第一章 -13
13
「別になにもされちゃいないよ。どうしてそういう話になるのさ?」
自宅にティベリウスを招き入れたルキリウスは、両まぶたを腫らしていた。中庭まで出てきていたが、気まずそうに踵を返そうとした。ティベリウスはその両肩をつかんだ。
「だったら、なぜそんな顔をしているんだ!」
「そんな顔ってどんな顔だよ。あいにくとぼくは、望むいかんに関わらず生まれながらにこういう顔で──」
「ふざけている場合か!」
ティベリウスはほとんどルキリウスをつかみ上げていた。
「無理矢理連れていかれたのか? ぼくがマルケルスの誕生日会に出ているうちに!」
「違う……」否定するのだが、ルキリウスはティベリウスの顔を見ようとしなかった。「違うよ……」
「これを!」ティベリウスは右手を突きつけた。「これを失くすような目に遭った! 奪われたのか?」
「あのねぇ、小銭くらいだれでも落とすことが──」
「これは小銭じゃない」
指のあいだであの硬貨を、ティベリウスはへし折らんばかりだった。ルキリウスには彫り込まれた自らの名前が見えているはずだった。
「だからお前はこれを持っていたんだろ! 今も!」
ルキリウスはうめいた。口減らずが言い返せないくらいには真実を突いていた。
ティベリウスは左手の親指で後ろを示した。騒ぎを聞きつけ、ロングス家の面々が二人を遠巻きにしていた。
二人がこの場でもめるのは初めてではなかった。
「お前の家の者たちに訊いてもいいんだぞ? だれかはなにがあったか見ていたはずだ」
「脅すのかよ!」
「嫌なら話せ! ぼくは引き下がらない!」
ルキリウスを引き寄せ、ひねりつぶすようにティベリウスはにらみつけた。これでも待っているつもりなのだ。体じゅうが燃えているのを感じていた。マエケナスへ非礼を詫びる間も惜しみ、マルケルスにも継父にも断りを入れず、奴隷一人にのみひと言だけ言い置いて、まっしぐらにエスクィリーノの丘を駆け下ったのだから、当然だった。
怒りが収まらなかった。だがぶつける相手が違うはずだ。しかし本当はカエピオたちにさえ向けた激情ではなかった。彼らの徳性にいったいなにを期待するというんだ。
いつも、いつまでも、肝心なことをなにも言わないルキリウス・ロングスを許してはならなかった。そして、不穏な気配を感じていながら、なにもできなかった無力なティベリウス・ネロこそ報いを受けるべきなのだ。
「……わかった。わかったよ……」
ルキリウスは自分の手を、震えて燃えているティベリウスのそれに重ねた。彼の肩を砕く寸前のようだった。
「話す……。話すから、そんなに怒らないでくれ。君が怒るようなことなんて、なにもなかったんだから……」
「そうは思わない。お前は自力で帰れない状態だったのに!」
「悲観主義者め」ルキリウスはため息交じりに言った。あの輿の垂れ幕の奥に見えた光は、黄色い宝石をあしらった指輪で、今も彼の胸元で輝いている。
ルキリウス親子は、どういうわけか指輪を指にはめないのだった。
「こっちへおいでよ、ティベリウス。ここじゃ、目がうるさいから……」
ティベリウスの手を引いて、イルカの壁の前を通り、ルキリウスは自室へ入っていった。寝台に並んで座ると、ティベリウスを横目に見た。だが彼に正面を向け、まだ怒りに燃えているのを見て取ったのだろう、垂れた目尻をさらに下げて、口の端も下に曲げた。そのままうなだれてしまったが、やがて強いてまた気力を奮い起こすように、意固地な無表情を作った。彼もティベリウスに正面を向けた。
「ここで素っ裸にでもなればいいのかな? そうしたらなにもなかったってことを納得してくれる? まったくどんな卑猥な想像をしたのか知らないけどさ、自分のほうこそ頼まれてもいないのに人の身代わりになって、野良兵どもに乱暴されそうになったくせに。殴られ蹴られ監禁され、挙句はるかエチオピアだかインドだかまで連れていかれるところだったくせに」
「話を変えるな。ぼくの昔の話をしているんじゃない。お前の今の話をしろ」
ティベリウスはさらに傲岸な口調で迫った。
ルキリウスは大きくため息をついた。それから腕組みをして、声の感情を消した。
「……ああ、君の言うとおりだ。マルケルスの誕生日会という時機を狙ったんだと思う。チルコ・マッシモでの鍛錬を終えて家に帰ってきたら、彼らが待ち伏せしていた。君と同じように」
結局皮肉がにじんだ。それはつい先程のことではなく、二年前の絶交沙汰の後のことだ。ティベリウスは別のことを訊いた。
「彼らとはだれだ?」
「ルキウス・ムレナとファンニウス・カエピオ、それからホラティウス殿」
「やっぱりホラティウスもか!」
両拳を握りしめ、ティベリウスは立ち上がった。
「あの人は昨日、お前のことをひと言もぼくに言わなかった! 友人だと知っていながら! ぼくからお前の居所を聞き出そうとしておいて! ぼくの留守にお前を狙っておいて!」
「落ち着いて。落ち着いておくれよ、ティベリウス……」
ルキリウスは両手をかざしてなだめる仕草をした。だが無理な話だ。
「許しておけるものか! ぼくは彼らを二度と信用しないし、事と次第によっては償いを求める!」
「それはやめてくれよ。たぶん、ホラティウス殿はなにも知らなかった……」ルキリウスは弱った顔で言った。「あの人は無邪気だったんだよ。心からぼくと、ぼくの父さんの昔話をしたかったんだ」
「なにも知らなかった?」ティベリウスはくり返した。「じゃあほかの二人はなにを知っていたんだ? なにを企んで、お前を連れ出したんだ?」
「……わからない」
ルキリウスはしょんぼりと言った。ティベリウスはうなりながら見つめたが、ルキリウスは本当にそう思っているように見えた。
「ヴェルギリウス殿からぼくのことを聞いて、ホラティウス殿がぼくと会いたがってくれた。そこまでは問題ないよね? それに、君はどう思っているか知らないけど、ホラティウス殿ほどの名高い詩人に声をかけられたら、ぼくみたいな庶民にはとんでもない名誉なんだ。ましてぼくは、ほんの子どもだ。断るなんてどうかしている」
「お前が断りにくくなるように、あの二人がホラティウスを連れていったということか?」ティベリウスはなだまることができなかった。「わざわざエスクィリーノのマエケナス邸まで? 信じられない。お前はぼくの友だちの宴にさえ、遠慮して顔を出さないじゃないか」
「ぼくだって、死ぬほど恐縮したよ! でもムレナとカエピオが、エスクィリーノには別邸があって、詩人たちの自由にできて、マエケナス殿に会う必要もなければ、客人になるわけでもない。だから気楽にしてくれって言うから……」
「お前は行きたくなかったはずだ」ティベリウスは言い張った。
「ティベリウス──」ルキリウスがなにか言いかけたが、かまわなかった。
「どうしてだ? まだほんの子どもだからとでも言って、断ればよかった。お前にはできたはずだ。ホラティウスとの昔話を受けるなら、別の場所でもよかったんだ」
「たとえばここかい?」床を指差しながら、ルキリウスの顔が苦りきった。「ぼくがあの時大声を上げて、お供の奴隷に助けを求めればよかったのかい? 家の前で? それで母さんの前で、父さんの昔話をさせろ、と」
「やっぱり脅されたんじゃないか!」
ティベリウスは跳ねた。
「お母上の心の平穏を乱す真似をさせたくなくて、誘いを受けるしかなかった。一人で! これは誘拐だぞ、ルキリウス!」
「ティベリウス……」ルキリウスは歯噛みをしているようだった。「違う……。違うんだよ」
「なにが違うんだ!」
「ぼくは自分の意思で誘いに乗った。彼らの話を聞いてみたいと思ったんだ……」
「お前らしくない台詞だ」強い口調で、ティベリウスは指摘した。「自分の意思だと? だまされて、脅されて、断れない状況に追い込まれたんだろう?」
「やめてくれ、ティベリウス」
うるさいとばかりに、ルキリウスは甲高い声を上げた。それからすぐに調子を下げた。
「ほんと君って人は……。小市民の自尊心を守ろうというお心配りもないのかい?」
ティベリウスは崩れるように寝台に戻った。身を乗り出し、ルキリウスの両腕をつかみ、ぎりぎりと歯を軋らせながら見つめていた。
「……ちゃんと話すよ」ルキリウスの顔はあきらめの色を帯びていた。「ホラティウス殿と昔話をするだけなら、ぼくは行かなかったと思う。畏れ多いことだから。それに、別に父さんの話なんて、聞きたくなかったから。なんでこの話にムレナとかカエピオとかいう人が乗ってくるのかわからなかったよ。フィリッピの戦いに、この二人は参加していたわけじゃない。若すぎるもん。でも二人とも父さんのことを褒めちぎっていた。ぼくは、そんな話聞きたくなかった……」
ティベリウスは少し気持ちを落ち着けようとした。ルキリウスの言葉を額面通りに受け取るのは慎重にならねばならないと、経験上わかっていたからだ。だがいずれ彼が積極的に父親のことを知りたいと思っていたら、とっくに行動に移しているはずなのだ。たとえば、メッサラ・コルヴィヌスやグネウス・ピソの父親と会う。ティベリウスの協力があれば、実現は難しくない。
ルキリウスは、今日までそれと逆の行動を取り続けてきた。
「二人とも、友愛主義者か、でなければ共和政主義者なんだろうね。カエピオのほうはなんだかよくわからないけど、ムレナのほうはさ、ぼくでも聞いたことがある家柄だから、無下にもできないと思ってね。たぶん、会ったこともないマルクス・ブルートゥスの信奉者なんだと思う。……いや、もしかしたらブルートゥスがどうとかというより、現在のローマにいささかご不満ということなのかな」
それは、つまりカエサル・アウグストゥスとそのやり方が気に食わないということだ。それだけであれば、別に変ったことでもない。だれにでも好かれる人間はいないし、やり方に賛成も反対も自由だ。
アウグストゥスを害しないのならば。
「ホラティウス殿も、なんだか本当のところは共和政を恋しがっているように見えたよ。だからどうってわけでもなく、なにかしようとも考えていないと思うけど。彼らにしてみたら、今は亡き人だからこそ、現実以上の美しい思い出になったり、理想を重ねちゃったりするのかもね」
「……」
ルキリウスの想像は、ティベリウスにもわからないではないことだった。滅びゆくもの──敗者へのなつかしさにも似た同情や共感を抱く人間は、世の中に驚くほど多く存在するようだ。死して後にこそ、途方もなく大きい存在となる人間がいるのだ。マルクス・ブルートゥスしかり。おそらくはマルクス・アントニウスや、エジプト女王クレオパトラしかり。そういう意味で、彼らはまだ死んでいないのだ。
継父、そしてローマもまた、ユリウス・カエサルという、死して神になった男の跡を、今も追いかけている。だが彼の意志を継いで国家を担うことより、マルクス・ブルートゥスらへのような敗者への愛は、時に危険をはらんでいるように思うのは、どうしてだろうか。それもまた、敗者の信念を認めまいとする意志か。
信念そのものが悪ではない。共和政体は、確かにローマを覇者にし得た。現実がそれを許さなくなったからといって、悪ではない。
憎むべきは、その信念を刃にして、現状の平和を揺るがすこと。そしてだれかの愛する者を害し、利用し、陥れようとすることだ。
マルクス・ブルートゥスは、本人の人格を離れ、これから共和政主義者の信念の象徴になるのだろう。彼らのあいだで神のように祭り上げられるのだろう。
ルキリウスの父親は、彼の友人だった。フィリッピの野で、自らの運命を決めたブルートゥスのために、時間を稼いだ。我こそがマルクス・ブルートゥスであると叫び、敵前に躍り出たのだ。彼が身代わりになったおかげで、ブルートゥスは自刃を果たせた。
そのとき、ルキリウスは生まれて二ヵ月足らずだった。フィリッピの野そばに停泊した祖父所有の船の上で、母親の腕に抱かれていた。彼以外の家族は皆、この赤子の父親は二度と帰ってこないことを覚悟していた。
ところが予想だにしないことが起こった。敵将アントニウスの前に縄を打たれて引きずり出された父親は、そこで自分の正体を明かした。彼は殺される覚悟を固めていたが、アントニウスは仲間たちに言った。「お前たちが連れてきたのは、仇ではない。俺の友である」
以来十二年、ルキリウスの父親は、アントニウスの友として生涯を送った。アクティウムで敗れ、失意のどん底にあったアントニウスのそばを、彼だけは片時も離れなかったという。ティベリウスが邂逅したあの最期の日まで、ルキリウス・ロングスは友として生きた。
フィリッピの野の生き残りからすれば、ルキリウスの父親もまた英雄なのだ。そしてアントニウスを愛した者たちにとっても、自分たちには貫けなかった友情を最期まで貫き通したという意味で、やはり彼は英雄なのだ。
友愛の象徴、それがルキリウス・ロングスだ。
息子はそのような空気を、全力で拒否した。父親の信条を否定し、息子であることさえ隠そうとした。そして、父親と同じ真似をしたティベリウスを決して許さず、絶交を言い渡したのだった。
しかし今、だれかが彼を利用しようとしていた。
「それだけだったら、ぼくも断った」とルキリウスは言った。「いつものように、へこへこと恐縮して見せてさ、逃げてもよかったんだ。ところがムレナは、ほかの名前も出してきた。ガイウス・アンティスティウス、それからセスティウス・クウィリナリス。どちらもフィリッピの野でブルートゥス陣営にいた人で、現在法務官級以上の名士だ。本当だったのかわからないけど、どちらもぼくと会いたがっているし、会わせることができると言ったんだ」
とするとムレナもカエピオも、アンティスティウスがマエケナス邸を訪れることを知っていたのだろう。ルキリウスを連れ込んだ翌日ではあるが。
ティベリウスが尋ねた。「その人たちに会ったのか?」
「会ってない……と思う」ルキリウスは乾いた笑みを漏らした。「まず最後まで聞いてくれ。ここまで来ると、彼らはぼくと父さんの話をしたいんじゃなく、ぼくに父さんの話をしたいんだっていうのがわかったよ。教えたいことがいっぱいあるんだってさ。なにを知っているというんだ? 君のほうがよっぽどわかっているのにね」
ティベリウスは胸の痛みを覚えた。ルキリウスの父親に会ったのは、ほんの一瞬だ。ルキリウスもそれはわかっているのだが、これは皮肉ではない。
「ぼくはだんだん意地になっていったよ。そこで連中はとどめを刺してきた。ガイウス・プロクレイウス殿。君が王宮を出たあとあそこに足を踏み入れた最初のローマ人だ。彼ならば……ぼくの父さんの最期だって、なにか知っているに違いないってさ」
ティベリウスは矢で背中を撃たれたようにのけぞった。ルキリウスの父親の最後の姿は見た。だが最期の瞬間を見届けてはいない。あの後王宮で、ティベリウスはルキリウスの父親の遺体と対面した。ほかの戦死者と同様に荼毘に付し、遺灰を骨壺に入れて、ローマに持ち帰った。
アントニウスのあとを追って、自害したと思っていた。だが実のところ彼がどのような最期を迎えたのか、ティベリウスもだれも知らない。
「馬鹿だよねぇ……」
ティベリウスを見つめ、ルキリウスは自嘲の笑みを浮かべる。だがそれはティベリウスの胸の内を見透かしているためではないのか。気遣っているのではないか。
ルキリウスは自分の父親の運命を、ティベリウスには絶対に背負わせまいとしてきた。
「ぼくは知りたいなんて思っていなかった。父さんがどうして死んだかなんて、聞くまでもないことだからだ。アントニウスのために死ぬ。わかりきっていたことだよ、ずっと前から。それなのにぼくは、彼ら怪しいオッサン連中についていくことにしたんだ。父さんの話なんてどうでもいい。意地だ。どこのどんな名士様だろうが、父さんをよく知っているなんて言って、勝手に美化しているやつらは、全員まとめてぶっ飛ばしてやる。まったくらしくもなく、そんなことを企んだんだよ」
それは、まったくらしくなくなかった。ルキリウス・ロングスとは、元よりその根に強情な意志を張った存在だ。
「……どうしてだ」だからティベリウスが悔やむのは、ただ一つのことだ。「どうして一人で行ったんだ」
ぼくと共に行かなかったんだ。お前はいつもそうだ。ティベリウス・ネロのことが言えるのか。
「お前を一人にしたやつらを、ぼくは許すつもりはない」
それには無論、ティベリウス自身も含まれる。
「ティベリウス」ルキリウスはまた弱った笑みを浮かべるのだった。丸一日が過ぎても、未だに腫れが残るまぶたと、充血した両眼のまま。「本当になにもなかったんだよ。結局錚々たる名士様のほとんどに、会えなかったわけだし」
「どういうことだ? プロクレイウス殿にも会っていないのか?」
プロクレイウスはティベリウスとルキリウスが友人であることを知らないであろうから、昨日言及がなされなかったとしても、致し方ないとは思えるが。
「会っていない……と思う」
「思うとはなんだ、さっきから」
「結局、マエケナス邸の片隅で、ムレナとカエピオと話した。ホラティウス殿はほかの人たちを呼びに行くとかで、途中でいなくなった……と思う。話しているうちに、ぼくはどうも眠り込んでしまったらしくて」
「なんだと!」
「うっかり強い葡萄酒でも口に入れてしまったんだろうね。あと、あの邸宅の香料が強すぎて、なんだがぐるぐるして、気分がおかしくなって──」
「うっかりで済む話か!」
ティベリウスはまたルキリウスにつかみかかっていた。
「やっぱりやつらはお前に危害を加えたんじゃないか! 少年に強い葡萄酒を与えるのは論外だ。それだけでなく、なにか良くない薬を盛ったんじゃないのか! 香料だって、ぼくが行ったときはまったくきつくなかった。ぐるぐるなんてしなかった」
「それは、きっと体質というものがあるから──」
「違うだろう!」
ティベリウスはルキリウスを引き寄せた。
「あいつらは結局お前になにをしてくれたんだ? ええ? なにもしないで酔っ払わせて、翌日気を失ったままのお前を家に送り届けたか。なんのためにだ? ルキリウス! あいつらはお前になにをした! なにを言った!」
「知らない、知らない、覚えてない……」
「覚えていないのに、なにもなかったなんて言えるのか!」
「だったら、やっぱり今すぐぼくを素っ裸にしろよ」ルキリウスは両腕を広げて言った。「それで納得してくれ。あとはもうどうしようもない」
「そんなことを許しておけるか!」ティベリウスは再び立ち上がった。「マエケナス邸に戻る。あいつらになにをしたか聞く! マエケナス殿だって、知らなかったとしたら、彼の監督不行届きだ」
「やめて。やめてくれよ、ティベリウス!」ルキリウスは急いでティベリウスの腕をつかんだ。「お願いだから、やめてくれ……」
「どうして?」
「これはぼくの問題だよ。君に関係ない」
「あいつらはこのぼくも利用したんだぞ!」
競技会後にこの家を訪問した時、おそらく連中にあとをつけられたのだ。
「余計な波紋を起こすな」しかしルキリウスは力をゆるめなかった。「マエケナス殿はカエサルの顧問なんだよ。彼の詩人や取り巻きたちだって、多くがローマの有力な文化人だ。下手に騒動を起こすな。君に面倒が起こる」
「ルキリウス!」
「大丈夫だから!」ルキリウスはティベリウスを背中から抱えた。「ぼくは大丈夫だから、ティベリウス!」
「……どうしてだ?」失望の自覚とともに、ティベリウスの体から力が抜けていった。「せっかく成人したのに、ぼくはお前一人守れないんだ? せめて償いくらいさせてくれよ」
「そんなものはない」肩口で、ルキリウスが首を振っていた。「ティベリウス、ぼくは自ら望んで彼らに挑んだ。空しく敗北したからって、それはぼくが引き受けるべきことだ。だいたいなんの害も受けていないんだから上々だろ? なんならいつか勝てばいいんだ、ぼくが。それだけだよ」
そういうことじゃない。
ティベリウスは叫びたかった。
そういうことじゃない、ルキリウス。どうしてお前はいつもそうなんだ。肝心なことをなにも言わず、寄り添わせようともしない。
お前はどうして友人でいるんだよ。この役立たずのティベリウス・ネロと。
やっぱりぼくを許していないからなのか──。
ルキリウスが重たげなまなざしを上げた。
「ティベリウス、ぼくだって悔しい。でも彼らにしてやられたからじゃない。君にそんな顔をさせているからだよ……」
悔しい。そうだ、ぼくたちは悔しいんだ。
せっかく成人したのに。もう少し大人になれば、もっと強くなれば、こんな思いをしなくてよくなるのか。
「『友人の役に立つべからず』どころじゃない。そんな段階の問題じゃない……」
ああ、お前の言うことなんて、いつもたわ言だ。
「役に立とうなんて思っていない。なんなら一生君におんぶに抱っこで生きていきたいって思ってる。でもこれじゃあ、あまりに立つ瀬もないね……。ずっと……考えていたんだよ……」
やめろ。やめろよ。
ぼくだって、お前に役に立ってほしいなんて思っていない。
ティベリウスの両袖を引いて、ルキリウスは後ろへ戻った。並んで寝台に座り直し、しばらく無言でいた。
外壁の向こう側から、アヴェンティーノの喧騒が聞こえてきた。もう昼近い時間になっていただろう。
小さくため息をついて、ルキリウスが口を開いた。
「それで、君のほうはどうだったのさ? あそこでなにか面白いことでもあった?」
ティベリウスはもうしばらく沈黙した。話してみたいことはあったが、今切り出したところで、ルキリウスから期待する返事は得られないだろうと思った。
「……あとで話す。急ぎじゃない」
「ふうん」
ルキリウスは意味ありげな横目でティベリウスを見ていた。それからおもむろに腰のベルトに手をかけた。本当に服を脱いでみせるつもりらしい。
「ところで、あのファンニウス・カエピオとかいう男のことだけどね、どんなやつだか、君は知っているの?」
「いいや。天文学者とだけ聞いた」
「ぼくにはちょっと変なことを言っていたよ。子どもを誘拐する文句としては独創的だけど、どうなんだろうねぇ。まぁ、結局ぼくはついて行っちゃったんだけど」
ルキリウスは苦笑をトゥニカで隠した。そして頭から脱いだそれを、向かい側の扉めがけて思いきり投げつけた。
「『私は未来から来た。はるか彼方の、二千年を超える時代からだ。だからこれからローマ人がどのような運命をたどるか知っている。君も知りたくはないか? 君自身の運命を。そして、君の愛する者の運命を』……言っておくけどぼくは、なにを言われたか覚えていない」
(第二章へ続く)