第一章 -2
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カエサル・オクタヴィアヌスが終止符を打ったのは、自身が勝ち抜いた十四年にわたる後継者争いばかりではなかった。およそ一世紀続いた国家ローマの内乱を、彼は終結させた。もっとも彼は、その最後の戦いを「内乱」と呼びはしないだろうが。
閥族派と民衆派が互いを粛清し、多くの血が流れた。ローマで最も古い名門貴族の生まれでありながら、先代ユリウス・カエサルは民衆派として青年期を生き、やがて現体制を打ち砕く男となった。ガリア遠征を成功させてローマ属州とし、苦難を共にした子飼いの軍団兵たちを引き連れてルビコン川を越えた。首都では元老院議員たちが泡を食って逃げ出した。大ポンペイウスに率いられた元老院派は、ギリシアのファルサロスでカエサル軍に挑み、敗れた。帰国後、ユリウス・カエサルは終身独裁官に就任し、事実上、国家の全権をただ一人手中にした。これにより、ローマのおよそ四百六十年続いた共和政体は終焉を迎えた。
先代カエサルは、野心の果てに空前の権力を我がものにしたわけではなかった。ローマはすでにイタリア本土だけでなく、西はイベリア半島から東はシリアまで、地中海世界の覇者となっていた。このすべてを統治するにあたっては、従来の共和政体ではローマも世界も立ち行かないと考えた。大きな──途方もなく大きな改革が必要だった。先代カエサルはただ一人でその改革を構想し、創造し、だれのことも待たずに実行に移したのだった。
先代カエサルは、元老院議場で、共和政主義者らによって暗殺された。首謀者はマルクス・ブルートゥスとカッシウス・ロンギヌス。カエサルの長年の側近もいた。
先代カエサルに遺言状で後継者に指名されていたのが、その姉の孫にあたるオクタヴィアヌスだった。十八歳の若さだった彼は、以後十四年間を後継者争いの只中で生きた。
「後継者争い」である。共和政主義者たちは、結局彼らの理想を取り戻すことができなかった。「独裁者」を暗殺したもののなにもできず、広大な国家の統治は放置され、あちこちに矛盾によるひずみが、ますます生じるばかりだった。
ブルートゥスとカッシウスは、ギリシアのフィリッピの平原で、アントニウスとオクタヴィアヌスの軍に敗れた末、二人とも自刃した。前後して、先代暗殺に加担した男たちはことごとく復讐された。さらには、反カエサル派への粛清が容赦なく断行された。
オクタヴィアヌスは、今日に至るまでの自身最後の戦いを、「ローマの内乱」とも「後継者争い」とも呼ばない。内実はどうあれ、エジプト女王クレオパトラに対して、国家防衛のために宣戦したからである。しかし実際は、先代カエサルの後継の座をめぐる、アントニウスとオクタヴィアヌスの戦いだった。
四年前、オクタヴィアヌスは右腕アグリッパの事実上の指揮の下、ギリシアのアクティウムでアントニウスとクレオパトラの軍に勝利した。二人は逃亡し、エジプトに逃れたが、翌年の夏、オクタヴィアヌスが王都アレクサンドリアまで追撃した。アントニウスは自身に刃を突き立てた後、クレオパトラの腕の中で息絶えた。女王は捕えられたが、まもなく監視の目を盗んで毒蛇に身を任せ、最期を迎えた。これより少し前、先代カエサルが彼女に産ませたという若き王も、オクタヴィアヌスの配下に処刑されていた。アレクサンドロス大王の最後の後裔国として地中海一の富を謳歌したプトレマイオス王朝は、こうして滅亡した。
オクタヴィアヌスの十四年の戦いは、これで終結した。アントニウスとクレオパトラが滅茶苦茶にしていた東方世界にローマによる秩序を整えた後、彼は首都に凱旋した。二年前の夏だった。
凱旋式は、八月十三日から三日続けて行われた。エジプトから持ち出された富に飾られた三日目の式は、中でもかつてなくきらびやかで、市民を熱狂させた。けれども市民たちは勝利と戦利品ばかりを喜んだのではない。平和を歓迎したのだ。外敵との戦いも、ローマ人同士の内乱も、これで終わりだ。特に後者は、未来永劫起こることのないように強く願われた。長く、あまりにも多くの血が流れた。熱狂収まらぬ中で、オクタヴィアヌスはその切なる願いにも応え、ヤヌス神殿の扉を閉めさせた。戦時ではなく平時になったことを示す、ローマの古い伝統だった。
十二歳だったティベリウス・ネロは、その戦争の終わりを見届けた。そればかりでなく、彼はオクタヴィアヌスの甥マルケルスとともに、アクティウムの海戦を間近で見ていた。最高司令官の縁者として、従軍を許可されていたのだ。エジプトでは思いがけない目に遭ったが、それでもその年の冬にはサモス島で、母と弟と一緒に幸福な誕生日を迎えた。帰国後は凱旋式に参列し、馬上からマルケルスと、最高司令官の馬車を挟んで進んだ。
それからおよそ二年が過ぎた。今や首都ばかりではない。本国、さらには属州、果ては同盟国に至るまでに暮らす多くのローマ市民と同様に、ティベリウスは平穏な日々を享受していた。前年にアウグストゥスとアグリッパが行った全国調査が、その事実を裏付けていた。まだすべての結果は出ていないが、それによれば、現在ローマ市民権を持つ十七歳以上の男子は四百万人を超える見通しだという。これまでに国家が行ったどの時代よりも多い。一つには、先代カエサルが属州民をはじめ数多くの人間にローマ市民権を与えたからであるが、ローマの治める世界全体の活力が、この人たちにより今確かに担われている。この数に加えて、女子や子ども、さらに属州民の数も調査の対象に入れられているという。正式な結果が出るには数年かかるだろうから推測ではあるが、と前置きしたうえで、アグリッパは言った。ローマ世界全体の人口は、四千万人を超えるであろう、と。
ティベリウスには途方もない数だった。継父に従い、地中海をおよそ半周した後であっても、その実感は得難い。けれどもその数は、世界を動かしている人の数であると同時に、国家ローマが担う人の数だ。その人々が飢えずに済む環境を整えて、戦禍にさらされることのない平穏な日々を守ることが、ローマの役目だ。
首都に戻ってからの平穏な日々、ティベリウスは以前にもまして勉学に打ち込んだ。肉体鍛錬も怠らなかった。戦争の終わった今、首都ローマは平穏そのもので、目立った事件はなにも起こっていないように見えた。しかしおよそ一年半の従軍経験を経た今は、一見何事もない平時でさえ、継父やアグリッパが国家のために忙しくしていることを、ティベリウスは知っている。目を離したくなかった。
成人式は十四歳と五ヶ月で執り行われた。慣例どおりで、名門貴族クラウディウス・ネロ家の嫡男は、亡父の後を継いで、晴れて家父長となった。その約三ヶ月前、一月十三日、ローマでは久しぶりに大事件が起こった。
元老院会議の場で、オクタヴィアヌスが自身の権限をすべて市民と元老院に返すと宣言したのである。これは「共和政体への復帰」を意味した。
議員たちは狂喜した。議場の外で、傍聴を許されていたティベリウスとマルケルスは、オクタヴィアヌスの宣言内容よりまずその熱狂ぶりにびっくりし、顔を見合わせたのだ。宣言の意味は、すぐには二人にわからなかった。
オクタヴィアヌスは先代のように終身独裁官にならなかった。そればかりか、亡きアントニウスと事実上分け合っていた統治上の権限をすべて元老院に返すとした。政治と軍事、いずれの権限もである。ローマは共和政に戻るのだ。政務官は市民の選挙によって選ばれ、彼らの代表である元老院議員が国家統治の中枢を担う。属州には政務官経験者の総督が派遣され、その任命は元老院が行う。毎年選出される執政官二人が政策を決定し、軍事を任され、国を率いていく。
どれほど先代カエサルが、ローマ全体の現実を考え、遠い未来まで見据えた末に改革を断行しようと、未だ少なくない元老院議員にとって、彼は「独裁者」だった。国家の権力を取り戻したいと願っていたのだ。狂喜乱舞する議場を覗き見ながら、ティベリウスはそのことを思い知った。
自分たちで国家の統治を担いたいと思うのは当然だろうと、ティベリウスは思った。元老院議員として市民の上に立ち、彼らを導かんとする人々ならば、あるべき責任感であり、大望だ。一方で、気持ちが塞いだのもまた事実だ。ティベリウスは、死後に神格化された先代のカエサルが、多くの血を流したとはいえ、国家のために間違ったことをしたとは、どうしても思えなかった。神君カエサルが命を賭して断行したことは無に帰してしまうのだろうか。すべての権限を手放してしまって、継父は大丈夫なのだろうか──。
この三日後、定例よりずっと早く、また元老院会議が招集された。そこでムナティウス・プランクスという議員から、思いがけない提案がなされた。無上の寛大を表したカエサル・オクタヴィアヌスに、我らは返礼として尊称を送るべきである。「アウグストゥス」と。
オクタヴィアヌスには、すでに二年前の凱旋の時、元老院と市民の「第一人者」という尊称が贈られていたが、これは歴史に先例があり、それに依るならば、時期を限るものだった。
「アウグストゥス」とは「敬虔」や「尊厳ある」という意味の言葉だ。珍しくはないが、尊称として贈られるのは初めてのことだ。オクタヴィアヌスはこれを受諾し、以後はカエサル・アウグストゥスと人々に呼ばれることになる。
もっとも、家族や親しい者に対しては、堅苦しいから「アウグストゥス」はよしてくれ、と照れたように笑ってみせるのだった。およそ普段目にする彼は、大仰な尊称が似合わない、質素で気さくな男だった。
だが、ティベリウスは継父の十四年にわたる労苦を知っていた。その後から今に至るまでも、ローマのために日々休まずに働いていることも、ずっと見逃すまいとしてきた。
そしてそれは、手放したはずの権限をしかと担っているからこそ、やるべきことが未だ山積みなのだともわかりはじめていた。先代の遺したローマを、確かにあやまたずに継いでゆくために。
こうしてローマは、アウグストゥスとともに──いやアウグストゥスの下に、新しい時代を迎えた。多くの人々はまだ気づいていないが、それは確かに、先代カエサルが一人で創造したあの新しいローマである。共和政体に戻されたはずなのに、どうしたことであろう。
そして同年、ヤヌス神殿の扉が早くも再び開かれることになる。