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第二章 -6



 6



「ルキリウス! ルキリウス!」

 だれかと思えば、叔父のガイウスだった。頭に布を巻きつけ、上半身裸で、たぶんエジプト風の腰巻を身に着けている。雑な変装だ。顔は長い船旅ですでに日に焼けている。まるでファラオの御通りであるようにひれ伏す体勢を取っているらしいが、そうしなければ小窓から地下を覗けないためだった。

 隣に別のだれかの足も見えたが、祖父のそれではなさそうだった。

 ルキリウスは小窓の格子で懸垂を再開した。

「叔父さん! 祖父さんは? 溺れた?」

「溺れるものか! 腹立ちまぎれにファロスの大灯台まで泳いで、ファラオ像に殴りかかりそうだった。どうにか引き上げて船に置いてきたところだ。まだわめいている」

「どんな八つ当たりだよ? ……でもまぁ、よかった」

「よくないぞ、ルキリウス!」四十七歳になる叔父は、海上で大嵐に見舞われたときの次くらいに切迫して見えた。「お前は総督暗殺犯だ!」

「なんてこと言うんだよ! ぼくはなにもしてない! 総督だってぴんぴんしてる!」

「いったいお前はなにをしでかしたんだ?」

「なにもしてないって言ってるでしょ! ずっと叔父さんたちと一緒だったし!」

「ちょっと目を離した隙にガルスの足でも踏んづけたか!」

「踏んづけてない! ちょっと女王の霊廟にお参りしてただけで……」

「なってこったよ、もう……」叔父は頭を抱えた。「『国家の敵』の墓参りをしたのが気に入らなかったってわけか? それで難癖つけて、濡れ衣着せて、公開処刑?」

「縁起でもないこと言わないでよ!」

 この叔父はなにをしに来たのか。囚人である甥を絶望のどん底に叩き落とすためだろうか。

「墓参りが気に入らないなら、そもそもあそこに入れないようにしていたと思うんだけど……」

「とにかく、ほれっ、これを書け!」

 叔父は紙と鉛棒を小窓に押し込んできた。

「ティベリウス・ネロに嘆願しろ! 急げ!」

「えぇえ……」

「えぇえ、じゃない! こういうときのための高貴な友だちだろ!」

「いや、ティベリウスに頼んだところで……」

「ネロならカエサル・アウグストゥスにも話を通してくれるだろ。ガルスの横暴をくい止めてくれるはずだ」

「どうせ手遅れになると思うんだけど。ティベリウスは今ガリアにいるし」

「それまでは俺たちがなんとか交渉する。クソッ、捕まるなら海賊のほうがまだやりようがあったんだがなぁ」

 身代金を払ってくれる気はあるらしい。叔父を金の亡者だと思っていたルキリウスは涙ぐんだ。それに今の手持ちは、インドへの大航海のために用意した資金であるはずだ。そのまま海に沈む羽目になるより有益な使い道があるならば歓迎だ。

 問題は、コルネリウス・ガルスが身代金を欲しがっているわけではないと思われることだ。ガルスはルキリウスにこう言ったのだ。

 ──いい度胸だな。

 この半日に満たない時間でなにをどう誤解したのか不明だが、ガルスは暗殺未遂を事実と考えている。

「もたもたしている時間はないぞ」

 別の声が聞こえた。ルキリウスは首を曲げて上を見ようとした。

「バルバトゥス先生?」

 ルキリウスの肉体鍛錬の教師だ。もう五十歳になるはずだが、二十年も剣闘士を生業にして死ななかった男だ。

「ルキリウス」節くれ立った手を叔父の頭に容赦なく乗せて、バルバトゥスも身をかがめてきた。「儂からも総督に申し立てる。お前はここで殺すには惜しい男だとな」

 そのひと言だけで、嫌な予感が満載だ。まず「殺す」とはどういう了見か。

「バルバトゥス……ローマ市民は裁判なしで処刑はされないぞ……」額を地面に埋めたまま、叔父がうめくように言った。「その裁判にも控訴権があって、エジプトのことなら、最終裁決はカエサルが下すはず……」

「どこの国だって、裁判はすると言うのだ」くだらないとばかりに、元剣闘士は鼻を鳴らした。「奴隷にだけするという仕打ちを、どうして市民にはしないと思うのか。してのけるのは同じ人間であるのに」

「それじゃ、法に反するだろ!」

「法など後づけだ。いつだって人間性のほうが先を行く。磔刑か、斬首か、でなくばこの国らしく毒実験の生贄か……。総督は今頃賽の目を振っておるかもしれんな」

「うう……」

 ルキリウスはさらに絶望の淵に押しやられた。この二人はいったいなにをしに来たのだ。自殺させたいのだろうか、ひょっとして?

「おい、だれか来るぞ」

 そうささやくや否や、バルバトゥスは飛びのいて消えた。さらに埋め込まれたので、叔父はもうしばしわたわたともがいていた。

「ここに手紙を結んでおけよ、ルキリウス。希望を失くすな!」

 どちらかと言えば、叔父たちが来てからのほうが希望を失くしたが、叔父が慌ただしく消えると、ルキリウスは手紙を書き殴った。ともかく混乱はしていたし、ティベリウスに迷惑はかけたくなかったが、自分の身に起きた理不尽を聞いてもらいたい気持ちに勝てなかった。なにもしてくれなくていい。ただ聞いてくれ。

 早速永遠に帰れなくなりそうな、この様を。

 急いで書き殴って幸いだった。手紙を格子に結わえつけた直後、扉の開く音がして、物々しい足音が近づいてきた。衛兵二人が現れ、牢の鍵を開け、外に出るようルキリウスに命じた。

 遺書さえも書けずに終わるところだった。取り調べという名目の拷問について、ルキリウスは思いを馳せた。これもローマ市民には禁じられているはずだが、相手はアウグストゥスに対してなぜか反抗的な言動で近ごろ話題のコルネリウス・ガルスである。もしかしたら暑さにでも頭がやられ、自分をエジプトの王だとでも思いこんでいるのかもしれない。先ほどの霊廟での振る舞いを思えば、十分あり得る。

 そんなことやそのほかのことをつらつらと考えながら、ルキリウスは後ろから促されるままに歩いた。かつてはきらびやかであっただろう回廊を、二百歩以上歩いてから気づいたが、身体の拘束を受けていなかった。これは良い兆候かもしれない。総督はやはり誤解であったようだと思い至り、今一度冷静に話を聞いてやろうと、考え直してくれたのかもしれない。

 しかし再びガルスの顔を見た瞬間、ルキリウスは虚ろな楽観に極刑を言い渡した。 

「ルキリウス・ロングス」

 総督執務室の机越しに、ガルスは変わらず冷酷な目線を注いできた。

「ティベリウス・ネロの親友だそうだな」

 声にもまた情けのかけらもなく、すでに死刑宣告を始めているようだった。

 このような男が、あのヴェルギリウスの最愛の友であろうとは。将軍としても一級、芸術家としても一級の、ローマで最も多彩な才能を持ち合わせた傑物とは。

 軍人であることは、まずわかる。しかし詩人には到底見えない。詩の巻物を見つけた瞬間、鼻をかんで捨てそうに見える。しかもエレゲイア詩だ。この男がその創始者とされていて、ルキリウスも一部読んでみたことはあるが、作品と作者があまりにもかけ離れている。もうほぼ詐欺と言っていい。この男がいつ「報われない恋」だとか「人目を忍ぶ恋」に身もだえするというのだろう。どんな女ために切々と言葉をつづったのだろう。欲しいものは力づくで手に入れて、平然としているはずだ。

 同じ女をかのマルクス・アントニウスと奪い合ったとする話も伝わるが、どうやって彼と張り合えるほど女に好かれたのだろう。目鼻立ちはくっきり際立って、確かにアントニウスよりは気品があるように見える。だが人好きのする気さくさはない。少なくとも今は。四十歳をいくらか過ぎているであろう現在は、非情な薄青い瞳の上で、濃い茶髪を後ろに梳いている。大きい楕円形の頭には、少しでも角度を変えればごつごつとした険しい凹凸が目立つ。少ないが、深く長い皺が走る。少しばかり腹が出ていたが、それでも肥えているように見えないのは、背が高く、肩から手足にかけて隙もなくがっしりと肉がついているからなのだろう。

 反乱軍の砦に火を放ち、女子どももろとも始末せよと命じそうな歴戦の司令官といった姿だ。エレゲイア詩の転覆だ。理想像の破壊だ。本当にヴェルギリウスの親友なのだろうか。あの恥ずかしがり屋の詩人は、この男とちょっとした言葉さえ交わせそうにない。人違いではないのか。本当に、あれほどに愛を惜しまない男なのか。まるで正反対ではないか。

 だからこそ魅かれ合う──そんなことが実際にあるのだろうか。

「あ、あの……」

 衛兵に押され、ルキリウスは床にひざまずいた。やけに大きくて黒光りする机の向こう側に立ち、ガルスはルキリウスを見下ろしていた。そして目を逸らさないまま軽く顎を振り、衛兵たちを扉口まで下がらせた。

「ぼ、ぼくがなにかしましたか……?」

 この場で切り捨てられる覚悟を迫られながら、ルキリウスは小声で尋ねた。

「お前の祖父と叔父とやらがわめいていた。ティベリウス・ネロはお前の大親友で、日々共に学び、鍛錬し、家にも泊まりに来る仲である。だからなにかあれば彼が黙っていないとな」

 ガルスは聞いていなかった。机をまわって近づいてきたが、それでますます見下す圧力を強めた。ルキリウスは丸く縮こまり、このまま綿ごみになって飛び去りたいと願った。

「で、せっかくの機会だ。裁きを待つのは、ネロがいた部屋がよいか?」

 ぎょっとしてルキリウスが顔を上げると、ガルスの顔は変わらず冷淡だったが、かすかに意外の色がよぎった。

「ほう。どうやら本当に親友であるらしいな。それともネロは、自分の生涯の恥をだれかれ構わずしゃべってまわる男になったか?」

「生涯の恥って──」

 ルキリウスがあ然とした。口を動かしかけて、けれども自分もまた同じ一件でティベリウスを殴りつけたことを思い出した。

 だがそれは、ティベリウスの例の行動を「生涯の恥」と考えたからではない。むしろその逆で──。

 ルキリウスは二度あ然とする。ガルスに口角泡を飛ばして抗議しようとしている自分に。心底ではティベリウスの勇敢を賞賛していた自分に──。

「ほう」とガルスはまた意外の息をつく。「なるほど。この私でさえ、ネロがなぜああいった目に遭ったか、最初は知らなかったのだがな。そうなると、つまりこういうことか。お前は父親と同じ行動を取ったネロを好いて、友人になることにした」

 ルキリウスが飛びかかると、その腹をガルスはすかさず右足で蹴とばした。それから余裕を持って、衛兵たちが取って返すのを制した。

「必要ない。下がっていろ」

「……あ、あんた……馬鹿じゃないの?」

 しばし息をするのにもがいてから、ルキリウスはわめいた。

「ぼくがティベリウスを知ったのはそれより前のことだ! アクティウムより前! アレクサンドリアよりも前! だいたいあの時ティベリウスがしでかしたことを、赤の他人があとでどうやって知るんだよ?」

 ルキリウスは早くもコルネリウス・ガルスが大嫌いになった。まずほんの数言で知りたくもなかった自分の本心を思い知らされる。次に最も唾棄すべき形でティベリウスとの縁を捏造される。濡れ衣を着せられただけなら、ただわけのわからない横暴総督というだけだったのに。

「ちょっと待て……!」そこではたと思い至る。「どうして、あんたはぼくの父のことを知っているんだ?」

「お前は馬鹿だな」

 案外負けず嫌いで陰湿なガルスが言った。

「マルクス・アントニウスは我々の敵だった。戦に勝つためには当然、敵側の動向に常に目を光らせているものだ。私はアクティウムからアレクサンドリアまで、ずっと最前線にいた。お前の父親のようなほとんど戦において役立たずの男でさえ、敵の側近ならば情報は入れておくのだ」

 だれかを馬鹿にしないで、この男はひと言もしゃべれないのだろうか? 

「もっともアントニウスも、我々の最高司令官も、そういう人物関係にはさして注意を払っておらんかったがな。上が間抜けだと、下が有能で多忙になるしかないのだ。やつに勝ったのは、我々のおかげだ」

 まただ。今度はアウグストゥスに対して。パウルス・ファビウスほか複数が首都で報告した数多くのこの人の悪態を、ルキリウスはここで全面的に信用に値する事実とみなした。しかも到底、ファビウスが悩んであげるほどの男にも見えない。

「アントニウスが敵?」逸脱になるが、ルキリウスも言わずにいられなくなった。「あんたの恋の敵でもあったんでしょ? 妻が二人もいる十何歳も年上の男に負けるなんて、女心の情報収集不足だったんじゃないですか?」

 これを聞いて、ガルスが一瞬きょとんとしたように見えた。不意をつかれたらしい。それから片方の口の端を上げて、初めて笑みを見せた。

「なるほど」ひどく残忍に見えるが、人間味はなくもない。「ちょっとは面白い小僧のようだ。ティベリウス・ネロの気持ちが少しわかった。いつもマルケルスのような愛され甘ったれの良い子とばかり一緒にいさせられて、退屈していたんだろう」

 人間四十年も生きていると、こんなふうに性根がひん曲がってしまうのだろうか。それとも生まれながらにこの性格だったのか。いくら将軍として有能だろうと──この点も今やだいぶ疑わしいが──詩人として独創的であろうと、この横暴で傲慢で陰湿な男のどこに愛すべき資質があるのだろう。

「ああ、そうですか。そりゃ、結構」

 腹も立っていたし、とっくに運命も握られていたので、ルキリウスは遠慮する気もなくしていた。膝を折って座り、腕を組んだ。

「一方、ぼくにはわかりませんけどねぇ、ヴェルギリウス殿の気持ちが」

 ヴェルギリウスは人違いをしているのではないのか。名高きエレゲイア詩人のコルネリウス・ガルスとは、世界のどこかほかの場所に麗しく存在しているのではないか。そうでなければ、やはりこれは詐欺だ。

「ヴェルギリウス?」

 ところが、このときばかりはガルスの笑みが柔らかくなったのだ。なんとかかろうじて人並み程度に。

「会ったのか? 元気にしていたか、あの恥じらう乙女は?」

「ええ、ええ、お元気でしたよ。あんたの噂話をしてたらすっ飛んでくるくらいにね。あんたが心配で詩作も進まないようでしたよ。そろそろ帰って、安心させて差し上げたらどうですか?」

「帰る、か……」ガルスの顔からたちまち人間味が引いていった。「帰ったらどうなる? この場所をカエサルに明け渡せと? 知らせを聞いて、私は耳を疑ったぞ。ここがあの男の領土になるとはな」

 ルキリウスはあ然として、言葉を失った。

 この人はエジプトが通常通りローマ属州になると思っていた。三年前にこの国を預けらたれきり、本国の情勢から引き離されていた。そして、おそらくかなり後になってから、まさに寝耳に水で、カエサルの私領になると知らされたのだ。

「なにがアウグストゥスだ。ふざけておって」

 やはりガルスは吐き捨てるのだ。

「尊厳ある者? 第一人者? 他人任せで臆病ひ弱なる者、偽善と強欲だけが第一人者だろうが」

 この言葉をティベリウスが聞いたら、ガルスを八つ裂きにするのだろう。

「そうだ、ティベリウス・ネロがあの偽善者に話したのか? お前と父親のことを」

 え? ……なに? なんだって?

「それでお前を差し向けたんだろう? あの恩知らずの悪党めが」

 差し向けた? カエサルが? ぼくを? いったいなんのために……?

 コルネリウス・ガルスを殺すために?

「な、なんで……」

 ルキリウスにはわからなかった。この問いを発していいのか。

 この問いの先になにが待ち構えているか。それを知りたいのか。

「なんで……カエサルが、ぼくを差し向けるんです? ……なんの因果で……よりによって、このぼくを……」

 ガルスは、今やまったく元の冷淡な目つきに戻って、ルキリウスを凝視していた。

「……知らんのか」

 彼はささやいた。

「三年前、ティベリウス・ネロがこの王宮を出た後、自害を図ったアントニウスを、最後まで残っていたわずかな下僕どもが、女王のいる霊廟に運ぼうとした。プロクレイウスが到着した時は、ちょうどアントニウスが霊廟に引き入れられたところだったが、ほぼ同時に私もここに入ったのだ。王宮港から。すると愚かな忠義者が一人、大声を上げて立ち向かってきた。アントニウスの最期を邪魔するな、とな」

 茫然と、ルキリウスはガルスを見上げるばかりだった。頭の中が真っ白になっていく。

「お前に私を殺す理由はあるよな、ルキリウス・ロングス? 仇なのだからな」

 だがガルスの目は言う。ひどく冷酷な声色のまま告げる。

「お前の父親を殺したのは私だ」






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