第二章 -4
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この後はアルルに引き返すのかと思ったが、アウグストゥスはもう少し北まで旅をすると言った。ヘドゥイ族の土地に、また新たに都市を建設することを考えているらしい。かつて神君カエサルが『ガリア戦記』を書き取らせた場所とされるビブラクテの城塞都市があるが、実のところはいつまでもヘドゥイ族がそこに住まうことを不都合と考えているのかもしれない。万一のときは、神君もてこずった難攻不落の要塞になる。そして最大の激戦地アレシアも近くにあるという。
ユバは小躍りして喜んだが、マルケルスは反対した。ガリアの族長たちは皆良い人に見えたが、万一のことがないとは限らない。体調も不安定であるのに、叔父上の身になにかあったらどうしたらいいのか、と。
それももっともであると、彼の叔父はうなずいた。それから甥を抱きしめ、それよりも私はお前の身のほうが大事であると告げた。そして、十分に気をつけるのでなにも心配することはない、と。
結果、マルケルスをヴァッロに護衛させて、一足先にアルルへ戻すことにした。腕白小僧のアントニアも無論、グネウスとルキウスの兄弟も同様となった。アウグストゥスになにか思うところがあったわけではなく、実際に万一のことがあったとき、自分とマルケルスが共倒れとなる事態だけは避けねばならないと考えたからだろう。有力族長たちへの顔見せは済んだ。彼の後継者が負う次の任務は、初陣を無事に終えることだった。
ティベリウスは特に指示を受けなかった。それで、母も同行するのだからと、このまま継父に従っていくことにした。ドルーススも当然ついてきた。
十月の上旬、少しずつ風が冷たくなってきた。一行は川の道よりも陸路を行った。未舗装の道もあったが、神君カエサルの軍団兵が戦の只中で造り上げた道路が利用できた。アウグストゥスはヴィニキウスと馬車に乗っていた。仕事の話をしているかと思いきや、継父の大笑いが断続的に聞こえてきた。二人は賽の目遊びの仲間だった。高い金を賭けるらしく、リヴィアにはしばしば眉をひそめられていたが。
母は別の馬車に乗り、葉の色づきはじめた景色を眺めていた。ドルーススに隣に乗るように言ったが、ドルーススは自分の馬に乗りたがって、誇らしげだった。陽が傾き、風の冷たさが増すと、ティベリウスは休憩後の隙をついて、ドルーススの馬にまたがった。文句を言うドルーススを後ろに乗せ、自分の胴に紐で縛りつけ、残りの旅を再開した。やいやい聞こえた文句は、やがて安らかな寝息に変わっていった。
もうマルケルスもアントニアもいないので、好きなだけ兄に甘えられるのだ。
「あったかそうだな、ドルースス。うらやましいぞ」
馬車から首を伸ばして、アウグストゥスが笑うのだった。それから振り返った。
「ヴィニキウスもあったかいらしいが、私は暑苦しいの間違いではないかと思う」
ビブラクテに到着してすぐに、アウグストゥスは目的を果たしたようだ。彼を待っていたのは、はるかブリタニアからの使者だった。
この遠征に出るにあたり、首都では反対の声を上げる者もいた。また戦争か。もううんざりだ。せっかく閉めたヤヌスの扉をもう開けるのか。アウグストスは戦下手なくせに、好戦的すぎる。敵を皆殺しにしなければ気が済まない性質なのだな、と。これよりはずっと遠まわしだが、マエケナス邸の詩人たちも作品に不満を織り込んでいるように見えた。内乱の一世紀呼ばれるほどの時を戦争していたのだから、当然の心情ではある。
一方で、新しい展開に胸を躍らせる者もいた。無責任な期待が軽々しく人々の口の端に上った。アウグストゥスはとうとうブリタニア遠征に乗り出すつもりである、と。先代カエサルが初めて足を踏み入れたかの未開の土地を、アウグストゥスはローマの新領土に加えにいくのだろう、と。
カエサルがいつそのようなことを宣言した、とティベリウスは内心腹を立てていた。勝手な期待をして、勝手に失望するのだ。そのくせ自分たちは安全な場所から見物しているだけだ。
やみくもに遠征に反対する者も、これと大して変わらないのではないか。まずカエサルは戦争だけをしに西方へ来たわけではない。それに防衛を疎かにした結果、蛮族がローマ人と属州民を殺したらどうするのか。イタリアに攻めて来ることさえあり得るのだ。首都で安穏としながら、責任をカエサルに押しつけ、鎮圧を当たり前のものとして待つのか。その安穏は、カエサルたちの不断の努力と、先だっての「戦勝」の結果エジプトからもたらされた富に依っているのだろうに。
いずれアウグストゥスはブリタニアへ乗り込むつもりはなかった。かの人々がこれまでに騒乱を起こしていたなら別だが、ローマ人と属州民を脅かす様子は見られなかった。それどころかこのビブラクテには、ブリタニアの二部族が使者を寄越し、ローマとアウグストゥスに恭順を誓ったのだった。アウグストゥスにはこれで十分だった。
実のところはブリタニア人、ガリア人、ヒスパニア人と、少なくはない彼らが祖先を同じくしている。ケルト民族である。文化、慣習、宗教には通じるものがある。
神君カエサルが征服を試みなかったのは、その必要がないと判断したからだ。
おそらく、ブリタニアより脅威であるのは、果ての知れない森林の土地に潜むゲルマニア人だろう。しかし神君カエサルは、そのゲルマニア人にも勝利を収め、ライン川を防衛線として確立していた。今後ローマ人は、その戦略に基づいてさらに防衛を強化し、国家の安全を盤石としていく。
「なんだ、ブリタニアには行かないのか」
兄の膝に頭を乗せて、ドルーススはごろりと伸びていた。
「ぼくも神君カエサルと軍団兵みたいに探検してみたかったぞ」
確かに『ガリア戦記』に描かれたブリタニアの記述は、戦争というよりは探検、冒険だった。上陸からすでに命がけで、無事に帰れる保証はない。それなのに内心わくわくと胸を躍らせながら、未知の島へ踏み込んでいく。敵の気配におののきつつも、好奇心に駆られて進まずにはいられない。まだガリア遠征の途中なのだが。
「兄上! 今度来るときは、ブリタニアの果てまで行くぞ!」
ドルーススは拳を突き上げてきた。その両頬を、ティベリウスは右手の指で挟んでつぶした。
「それを阻止するために、私はお前を見張る」
アルルへの帰途は楽なものとなった。リヨンまで戻り、あとはローヌ川を下るだけだ。アルルの静穏な街並みが見えると、このあたりの血にまみれた歴史が信じ難くなる。たとえばカルタゴの将軍ハンニバルはアルプス越えの前、この川を渡らんとしてガリア人と戦闘になった。馬はもちろん、戦象たちまでこの川に入ったのだ。
アルルでは、マルケルスが少しばかりふくれ面をして待ち構えていた。ティベリウスは詫びながら、彼を抱きしめにいった。しかしマルケルスにはオクタヴィアや妹たちと過ごす時間が貴重であるはずだ。
しばらく会えなくなるのだから。
十一月、アウグストゥス一行はアルルを出発した。オクタヴィアはマルケルスに接吻の雨を降らせてから、子供たちを連れ、船に乗り込んだ。航海に適切な時期は過ぎているが、ローマの外港オスティアまで五、六日の距離であるから大丈夫そうだった。いざとなれば陸沿いに避難できる港もある。
ユリアもともに帰ることになったが、彼女にとってはようやく喜ばしい日々が待っているのだろう。実父も継母もいない。スクリボニアにもきっと会いやすくなる。
ユルスも帰るが、彼には再来年の軍団副官の職が予定されているとのことだ。クレオパトラの子どもたちも、兄とともに船に乗る。
気の毒なのはユバで、オクタヴィアたちとは別の船に乗り、ほぼまっすぐに南下し、自国に帰るそうだ。無事に到着できるだろうか。とても名残惜しそうに振り返っていた。このまま留まって地理の実地調査をしたい気持ち六割、家族と離れるのがさみしい気持ち四割といったところなのだろう。人質としてローマに連れてこられ、だれとも血がつながっていなくても、ユバはカエサル家の家族だ。ティベリウスにとっても実の兄同然だ。
「ドルースス!」
実の妹同然のおてんばもいた。
「ちゃんとティベリウスの言うことを聞いて、お利口さんにしているのよ! ヒスパニア人と決闘なんかしちゃだめよ!」
「わかってるよ! お前こそお利口にしているんだぞ! ぼくが帰るまでは木登りも禁止だぞ! あと、兄貴以外の男にほいほいついていくんじゃないぞ!」
するとアントニアは乳母の腕から抜け出した。またついていこうとする気かと家の者たちが頭を抱えたが、アントニアはただドルーススに体当たりしただけだった。
「いてぇ!」
体当たりしただけに見えたが、もしかしたら接吻のつもりだったのかもしれない。ドルーススは大きくよろめいて、涙目になっていたが。
「はいっ」とアントニアは、ドルーススになにかを突き出した。「ガマちゃんを一緒につれていくのよ。ドルーススがさみしくないように」
それは、お気に入りのカエルのブローチだった。ガマちゃんとは、家の庭に出没する大ガエルで、まったく同じ生き物かはわからないが、ドルーススとアントニアが毎年探し出して、可愛がっている。
「……別にさみしくはないぞ」
そう言いつつも、ドルーススはそのカエルを受け取った。実物よりもだいぶ小さいが、溌溂とした金色の輝きが、持ち主を思い出させる。
ドルーススはカエルを握りしめた。
「見てろよ、アントニア。ぼくはずっとたくましくなって帰ってくるからな。お前をびっくりさせてやるからな。それで、お前を軽々と抱っこして、それで……それで……──」
二隻は、好天のうちに出航した。アウグストゥス一行もアルルを発った。
十一月十六日、十五歳の誕生日を、ティベリウスはナルボンヌで迎えた。二十一歳のルキウス・ピソが祝いの宴を開いてくれた。
「まだ十五歳……」
宴のたけなわが過ぎた頃、ピソはティベリウスの肩を抱いた。嘆きながらも感慨にふけるように、ため息をついた。
「つまり君は、来年の初陣を十五歳のまま迎えるわけだ。ちょっとした超法規的事件だぞ。十七歳までまだ二年もある」
「マルケルスだって十五歳だ」ティベリウスは指摘した。
「でも誕生日が春と冬ではだいぶ違う」ピソは笑いながら首を振った。「君が並よりたくましいのは認める。知力も判断力も優れている。なにしろ我らが『長老』だ。けれど事実として、君はまだ十五歳の少年なんだ。ろくに髭も生えていない」
「私は大丈夫だ」
「当たり前だ」ピソは即座に言った。「なにがあろうと、ぼくが君を守る」
ティベリウスはにらむように見つめたが、ピソはまともに目を合わせてきた。
「約束したよな、四年前のアクティウムで。君が初陣するときは、ぼくがそばにいると」
「だからまた軍団副官に志願したのか?」
「別に何度務めてもいいはずだぞ、軍団副官は。著名人の墓によく彫られているじゃないか、軍団副官三回、前法務官格総督を二回で、執政官も二回──」
「ピソ……」
「もっとも君があと二、三年待ってくれていれば、軍団長になっていられたんだがなぁ」
「ピソ、君の気持ちはありがたいが──」
「わかってる。わかっているよ、ティベリウス」
ピソはティベリウスの肩を叩いた。
「きっと遠からず、君はもっと上の場所に行く。年齢なんて飛び越えてな。でもだからといって、君を守れないわけじゃない。君のためになにかできるはずだ」
「……君は心配しすぎだ」目を逸らし、ティベリウスはうつむきがちに言った。「私だって、君に傷を負ってほしくないのに。……でも感謝している」
ピソがそばにいてくれて心強い。それは四年前も今も同じだ。
「ああ、わかってるって」
ピソは肩を叩き続ける。この陽気で、前向きで、常に泰然自若とした年上の友は、幼い頃から変わらずティベリウスの心身を軽くする。
輝く目がからかうように、ティベリウスの顔を覗き込んできた。
「まったく、あの時はぼくに抱え上げられていたのにな。あの時すでに君は辛い目を見た。初陣だったぼくは無知で力不足だった。でも今度はそうはいかない。お返しをさせてくれよ、レントゥルスの分まで」
「彼も来る気だったんだな」
「ああ。でもさすがに止められた」
ピソは苦笑する。
三年前の初陣時、レントゥルスはティベリウスを思うあまり我を忘れ、軍規を無視してあわや命を落とすところだった。幸い治る怪我だけで済んだが、軍団副官としては失格だ。回復後、残りの任期を軍の下働きとすることで、アウグストゥスはレントゥルスに償わせた。そして今回も、ティベリウス絡みで無茶をされては困ると判断したのだろう。
「ぼくもあいつと似たり寄ったりだし、立場が逆なら同じことをしただろうよ」とピソは苦笑し続ける。「でもまぁ、あいつも再来年の軍団副官は認められたそうだ。名誉挽回の機会だな。もしかしたら入れ替わりの時に会えるかもな」
ティベリウスがルキリウスから第二の手紙を受け取ったのは、この四日後だった。前回よりはやけに薄い……どころか、かろうじて折りたたまれているだけの紙切れ一枚だった。よく届いたものだ。
間近に迫ったピレネー山脈は、美しくはあるのだが、日に日に真っ白い怪物に見えてくる。鋭い山肌で迫り、人の群れを切り刻みそうだ。あれを来年には越えるだなんて、信じ難くなる。
眉をしかめながら、ティベリウスは紙切れを開いた。
日付は十月二十七日。
親愛なる、親愛なる、ぼくのティベリウス
おお、愛しき友よ。誕生日おめでとう。
そんな折に早々に、このような手紙を書くのは甚だ不本意だけども、読まれるころにはもう手遅れだろうから、ちっぽけな誇りを捨ててもう書いてしまうことにする。つくづく自分に愛想が尽き、いったいまったくなんのために君と離れてこんなところに来たんだが、前の手紙のささやかな勇ましさが恥ずかしくて死にたくなるんだけど、もうどうでもいいかな。
簡単に言うと、ぼくはさっき投獄された。アレクサンドリアで。嫌疑は、総督コルネリウス・ガルスの暗殺未遂。