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第二章 -5



 5



「ちょっと待てええええええええええ!」

 十月二十七日、ルキリウス・ロングスの命は風前の灯になった。

 格子窓からは砂と人の足ばかりが見えた。背伸びをすれば、やけに小人に見える人間も時々見えるのだが、ルキリウスが叫ぼうとわめこうと格子を思いきり揺さぶろうと、だれも気にしてくれなかった。おそらく長年に渡って慣れ親しまれた状態なのだろう。

 王宮の敷地内ではあった。広大で、学術施設ムセイオンや動物園もあるのだが、正殿までの最後の城門に仕切られた一帯だった。視線の左手に正門がかろうじて見える。奥にはアーチがあり、王宮港につながっている。今は彼の祖父と叔父が、衛兵に押し留められながら暴れている。

 やがて、ぼちゃん、ぼちゃんと、かなり重たげな水音がした。二人とも海に落とされたらしい。さして殴られなかっただけましだろう。どちらも海の男なので溺れることはあるまい。まぁ、祖父はもう七十七歳であるが。

 けれども心配すべきは我が身であるはずだ。暗殺だと。暗殺未遂。

 しくしく、ずるずると、ルキリウスはしゃがみこんだ。王宮殿は地中海へ突き出た岬の上にも伸びているのだが、この地下牢はその岩場をくり抜いたような作りだった。さすがにそれはあんまりだと思うが、およそ人を入れておくために手入れされている様子はなく、忘れ去られた洞穴だ。出入口は木の格子で、当然鍵がかけられている。上に小窓があり、寝台のつもりらしい板に乗って背伸びをすれば、外の地面が見える。腹立たしいまでにご機嫌な太陽に照らされた、金色の砂たち。今日だけで犬とロバとコルネリウス・ガルスに蹴り込まれて、地下とルキリウスの頭に積もるはめになった。こちらの格子は青銅で、つかんで懸垂すれば、ぽきりと折れそうなほど華奢に見える。もっともそうしたところで、十五歳の人間がくぐり抜けられそうにもない。

 はぁ~~~~っ、と泣き声混じりの吐息をこぼし、ルキリウスは頭を抱えた。なんでだ。なんでこうなった。

 他人の墓参りまでしたのが間違いだったのか。

 ティベリウスが思っていたより、ロングス家の船がアレクサンドリアに着いたのは遅かった。シチリアやアフリカに寄り道をして、あれこれ買ったり売ったりしてきたので、ここまで二ヶ月もの旅になってしまった。それは家の儲けにするためではもはやなく、祖父と叔父の野望のための準備であるらしかった。どこかでそれは挫折してくれないかと、ルキリウスは願っていたのだが。

 アレクサンドリアに入港すると、ティベリウスの手紙のほうが先着していて、ルキリウスは船から下りるや否や、税関役人の一人から受け取ることになった。大勢が荷下ろしやらなにやらで忙しくしているあいだ、ルキリウスは船尾に丸まって座り、手紙を読んでにやにやしていた。

 楽しかったのは、そのひとときだけだった。

 此度のロングス家の航海は、通常の家業とは異なった。どう考えてもローマに物品ないし奴隷を運んだほうが儲かるのだが、逆のことをした。

 ローマは世界じゅうからありとあらゆるものを輸入して、国民の腹と物欲を満たしているというのに、いったい世界に輸出すべきなにを持ち合わせているのか、という話だが、ひとまずロングス家は葡萄酒とオリーブ油、それにポッツォラーナを用意した。前者二品はカンパーニア地方で最高品質のものを選んだが、ポッツォラーナとは砂だ。ただの砂を「奇跡の砂」と称して売りつけたなら立派に詐欺師を名乗れるのだろうが、ポッツォラーナはその異名にかなっていた。これと水と、あとそこら辺の石灰を混ぜ合わせれば、世界一有用なローマのコンクリートが出来上がる。成型自在。応用無限。頑丈堅固。建築家は自身の想像するとおりの建造物を、未来永劫残すことができる。従軍商人を務めるとき以外、ロングス家は奴隷を取引しないことを家訓としてきたが、それでも富を成し得たのはポッツォラーナに依るところが大きい。

 エジプトの新しい神として、ローマの第一人者が加わった。カエサル神殿をはじめとするローマ人の建造物が、これからは都市をにぎわせていく。そのために王宮殿との取引があったので、ロングス家の面々はすんなりと港から敷地内に入ることができた。

 王宮殿ではなくすでに総督官邸である。あるいはカエサル家別邸とでもなるのだろうか。ローマの属州ではなく、第一人者の私領となったのだから。しかし王朝滅ぶとも、世界一豊かな都だった、その王が住まう家だった、その証は確かに残っている。ローマ人が宝物類を片っ端から外界に引っ張り出したあとでさえ、ゆったりと気品を漂わせて、黄金色にきらめいて見える。セラピス神こそ無欠なまでにギリシア風だが、オシリス神や聖牛アピス、そしてスフィンクスの像や壁画は、外界では決してなじむこともなく、それを望みもしないのだろう。今も居心地良さそうに悠然と、果てしない時に身を任せていた。

 しかしもの寂しい感はやはり否めない。ルキリウスが覚えている、思わず息を止めてたたずむようなきらびやかさはもうない。エメラルドの緑、ガーネットの赤、サファイアの青はほとんど消え去ってしまった。古のファラオにしろ、プトレマイオス家の女王にしろ、ローマの第一人者にしろ、この場所にもう「王」はいないのだ。城壁の外は相変わらず世界じゅうの富や物産が集ってにぎやかだが、このかつての王宮は活気少なく、さみしげに見えた。

 最後にここを訪れたのはいつだったろう。

 衛兵が検品を済ませるあいだ、ルキリウスは正門へ足を向けた。三年前、ティベリウスが最後に父を見た場所だ。門番に怪訝な顔をされたが、叔父ガイウスが素敵な銀細工の小壺に葡萄酒を注いで渡したものだから、ご機嫌でほうっておいてくれた。

 一つ手前のレウカスピス港で用意した花が、まだ生き長らえていた。それを正門の傍らに供え、ルキリウスは目を閉じた。故郷の母の分まで心を込めたつもりだ。両横で、祖父と叔父も同じように黙とうしていた。

 父は、生きていれば今年五十二歳になっていた。

 だが父はここで最期を迎えたわけではないのだろう。父に本当のところなにがあったのか、ルキリウスは知らなかった。この時は。

 それから仕事に戻る祖父と叔父から離れ、ルキリウスは敷地内をぶらぶら歩いた。雰囲気はのんびりしたもので、だれにも見咎められなかった。総督の住む建物以外、ほとんど開放状態であるのだろうか。出入りを厳しく制限している様子はない。

 とはいえルキリウスは、一つを除いてどの建物にも入ろうとしなかった。足を向けたのは、おそらくこの敷地内で最も新しい建造物、女王クレオパトラの霊廟だった。ティベリウスが縁起でもないとぼやいていたアウグストゥス霊廟と同じ円筒型をしている。比べればこちらが小ぶりであるのは、敷地内に造ったためだ。急造したために、装飾はないに等しい。だが白くて美しい。すぐに見つけることができた。

「ご参拝ですか? ローマ人?」

 衛兵二人のうち一方が、感じ悪くはなく声をかけてきた。

「はい」父に供えた残り半分の花を、ルキリウスは胸元に寄せた。「縁もゆかりもない者ですが、ここを訪れたからには、アントニウス殿のご冥福を祈らせてください」

 霊廟は少なくとも二階建てに見えたが、中に入ってすぐに用事を済ませられそうだ。真正面に墓石がたたずんでいた。中央に大きく立派なものが二体、それらを挟むようにやや小ぶりなものが二体。

 マルクス・アントニウス、女王クレオパトラ、それに女王の息子プトレマイオス・カエサリオン、そしてアントニウスの息子アンテュルス。彼らが非業の最期を迎えたのは、ほんの三年前だ。

 ルキリウスはアントニウスにもクレオパトラにもカエサリオンにも用がなかった。どれだけ有名な人々であろうと、父が命を捧げた親友であろうと。だからただティベリウスのために、アンテュルスの墓にカガリビバナを置いた。

 はるか南のファイユーム地方まで連れていかれながら、カエサリオンを振り切って自力帰還したティベリウスである。彼の運命には覚悟するしかなかった。本心はエチオピアへでもインドへでも逃げ切ってほしいと願っていたのだろうが、それがどれだけ無情な思いであるかもわかっていただろう。

 だがアンテュルスだけは死なせたくなかった。なにがなんでも生きてローマに帰ってほしかった。実際に継父に強く頼んだそうだ。

 実際には頼んだ時点で、すでにアンテュルスは殺されていた。王宮を出て、アレクサンドリアの大通りを走ってカエサル陣営に戻る途中、ティベリウスは力尽きて気を失った。無理もないことだ。次に目を覚ましたときには王宮に逆戻りしていた。寝台に寝かされ、継父が傍らにいた。その一晩のうちにすべてが片づいてしまったのだ。

 アウグストゥスは一週間余りもアンテュルスの死を伏せていたそうだ。そのあいだティベリウスもマルケルスも希望を持ち続けていた。市井にだれか協力者でもいて、無事逃げおおせた、と

 アウグストゥスはかつてアンテュルスと義兄弟だったマルケルスのために彼の死を伏せたのだが、ティベリウスの嘆願は意外だったらしい。ケラドゥスが言っていた。ここにいるあいだ、アンテュルスはお前を散々痛めつけたそうじゃないか。あの密偵は、お前の泣きじゃくる声さえ聞いたと言っている。それなのになぜかばうのか、と。

 ティベリウスに言わせれば、その件はまったくの誤解ないし別問題であるらしかった。ルキリウスはどちらかと言えばアウグストゥスの主張に賛同したいのだが、ティベリウスが今なお激しく悔いているのを知っているので、彼の代わりに花を供えることくらいはしたいと思ったのだ。ティベリウス自身も、あの後一晩ここにこもっていたらしいが。

 ルキリウスもアンテュルスを見たことはあった。十年も前だ。あの頃アントニウスは妻オクタヴィアとアテネで暮らしていた。アンテュルスに加え、ユルス、マルケルス、マルケッラ姉妹と姉のアントニアが一緒だった。妹のほうはちょうどオクタヴィアの胎内にいた。ルキリウスはずっと父の後ろに隠れていて、彼らと遊ぶことはなかったと思う。とにかくユルスとマルケルスにこれまで思い出されたことはない。

 アンテュルスはユルスの実兄だ。ここに墓参りにも来られない彼のためにも、勝手とは思いながら、ルキリウスは黙とうした。

 クレオパトラの生き残りの子どもたちは、サモス島でユルスと初めて会ったとき、アンテュルスの名を呼んで泣いたそうだ。

 ティベリウスほどではないが、ルキリウスもしばらく墓から動かなかった。墓石も遺骨もないが、父の魂はひょっとしてここにいるのだろうかと、ぼんやり考えた。家族のところではなくて、死後もアントニウスのそばへ留まりたかったのではないか。

 しかしこの霊廟はいくらなんでも畏れ多いよね、とルキリウスは薄ら笑う。父さんにはあの正門の傍らがちょうどいいんじゃないかな、と。

 父がアントニウスのあとを追ったのも、ティベリウスが気を失っていた一晩のあいだの出来事だ。帰国後、ティベリウスはその件を詫びてきたが、ルキリウスが激怒したのはそのようなことに対してではなかった。

 そして今、ルキリウスも父のあとを追う羽目になりそうだ。そんな気はさらさらなかったのに、あんまりだ。

 何度か目を閉じて、うつろに開いて、物思いにふけっていたら、だしぬけに鼻先で鈍い光が交差した。ぽかんと顔を上げて、それが槍の切っ先であると気づき仰天した。あとはあれよあれよという間に、霊廟の外へ連れ出され、地面に転がされ、引き続き血を飲みたくてたまらなそうな鈍い光を見せつけられながら、あ然として見上げると、そこに初めて見る大柄な男が、冥王が玉座を譲りそうなほど情け容赦ない目つきをして立っていた。

「ルキリウス・ロングスはお前か。いい度胸だな」

 それが総督コルネリウス・ガルスだった。






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