ほかの死に方だってあったのだから。友が、父の命を奪った。家族から父を奪った。友は、二人とも非業の最期を迎えた。

 ああ、友人の役に立つべからず、友人の役に立つべからず。

 役に立とうとすると、ろくなことにならないんだ。アグリッパだって、今後どうなることかわかりやしない。

 ぼくは父さんのようにはならない。最後の日、そう言ってやった。

 なりようもないよ、幸いなことに!

 なりたく……ないのに…………。

 ルキリウスの号叫が、地下牢を揺らした。

 でもこれを運命と呼ぶんだろうか? どいつもこいつも好きに生きて、好きに死ぬしかないならば、家族も友も持つべきではない──。

 長いあいだ泣いた後は、長いあいだぐったりと座り込んでいた。たった一人きり、好きなだけ泣いてすっきりしたわけではない。そうなれたら幸いであったのに、結局思考は堂々巡りをするばかりのようだ。

 なんとまあ、アレクサンドリアに来た初日に、父の最期が明らかになった。ローマでムレナとカエピオの誘いに乗る必要もなければ、プロクレイウスに会う必要もなかったのだ。おめでとう。目的達成。知るべき真実を知ることができた。なんと幸いではないか。

 違う、違う、違う!

 ルキリウス・ロングスは、こんな変えようのない真実のためにここへ来たのではない!

 変えられると信じたのだ。そのためにはなんでもするつもりだった。

 けれど、これからどうすればいいのだろう──?

 泣き疲れて、もう指一本動かせそうにない。そして、なにも考えられそうにない。頭の中も、胸も腹も四肢も、すべてが空っぽになったようだ。すっきりしたということなのか。でもこの真っ暗な空虚からは、もうなにも生まれてきそうにない。なにも変わらない。いつまでも黒い穴のまま。

 これが絶望というものだろうか。

 なにに絶望するというんだ。明日にはガルスに処刑されるかもしれないが、そうでなければいずれまた、これまでと変わらない日々が訪れるだろうに。

 これまでと変わらない自分のまま──。

 辺りはすでに夜闇に侵食されていた。木格子の向こう側には、燭台が対で一組置かれていた。その頼りない灯火が輪を描いてにじむ様を、ルキリウスはぼんやりと眺めていた。静かな夜だった。アレクサンドリアじゅうの人間が平和な眠りについているかのようだ。ここの民衆は、市隣りの墓場街の住人と変わらないのに、きっと気づいていないのだろう。

 足音らしき気配に気づいたのは、そんな夜も更けた頃だったろう。ただの足音ならば、ルキリウスは気に留めなかった。いかにも自分の処刑命令を帯びてきたと言わんばかりの、衛兵のそれでさえ。だいたいもう当分なにも考えたくなかったし、考えられそうにもなかった。

 それは、上の格子窓から聞こえてきた。最初は足音だとは思われなかった。気まぐれな海風の仕業かなにかか。地面を擦るような短い音だ。それもひどく断続的で、遠くで響いたかと思えば、一瞬後にはすぐ頭上から聞こえてきた。思わずびくりとして、ルキリウスは頭を反らした。するとなにか白いものがちらりと見えた気がしたが、たちまち砂粒が降ってきて、急ぎ目を閉じた。が、いく分遅く、悲鳴で始まる文句を言いながら、ただでさえ熱かった目をさらにこするはめになった。けれどもそのおかげで我に返ることができた。

 空耳だろうか。風に乗るように、くすくすと笑い声のようなものが聞こえた。

 音はまだ止まない。少しばかり遠ざかり、また短く地面を滑る。また近づいて、すぐ遠ざかる。さらに間を置いて、今度は横へ行く。痛む目をしきりに瞬かせながら、ルキリウスはあ然と格子窓を見上げた。よくよく耳をすましてみれば、今やその音がある一定の拍子を取っているらしいことに気づくのだった。

 のろのろと重い体をほどいた。それでも動いたのだから上等だ。寝台もどきの上に立ち、ルキリウスは格子窓を覗いた。

 すると頭の空虚がたちまち戻ってきた。だがそれは絶望に似た黒い穴ではない。心を奪われて真っ白に近かったが、ルキリウスはその光景を脳裏に焼きつけたのだから、確かに見ていたはずだ。青銅の格子さえ消し去って、世界が押し寄せてきた。

 雲一つないエジプトの空に、片皿のような月だけが浮いていた。だが月とはこれほどに明るくなれるものだったろうか。昼のようではないが、決して夜とも見えない。別の世界だ。銀色の月とそこからまっすぐに下りるヴェールが、くすみも歪みもない完璧な濃紺の天蓋を作り上げている。その下に汚れなき生命は存在しない。生命とはすべからく汚れるものであるから、完全な世界に住まえるのは神々のみだ。あるいは死せる者もか。

 だから、そんな世界の中心で舞うあの乙女は、きっとニンフか幽霊なのだろう。

 長い黒髪がなびいていた。波打って、艶めいて、そのまましばらく宙に漂っているのだ。銀色のリボンも、キトンの袖も裾も、月明りをひとひらそのまま纏ったように、細やかな輝きを帯びて透きとおる。宙に留まったかと思えば、次の一瞬には形を変えて翻る。舞い上がる。月明りの下は、肉身に見えない。大理石のようだが、汚れないあの白銀は、地上にあるそれとは思えない。あの月がなんらかの石でできているならば、それを使ったのだろう。神々の中でも最高の腕前の者が手ずから彫刻し、無垢なまま生命を吹き込んだのだろう。

 その証拠が、ほら、この地上に残されている。それは王宮正門の燭台であったはずだが、今や月のかけらにすり替わっている。これで創ったのだ。この輪を描く光が、天から注ぐヴェールと重なっている。乙女がその光の中に飛び込み、一瞬見えなくなる。そしてまたくるりと翻り、舞い上がる。白い砂の上に下り立ち、銀糸を揺らす。

「こんにちは!」

 ルキリウスは仰天した。格子をつかんでいなければ、寝台もどきからまともに落下していただろう。

 そんなはずはなかった。けれどもそのニンフだか幽霊だか、とにかく人間ではないはずのものは、舞いを止めて、上体を少しばかり前に傾けて、ルキリウスのほうへにっこり笑っているように見えるのだった。まるでその距離からならば、地面すれすれの格子窓からでも自分の全身を確認できると、見当をつけているかのように。

 こちらを見ていた。微笑んで、うきうきと、反応を待たれていた。声をかけられたのだ。

 それにしても「こんにちは!」とは、時宜に適っていない。けれどもこの月下の乙女には関係ないのだろう。自分が生き生き動く時間こそが、世界の真昼なのだろう。

 この乙女は、いったいいつからこの地上で舞っていたのだろう。さらに大事なことには、ルキリウスがいることに気づいていたのだろう。

 ひょっとして、最初からか? 

 まさか、よもや……長い嗚咽まで聞こえていたなんてことは──。

「こんにちは! ねえ、あなた? こんにちは!」

 この世には、こんにちはとさえ言えば、ルキリウス・ロングスを驚かせてもいいと考えている人間が多いように思える。マルクス・アグリッパしかり、この乙女しかり。

「……やあ、お嬢さん」

 恐る恐る、ルキリウスは応じてみることにした。

「楽しそうだね……」

「楽しいわよ!」

 立場上皮肉にしかならない応答を気にも留めず、乙女は両腕を広げてくるりとまわった。黒髪と月明りの裾が、またふわりと舞った。

「だれにも邪魔されないこの時間! あたしは今、この世界を独り占めしているの。そんな気分なの」

「とても前向きな思考だね」ルキリウスはうらやんだ。「ぼくもそんなふうに考えられたらよかったよ」

「どうして?」乙女はにやにやして見えた。「だれもあなたの邪魔をしないわよ。少なくとも夜はね。みんなぐっすり眠っているんだから」

「……そのとおりなんだろうね」

 ルキリウスは認めるしかなかった。長いこと泣いていたはずであるのに、だれにも邪魔されなかった。しかしいったいだれが囚人にかまいたいと思うだろう。

 この乙女以外は……。

「確かに夜は楽しいよ。明日の朝早く起きなくてもいいんなら。あと、平穏無事な明日が来るという保証があるんなら。あいにくとぼくは、明日にも殺されるかもしれないんだけどね。……ひょっとして君は、ニンフや幽霊でなければ、この国の新しい女王様だったりするの?」

「よくわかったわね!」

 乙女は満面の笑みになった。得意げに跳ねて、両腕を高く掲げるのだった。

「クレオパトラ八世フィロパトル! でもまだ女王様ではないのよ。お姫様よ!」

「お姫様……」

 それからその「お姫様」は、とことことルキリウスのほうへ近づいてくるのだった。

 確かにルキリウスは、これほどお姫様らしいお姫様を見たことがない。クレオパトラ・セレネがいるが、彼女はすでに王女ではいられなくなった。彼女に姉でもいただろうか? 年頃といい、美しさといい、この乙女は世の人の想像に適う姫に見える。ただしエジプトのそれではない。きっと月の世界から舞い降りた、神々の娘だ。

「……やはりそうでしたか。おお、私としたことが覗き見なんてとんだご無礼を」

「待って! 待って! 引っ込まないで!」

 壁に背中を預け、ルキリウスは座り込んだのだが、頭上からは抗議の声が止まなかった。またも砂が落ちてきた。ルキリウスは両手で顔を覆った。

 できることならばずっと見ていたかったのだが、それ以上にこのひどいであろう顔を見られたくないと思った。

「どうして隠れるの? こっちを見て! あたしを見て! せっかくあなたを元気づけようとしてるのに!」

 なんだって? と、ルキリウスは指の隙間から上を覗く。かろうじてキトンの裾と、つるりと爪を着色した足指が見える。

「お姫様──」

 ルキリウスが腰を上げかける。するとだしぬけに格子窓に大きな猫の目が一つ現れ、またのけぞってしまう。

 信じられないくらいぎっしりと豊かな睫毛が、薄暗くともよく見て取れた。瞳の色は緑だろうか。今は牢獄奥の灯火を映し、あたたかげにきらめいている。すらりと筋の通った鼻と、ぷくりと丸い小さな耳も覗く。

「お姫様……」

 怖々と、それでも今度こそはと覚悟を固めて、格子窓に寄る。ただし後頭部を壁に張りつけて、慎重に、決してまともに顔を見られないようにして。

「どうしてこのわたくしめなどを元気づけようと思われたんですか? ……本当はあまり知りたくないんだけど、いったいいつからぼくに気づいていたんでしょう?」

 するとお姫様が、窮屈な体勢からさらに工夫を凝らしているらしいことがわかった。壁や格子に頬や額をめり込ませ、美と愛らしさを犠牲にしようとしていた。実際には少しも犠牲にならなかったのだが、朝の薔薇の花びらのような唇が突き出た一瞬、ルキリウスは覚悟も空しく心臓が止まったと思った。

「あたしはコルネリア・ガッラよ!」

 ……これほどに現実に引き戻される名前があるだろうか。一方で、これほどに否定したい現実があるだろうか。

「あなたがね、お父様のお部屋に連れていかれるところを見ていたのよ。どうしてあたしに気づいてくれなかったの?」

 気づくもなにも、あの時は自分の運命と三年前のティベリウス・ネロの恐怖や勇気について考えていて、まったくそれどころではなかった。

「それからね、あなたがお部屋から戻ってくるところも見ていたのよ。衛兵の二人に抱えられて、ぐったりして。いったいなにがあったの?」

 抱えられていたのではなく、引きずられていたのだ。ルキリウスは、残念ながらこのお姫様に対して、守るべき誇りをすでに一片も失くしているらしい現実を知らされるのだった。

「コルネリア・ガッラ」

 今や本気で頭を抱え込む。

「……エジプト総督の娘。なるほど。確かに君はお姫様だな。この新しい国の。ところで、ぼくはローマにいるあいだ、ガルスが妻帯者だったなんて話一個も聞かなかったんだけど」

「あたしにお母様はいないの。でもあたしはフィロパトルだから!」

 さすがに少しさみしげに、お姫様は言った。けれども少しだけだ。きっと物心ついてからずっとそうだったので、人生の当たり前であるのだろう。

 フィロパトルとは愛父という意味で、クレオパトラ七世含むプトレマイオス朝王族の添え名だ。このお姫様は、愛父だとか愛姉だとかが婚姻関係をも表していたことを知っているのだろうか。かの王朝は、親子やきょうだい間での近親婚を血の継承のための慣例としていたのだ。

 一対の猫目が、格子越しに壁を伝い、じっと見つめてきた。ルキリウスには、この無邪気な目がこの世の穢れを知っているとはとても思えなかった。

「ルキリウス・ロングス」

 名前までばれていた。

「あなたはあたしのお父様を暗殺しようとしたの?」

「コルネリア・ガッラ」ルキリウスは言わずにはいられなかった。「君はそんな恐ろしい男に会いに来たのかな?」

「やっぱり!」背筋を反らしたらしく、コルネリアの顔は一部も見えなくなった。「濡れ衣だったんだ! それでお父様にすごく怒られたのね! かわいそう! ごめんなさいね、ルキリウス!」

「すごく怒られただって? ぼくは明日にでも処刑されかねない状況なんだけどな」

「そんなことにはならないわ」

 一対の目が、ひどく真面目な色をして格子窓に戻ってきた。眉間に寄せられた皺さえ可愛らしかった。

「あたしがお願いしてあげる、お父様に。大丈夫。怖く見えるけど、お父様は悪い人じゃないの。とても愛情深くって、優しい人よ」

 この娘もヴェルギリウスも、どこかの別の人間をコルネリウス・ガルスだと思い込んでいるのだろうか。それともルキリウスが昼間に会った男が人違いなのか。

「ありがとう。期待しないで待ってるよ」

「どうしてそういうこと言うの?」

 コルネリアは少しばかりむくれたようだった。きっとそんな顔も可愛いのだろう。

「あたしに任せなさいって。お父様の世界一可愛い、最愛の一人娘なんだから」

 ルキリウスは笑ったが、やはり皮肉が混じった。こっちだってお父様の最愛の一人息子だと思っていたのに、実際にそう言われて可愛がられたのに、結局なに一つ変えられなかったんだよ、と。

 君の父親に殺されたらしいんだよ、と。

 コルネリアは、さすがにその一事は知らないのだろう。

「お父様はこのごろお友達と上手くいかないの」皮肉に気づいた様子もなく、コルネリアは困った声で話すのだった「毎日みたい喧嘩してね、一人また一人って、いなくなっていくの。お父様がいなくしたんじゃないわよ! 怒って叩いてしまったり、こういうところに閉じ込めたりした人もいたんだけど、最後にはみんなちゃんと帰国したから。あたしがお願いしたことも何度もあったのよ」

「自分には実績があるってわけか」ルキリウスはついため息をつく。「心強いね。ところでさすがにそこまで度々もめてきたとなると、君のお父さんになんらかの原因があると思わざるを得なくならない?」

「お父様がまったく悪くないとは言えないと思うけど」コルネリアも認めないではなかった。「けどお友達も、みんなで一緒になってお父様を一人にして、ひどいと思うわ。お友達なら、言いたいことを伝えるのに、もっとほかの方法があるんじゃないかしら」

 これに対して、ルキリウスはなにも言えなかった。それはどこかでコルネリアの主張に共感を覚えたからだろうか。

 かつてマルクス・アントニウスも、旗色が悪くなるや自称友人たちに散々見捨てられたのだ。最後まで見捨てなかった唯一のローマの友人が、ルキリウスの父親だと言われたほどだ。

 ルキリウスにはわからないし、わかりたくもない。けれどもガルスもまた友の離反にいちいち傷つき、アントニウスと似た孤独に苛まれているのかもしれない。

「コルネリア」ルキリウスは初めて一対の目をまともに見返した。「君はいつからこの王宮にいるんだい?」

「二年前よ!」関心を向けられて、コルネリアはうれしそうだ。「お父様が呼んでくださったの! あたしをお姫様にしてくれるって! それまではずっとお父様の故郷で暮らしていたわ」

「そのときは、いったいいくつだったのかな?」

 コルネリアの両目が三日月型になった。ルキリウスの下手な質問の意図を見抜いたと言わんばかりだ。

「あたしは今、十四歳よ。あなたも同じくらいでしょ?」

「一ヶ月ちょっと前に、十五歳になった」

「やっぱり!」コルネリアはまた喜んだ。「だからあなたが気になったの! お父様のお友達でもなさそうで、軍団兵としても若すぎるし、いったいなにをしでかしたのかしらって」

「しでかしてないから」

「ねえ、あたしも十二月に十五歳になるわ。同い年ね!」

 それでルキリウスは、当然のように歴史を逆算してしまうのだった。コルネリアが生まれたのは、ティベリウスより少し後、フィリッピの戦いが終わり、アウグストゥス一行がローマへの帰途に着いた頃となる。

 コルネリウス・ガルスはガリア・ナルボンヌの出身とされる。父親は解放奴隷であったという噂だ。若い頃、なんらかの縁でアウグストゥスとアグリッパ両氏の友人になった。もしかしたらルキリウスが想像したよりずっと古い縁であるのかもしれない。

 ひょっとしてこのコルネリアとは、若き日にアントニウスと取り合ったという女人とのあいだにもうけた娘だろうか。ヴェルギリウスの詩に描かれていた。さぞ美しい女性だったのだろう。

 いずれコルネリアの母親は、由緒正しきローマ婦人ではないのではないか。おそらくは外国人。あるいは奴隷身分であったのかもしれない。

 ローマ男が奴隷をはらませた場合、生まれた子どもも奴隷身分となる。母子ともども解放奴隷にすることはできるが、その後正式に結婚して認知もしたなどという話は、高い格式の家では聞かない。奴隷一人買えるかどうかというほどの庶民ならばともかく、男が公に出世を望むならば、やはり元奴隷の妻とは体裁が悪いのだ。その子どももまた、事あるごとに悪口を言われる運命を負う。したがって多くの男が、由緒正しき家柄の妻をめとり、奴隷は愛人のまま据え置く。奴隷の子どもができて愛したとしても、認知はせず、せめて金を持たせて解放奴隷とし、同じ身分の配偶者を得て幸福になるよう計らうのが精一杯だ。

 これがギリシア人やシリア人といった、外国人の妻であっても事情はさして変わらなかった。たとえば元老院議員になる際、自身も抜擢された外国人であるならば話は別だろうが、自身がローマ人であるのに妻がローマ婦人でないとは非常に不利な事態になる。選挙ではまともに勝負もできないだろう。

 将軍であるところのガルスが、未だ政務官職に就いたことがなく、騎士階級であることには、もしかするとそのような事情もあるのだろうか。コルネリアを我が子と認めているのに、母親の名前が一切知られていないのだ。

 想像にすぎない。けれどもルキリウスはこれ以上探ろうとは思わなかった。ガルスが実際に世界一の姫のごとくコルネリアを愛している。それがなによりの真実であるように思えたからだ。

 王子様──夫になる男はさぞかし苦労するんだろう。

「ねえっ、ルキリウス! どうしたの? どうして黙ってしまうの?」

 お姫様が文句を言っていた。

「こっちに来て! ねえ、もっとお顔を見せて! いっぱいお話しましょう!」

「コルネリア」その申し出は、これまでのルキリウスの人生で圧倒的一位に躍り出るほど魅力的に思われた。

「そう言ってくれてすごくうれしいんだけどね。やっぱり君は囚人と話すべきじゃないよ。もっと人を疑ってかからないと」

「あっ」コルネリアはまたむくれたようだ。「ひょっとして、なに? 男ってみんな年下が好きだから、あたしが同い年なのにがっかりしてる?」

「なんでそうなる?」

 ルキリウスは頭が吹っ飛んだと思った。だがコルネリアは頬を膨らませたままだ。

「だってローマの男の人ってば、みんな年下の人と結婚するでしょ?」

「ちょっとなに言ってるかわからないんだけど!」

 世の男全員が年下好きだとか、否、年上好きもいるとか、そもそも年齢を気にしない男もいるとか、そういう問題ではない。ローマ男は確かに正式の妻として年下を、それも娘ほど年の離れた女を娶ることがよくあるが、そういう問題でもない。

 そういう話をルキリウスにするということがわからないと言っているのだ。

 同い年でがっかりだって? 結婚だって?

「お顔を見せて」

 コルネリアの額が、また格子に食い込んだように見えた。跡がつくことが気にならないのだろうか。

「ちゃんと見せて。あたし、お部屋の露台からしか、あなたを見ていないのよ」

「……無理。絶対に無理」

 この期に及んで、ルキリウスは断固拒否する。右手を当てて顔を隠すのだが、どちらもやけに熱い。滲み出す汗とともに溶けてしまいそうだ。

「どうして?」

 格子をつかみ、コルネリアが揺さぶる。

「ひどい顔をしているから。君のお父さんにいじめられて」

「あたしが見てあげるわ」コルネリアは優しく言い張った。「痛むなら手当もしてあげるわ。あたしね、ちゃんと勉強もしているのよ。午後からだけど、いっぱい本を読んでいるの。この国の薬草の本も何巻も読んだんだから」

「やだ、やだ、絶対に嫌」氷を熱烈に欲しながら、ルキリウスは首を振った。「女につける薬なんてないんだ。結局顔のいい男が大好きで、残念な顔には失望するんだ。それでぼくに話しかけたことを早速後悔する」

「もうっ、どうしてそんなに自信がないの?」と、コルネリアが怒る。「子どもの駄々っ子みたいよ。それでもお父様の暗殺者なの?」

「だからそれは濡れ衣だってば」

「ルキリウス」

 コルネリアの声が真摯な色を帯びる。

「ねえ、お願いよ。こっちを見て」

 世界一の意地っ張りでさえ、抗いようがあるだろうか。ルキリウスがこっそり横目を向けると、格子窓から信じられないくらい細くて白い指が伸びていた。空の月と同じように、輝いてさえ見えた。

「ルキリウス」白い指が呼んでいる。まるで必死であるように、ふりふりと動く。「ねえ、ルキリウス……」

 ルキリウスは今日という長い一日を振り返った。それを生き延びた我が手は、とてもだれかに差し出せる代物ではないと思った。特にこの壁の向こう側にいる無邪気な乙女には。

 けれどもルキリウスは、世界一の意地っ張りでも偏屈でもない。

 触れた指先は、ひんやりと冷たかった。ルキリウスの指が熱かったせいでもあろう。しかし女の手指とは、どうしていつでも心地よいようにできているのだろう。ましてこの乙女のそれときたら──。

 ルキリウスは心地よさを十分味わえなかった。コルネリアの指にぎゅっと力がこもったのだ。とたんに顔から体から熱がぶり返した。これ以上は無理だと思っていたのに、灼熱の窯にでも投げ込まれたかのようだ。

 この乙女はルキリウスを殺しに来たのだろうか。父親に変わって。

 絡めた指を、とても大事そうに、コルネリアは我が元へ引き寄せさえした。けれども彼女の細い手を持ってしても、格子のあいだを通り抜けられはしない。手の甲で挟まってしまう。

「ルキリウス……」コルネリアはまだ呼んでいる。「こっちへ来て、ルキリウス」

「だめだ」ルキリウスは理性の限界の瀬戸際にいた。「コルネリア・ガッラ、ぼくはもう死ぬからだめだ」

「そんなこと──」

「お嬢様! いったいなにをしておられるのですか、お嬢様!」

 ようやく邪魔が入って、ルキリウスは正直ほっとした。それにしても遅かったが、侍女らしき足音がばたばた近づいてくる。絡めた指をすぐさま振りほどき、コルネリアは体を起こした。顔や指に格子の跡がついていやしないだろうか。夜闇に少しでもまぎれてくれればいいのだが。

「また来るわね、ルキリウス」

 キトンの裾を翻し際、コルネリアがささやいた。足首などふと見せないでほしいと、ルキリウスは思った。

「大丈夫。あなたは死なないわ」






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