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第二章 エジプトの姫 -1

第二章 エジプトの姫



 1



《日付はアウグストゥスとアグリッパが執政官の年(前二十七年)、八月末日》


親愛なるティベリウス・ネロ

 今頃は旧北イタリア属州に差し掛かったころかな? それともカエサル・アウグストゥスはゆっくりした旅が好きみたいだから、まだ首都からそんなに離れていないかな?

 なんにせよ、ティベリウス、ぼくもすでにローマを離れた。君に必要以上に長い手紙を書くのは、そうしたほうが運ぶ途中で紛失される可能性が低くなると思うからだ。気休めだけどね。

 君は一緒に来ないかとぼくを誘ってくれた。いったいどんな口実でぼくをガリアやヒスパニアまで同行させられると思ったのか。これだから貴族のお坊ちゃんは。おエラいさんの親族とはいえ、君は新入り軍団副官の一人にすぎないのに。そうでしょ?

 でも君は色々考えてくれたっけ。軍団副官の側近とか(非公式だろ)、従軍するドルーススの護衛役とか、なんなら我が祖父さんの船を借りて従軍商人見習いをしてくれればいいとか。

 最初の二案は君の正気を疑うしかないが──ぼくなんかに護衛させて、君は最愛の弟が安心だと思うのか──最後の案は確かに魅力的だった。だからぼくも、君に即答できずに考えた。

 見送りの時まで、結局返事をしなくてすまない。けど、そうでもしないとぼくは魅力に屈してしまうと思った。

 んで結局、ぼくは今こうして君と真逆の方角に進んでいるし、これからますますそうすることになる。ぼくはもうすぐ我がロングス家の故郷ポッツオーリに帰る。それからアレクサンドリアに行く。

 ティベリウス、君はぼくのことを心配して遠征への同行を勧めてくれたんだと思う。いざとなったらカエサルだって、いきさつを説明すればわかってくれると思ったんじゃない?

 あのね、ムレナやカエピオのことなんて、もう気にする必要はないよ。ぼくだって学ぶんだ。次は断る。問答無用で、一目散に逃げる用意もある。

 彼らがぼくを共和政主義の旗代わりにするとでも思った? 父親がブルートゥスの親友で、アントニウスの親友でもあったから、これ絶好と反カエサル派に担ぎ上げられると? ねぇ、いくらなんでもそれは過大評価というか、自分の周りだけ大きく見えすぎというか……おお、畏れ多くてこの先もう書けなくなりそうだよ、もう。

 いや、わかってる。わかっているよ、ティベリウス。君があの一件を悔やみに悔やみ、心底からぼくの身を案じてくれていることは。もしぼくがもっと早く此度の同行を断っていたら、君は密かにぼくに護衛でもつけたんじゃないかとさえ思う。ほら、以前に君がぼくをユルスにつけたように。

 でもね、君、ぼくはあの一件のために、首都を離れることにしたわけじゃない。これはそれよりずっと前から考えていたことだよ。たぶん、君が我が父の遺骨を家に持ってきた日からね。

 父さんのことを、ぼくの中で決着をつけなければいけない。そのためにはアレクサンドリアに行くしかない。行ったところで、もう父さんはどこにもいないんだけど、それでもなにかは変わるかもしれない。少なくともぼくらの気は済むかもしれない。

 ぼくらと言ったが、決着をつけたいのはぼくだけじゃないんだ。ぼくの祖父さんと叔父貴も、商売のついでに父の最期の場所を訪れるつもりだ。だからぼくは久しぶりにロングス家の船に乗るよ。

 非常に申し訳ないことに、母さんは残していくことになる。首都じゃなくポッツオーリで、昔馴染みの人と縁談があるんだ。母さんは今日も泣きながらぼくたちに同行したいと言っていた。なぜ結婚しなければならないのか。私だけ家族と夫を追かけていけないのか──って。でも退けるしかなかった。縁談相手は、母さんをよく知っている人だ。優しくて、辛抱強くて、母さんを忘れずにいてくれた人だ。ブルートゥスやらアントニウスやらのために妻を長い時間ほったらかしにしていた男より、きっと母さんを幸せにしてくれるはずなんだ。その父さん亡き今、ぼくという唯一の枷も無事成人したわけだから、もう母さんは自由になっていいはずだ。……そう思ったのに、今日も母さんは、私の自由をどうしてあなたたちが決めるのか、と泣いている。……ああ、そうだ、男というやつらはいつだって身勝手なんだ。本当に申し訳なく思う。

 母さんを置いていかないといけない最大の理由は、祖父さんと叔父貴が「一生に一度の大冒険。世界の果てまで大航海」なんて企んでいるからなんだけど、こっちはもう知らん。好きにしてくれ。

 ぼくは行かないから。当たり前だよ、ティベリウス。ぼくはインドへなんて行かない。蛮勇の君でさえ行かなかったのに。

 君が返して寄こした硬貨は、今確かにぼくの手元にある。「これから帰る」か。でもぼくらが次に会うのはいつになるんだろうね。

 君は来年の初陣が終わったら、ひとまずお役御免か。ぼくもその頃に戻ろうと思う。たかが一年そこそこで、なにが変わるんだか疑わしいけど。ぼくは正直自信がない。きっと君は、またぐっと大人になって、はるか彼方の人になっているのかもしれないのに。もう一緒にまわって踊ったり、枕を並べて朝まで駄弁ったり、あんな楽しくて無邪気な日々はもう戻ってこないかもしれないのに。

 ティベリウス、ぼくは一緒に行きたかったよ。まだ見たことがないあらゆるものを一緒に見て、感動したかった。君におんぶに抱っこで、これからもずっとそばにいたかったよ。でもそれがどんなに過ぎた望みか、ぼくはずっと前から知っていた。

 ともかく、ぼくはこの一年余りを犠牲にする価値はあると信じる。そうせざるを得ないところまで来たし、そうとでも考えなきゃやっていられない。

 君たちの出立の日を思い出す。もう陽も沈みかけの時間の、アウレリア街道だった。カエサルが市民の見送りがおおごとになるのを気にして、こっそり出発することにしたんだっけ? それでもぼくは、君を見つけた。思ったとおり、最高司令官の輿の左側で、軍装して騎乗していた。右側にはマルケルスが同じようにしていたけど、君の存在はやっぱり際立っていた。紫色の空の下で、壮麗な一個大隊に囲われていてもなお。ぼくはいつまでも見ていたかった。

 君もぼくに気づいた。この日まで先延ばしにしていたぼくの返事を、わかってくれたんだよね。スブリキウス橋を渡って、カエサル庭園を過ぎたところで、ぼくは待っていた。そう言えば、五年前に君に別れを告げられた場所も、この庭園だったっけ。なんだか癪だったから、だれかの墓石に尻を乗せて、君たちに背を向けていたんだけど、近くまで来たらさすがに退くしかなかった。そしたら君がなにかをはじいた。ぼくを見もせずに。それは墓石に当たって跳ねて、そばの草むらに落ちた。ぼくがあわあわと足下を探っているうちに、君は行ってしまった。

 これから帰る、か。君にしてはあんまりな嘘だ。

 無事に帰って来いよ、ティベリウス。

 そしてもっと、ぼくに君を見ていさせておくれよ。

 届くかわからないけれど、ときどき手紙を書くよ。





「こんにちは、ルキリウス・ロングス殿」 

 ポッツォーリから眺める海は世界一だ。エーゲ海を含む地中海の東一帯を船で渡り歩いたあとでさえ、そう思うのだ。ティベリウスは、かつて従軍中に旅したロードス島のリンドス岬の絶景を挙げる。カプリ島からの眺めも。この場所からも見えるかの島は、二年前の首都への帰途、アウグストゥスが買い取ったそうで、ティベリウスもその時に継父と一緒に訪れたという。

 ──だいたいの絶景が海の美しさに頼っている。それももちろん大事だが、カプリのすばらしいところは、いったん高台に立ったなら、あとは前後左右どの方向を見ても言葉に尽くせない美が広がっているところだ。海の青、木々の深緑、岩肌の白の対照を、お前も見るべきだ。

 いつだかそんなふうに力説していたのを覚えている。ルキリウスからすればわりとどうでもよいところでむきになるので、可愛いと思う。口に出したら八つ裂きにされそうだが。

 確かにポッツォーリを含むナポリ湾一帯は、美しいのは文句なしとしても、ティベリウスにしてみたら色々と余計なものが目についてしまうのだろう。盛んに出入りする船とか、釣り人たちとか。カプリ島などと比べれば、人家も目立つ。最近はマルクス・アグリッパが戦争のために近くのアルヴェルヌス湖とルクリヌス湖を開発した。平時の現在は海軍基地として利用されている。

 そういうのをひっくるめて美しいと思うんだけど、というルキリウスの意見に、たぶんティベリウスは納得してくれないのだろう。でも一度ポッツォーリに滞在してみるといいのに。一週間くらい。外海よりも薄い青の海を、船乗りたちの威勢のいい声を聴きながら、じっくり眺めてみるといいのに。桟橋にでも座ってさ。

 この海は、君の瞳の色そのものに見えるよ。

 同名の父親の墓を、さすがに港湾内には造れなかったが、ナポリ湾がよく見える小高い丘の片隅を、一家は用意することができた。明日この港から発つので、ルキリウスは一応のこと、挨拶に訪れた。

 「一応」と言うのは、この場所に父が本当に眠っているのか、ルキリウスには未だ確信が持てていないからだ。ティベリウスが父の本物の遺骨を持ってきてくれたことは疑ってはいない。ただ、あの父のことだから、遺骨は遺骨であるとして、肉体が滅びた今となっても、彼が生涯を共にした親友のそばにでもいるに違いないと思う。アントニウスのところか、それともマルクス・ブルートゥスのところか。かの暗殺者の遺骨は、母親のセルヴィリアの下へ丁重に送り届けられたと伝えられるが、ひょっとしてかの気の毒な女人の別荘も、このあたりにあったのではないか。ポッツォーリから西へナポリ湾を臨む地域は、バイアエと呼ばれる温泉の名所を中心に、昔から富裕層がこぞって別荘を建ててきたから。

 いや、ともかくルキリウスは、父親が家族のところに帰ってきたという気がしないのだ。気がしないだけでしかなく、もう父は世界のどこにもいないのかもしれないが、そんなことはどうだっていいのだ。

 アレクサンドリアに行ったって、そこに父はいない。アントニウスと女王クレオパトラの眠る霊廟を訪れたとて、同じだ。それくらいわかっている。

 しかしルキリウスは、これから亡霊の足跡を追かけようとしている。そこになにがあるかわからないのに──なにもない可能性が最も考えられるのに、父の最期の地へ行こうとしている。そうでなければもう気が済まないのだ。

 別にアレクサンドリアは初めてではない。ごく幼い時に二度ほど訪れたことがある。父がアントニウスの行くところどこへでも行く人だったので、息子もできるかぎりは追いかけたのだ。かつて王都だった日、人種入り乱れる雑踏を、父に肩車されて進んだ。あの時のルキリウスは、確かに世界のだれよりも王様だった。

 行きたくない。だからもうアレクサンドリアになんて、行きたくないのに──。

 そのうえおまけに、なにしろあの都は、三年前に愚かで無謀で自信過剰なティベリウス・ネロが、義理の従兄弟の身代わりになって、たった一人捕えられていた場所だ。誇り高すぎて嘘の一つもまともにつけない男が、咄嗟に他人様の身代わりになるなどという器用な芸当ができたとは。だからなおさらルキリウスは許せなかったのだ。君はこういう事態になったらいつでもマルケルスの身代わりになるつもりで、あらかじめ心の用意をしていたんだろう、と。ティベリウスは否定したが、ルキリウスは信じなかった。だいたい人間というものは、自分のことがいちばんよくわかっていないのだから。

 ティベリウスの大変な虜囚を、ルキリウスは追体験するつもりなどない。そんなことはできるわけがないからだ。実にまったく腹立たしいが、今更ティベリウスと同じ経験なんてできない。喜びも悲しみも困難も共にしたいと、いかに願ったところで叶うはずもない。

 人間すべてがそうだ。その人の経験も思いも、その人だけのものだ。ティベリウスがだれよりこの事実に同意するはずだ。共有したいと考えること自体、不遜なことなのだ。

 でも、たとえば……あのほら吹き占い師のカエピオに、頼んでみたらいいのか? 過去の時間に行かせてくれとでも。

 ああ、たとえその夢が実現したところで、結局ルキリウス・ロングスにはなにもできやしないだろう。

 だから今もこうして、望めば共有できる未知の機会を無下にしているのだ。

 二度と会えないことだってあり得るのに。

「ルキリウス・ロングス殿! こんにちは!」

 ルキリウスは飛び上がった。あわや父の墓石に体当たりを食らわせ、そのまま血を吹いて果てるところだった。墓石にしがみつき、震えながら振り返ると、まったく想像もできない人物が、微笑んで立っていた。

「いやはや、驚かせてしまいましたかな?」

 申し訳なさげにさらに目尻を下げるのだが、生来の人の良さが際立つばかりだった。

 アウグストゥスの右腕。当代一の将軍。ローマ世界第二位の男。

 マルクス・ヴィプサニウス・アグリッパ。

「な、なにしているんですか、あなた!」

 見たことはあったが、ほとんど初めて言葉を交わす大物へ、ルキリウスは思わず怒声を浴びせていた。

「なんでこんなところにいるんですか!」

「いやぁ、実はあそこの駐屯地にちょっとした用事がありまして」

 その駐屯地とは、彼が造り上げて、事実上今も司令官でいるところの海軍が詰める基地だ。セクストゥス・ポンペイウスの海軍を破り、さらにアントニウスとクレオパトラの海軍も破った今は、彼こそ世界最強の海の支配者である。

 それなのにこの大物は、なぜにこんなに腰が低いのか。

「そういう話じゃないんですよ」動揺するルキリウスは、礼儀を忘れてしまいそうだ。「あなたは執政官ではないですか、このローマの!」

「そうでしたな!」

 アグリッパは元気よく応じてきた。ルキリウスは頭にきた。

「こう、気軽に首都を離れていいもんなんですか? 同僚のカエサルは今ヒスパニアに向かっているのに」

「おっと、確かに、残る一方には首都を守る役目がありますな。さすがは我が婿ティベリウス・ネロのご友人」

「まだ婿ではないでしょうが。いや、どうでもいいんだけど、だからなんでここにいらっしゃる? かつて先代カエサルは、首都の防壁をこんなところまで壊しに来られましたっけ?」

「君はやはり面白い若者だ」アグリッパは笑みを深めた。「いや、お恥ずかしい。日頃水道工事の監督で、水源のそばまで足を伸ばす日もありましたから、うっかりしておりました。それにしても君が初めて私をたしなめてくれた人だ。……ひょっとして市民は私を、執政官だと思っていないのだろうか?」

「そうかもしれませんね、気さくすぎて」

 フンと鼻を鳴らし、ルキリウスはそっぽを向いてやった。アグリッパの声に苦笑がにじんだ。

「しかしまぁ、歴史を振り返れば、執政官が二人とも首都を留守にした事例は少なからずあります。かのガイウス・ネロとリヴィウス・ドルーススしかり。思えば先ごろのアクティウムでも──」

「それは戦時だからでしょ。戦時だからなおさら共倒れに気をつけなきゃならないと思うんですがね」

「おっしゃるとおり。しかしいざとなったら補欠執政官もおりますからな」

「今はいざとなってないから」ルキリウスはため息をついていた。「それともなんですか、アウグストゥスの身にもしものことがあったら大変なので、実は海上からヒスパニアに乗り込む計画をお持ちですか? ええ、もう、まさかあなたが遠征に同行しないと知って、皆驚いていましたよ。あなたばかりか、メッサラ・コルヴィヌス殿もスタティリウス・タウルス殿もお留守番だ。本気で大丈夫なんですか? 叔父上を尊敬してやまないマルケルスでさえ、実のところさすがに心配そうでしたよ」

「君の言うとおり、いざという事態は常日頃考えておりますが」アグリッパはやけに素直に認めた。それから穏やかに笑いかけてきた。「その心配は無用だと思いますよ」

「あなたが出張るまでもない戦ということですか」

 答えを待たず、ルキリウスはまた視線を外した。

「……ところであなたの先導警吏の皆さんはどちらですか?」

「丘の麓で待たせております」

「彼らが気の毒なんですが」

「いやはや、恐縮至極」

「まったく!」

 ルキリウスはついにアグリッパに背を向けた。父の墓石に向き直り、このオッサンをなんとかできないかと訴えてみた。

 本当にこの人は、ローマ一の将軍なのだろうか?

「ルキリウス」そっと背中を抱くように、アグリッパの声は優しかった。「君のお父上を死なせてすまない」

「なんであなたが謝るんですか」

「私にはきっとできることがあったからだ」

「どいつもこいつも──」ルキリウスはうめいた。「あなたもティベリウスと同じことを言う。いったい自分をだれだと思っているんだ? 神か? ぼくの父は自分の好きに生きて好きに死んだ。それでおしまいでいいじゃないか」

「お父上のためじゃない。坊ちゃんも私も、君のために悔しく思っている」

 にらみつけていた墓石が、いつのまにかゆらゆらと歪んで、にじんでいった。ひどく熱いので、きっと残暑による陽炎だ。

「……いつまであなたは、ティベリウスを坊ちゃん呼ばわりだよ」

 しぼり出すように、ルキリウスは文句を言った。

 アグリッパが横に並んできた。ルキリウスを見ないようにしながら墓石の前にかがみ、紐でまとめた小ぶりな花束を置いた。彼の娘が好んで摘みそうな野花だ。

 しばしアグリッパは目を閉じていた。ルキリウスは急いで目と鼻を袖で拭った。

「行くのかい? アレクサンドリアに」

「……どうして知っているんですか」

「君の家の船が、出港準備をしているのが見えた」

「あるいはティベリウスがぼくのことを頼みましたか。よもやまさか執政官殿に? ぼくが悪い大人につけ狙われないように」

「いいや」

 アグリッパが立ち上がった。その優しいまなざしを、今度こそルキリウスはまともに見返したが、首を大きく反らして見上げねばならないのがひどく悔しかった。

「アグリッパ、あなたは平民の生まれだと聞きました。あるいは騎士階級だとも。どっちでもかまわないのですが……」

 笑みでも浮かべてやりたかったが、上手くいかない。顔の筋肉が勝手にひくひくと吊って、言うことを聞かない。

「だってどうしたって……ぼくはあなたのようになれない。もうわかっている。自分が凡庸なのは、自分がよくわかっている……。それに……それに……──」

「ルキリウス」アグリッパが目を細めた。「君は強い男だな」

「馬鹿言っちゃいけませんよ」

 踵を返し、ルキリウスはずんずん丘を下った。ぐいっと袖でまた顔をぬぐうのに懸命で、墓石への別れの挨拶さえ、きちんと済ませられなかった。

「君の旅に、幸あらんことを」

 アグリッパの声が追いかけてくるが、無視する。無理にでも歩幅を大きくする。

「ルキリウス」

 優しい声は、今ごく自然と威厳を帯びて聞こえた。

「君が私でないように、ティベリウス・ネロもカエサル・アウグストゥスではないよ」

「ああ、ええ、だからなんです!」

「ルキリウス・ロングス」

 アグリッパは声を張った。

「お父上はだれより忠義な友だった。けれども君が友に選んだ男は、ブルートゥスよりもアントニウスよりも優れているよ」

「そんなこと──」思いきり振り返り、ルキリウスは叫んだ。「とっくにわかっていますよ!」

 そう、それこそが自慢だ。世界のだれもかないはしない、ルキリウス・ロングスの誇りだ。






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