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第一章 -12



 12



 まだ少し先のこととはいえ、興奮せざるを得ない話を聞いた。けれどもこの日は長い一日だった。マルケルスはもう限界で、眠たくてたまらない様子だった。マエケナスにお礼を述べるのがやっとで、彼が用意してくれた寝室に引き取ったあとは、もうまぶたを開けていられなかった。

 それでもマルケルスは抵抗した。眠りたくない。だって眠ったら、ティベリウスを独り占めできる一日が終わってしまうじゃないか、と。

 まるでテレンティアみたいだぞ、と笑いながら、ティベリウスは彼をなだめた。明日以降も君との時間を作るから。そうだな、もしも可能であれば、明日の午前はこの邸宅の詩人のだれかに教えを請い、勉学の時間としようか、と。

 そうは言っても、家では妹たちがマルケルスの帰りを待ち遠しく思っているはずだった。彼女たちとの時間を大切にしなければ。

 いずれ八月には、彼女たちと離れることになるのだから。

 けれどもティベリウスとマルケルスは、それからも一緒だ。共に初陣を果たすのだ。

 まぁ、ドルーススはついてくるのだが。寝室に引き取る前、継父に確認したところ、やはり肯定の返事が返ってきた。四年前のティベリウスたちがそうであったように、ドルーススは従軍という形で、次の遠征に同行するのだ。四年前は兄だけの従軍に大変ご不満で、しばらく口も聞いてくれなかったドルーススだが、今回は喜ぶだろう。

 ティベリウスがそのような話をささやいていると、たちまちマルケルスの寝息が聞こえてきた。満足そうな顔つきで、ティベリウスの袖口をしかとつかんだままでいた。ティベリウスは、今度はヴィプサーニアを思い出して笑わざるを得なかった。

 きっとぼくは幸福なのだろう。そう思った。

 そのままマルケルスと同じ寝台に入り、ティベリウスもまた目を閉じた。異国めいた雰囲気の漂うマエケナス邸では、あちこちで珍しい香料も焚かれているようだったが、この場所は不思議となじみのあるにおいがする。そんな気がして安らいだ。マルケルスがいるからだろうか。

 深く眠り、普段より早く目が覚めたようだ。小窓から見えるのは、薄まっていくところの紺青だった。ティベリウスはそっと体を起こした。傍らで、マルケルスはまだぐっすり眠っていた。彼の寝顔を眺め、自分だけ先に起きるべきか考えていると、ティベリウスの目にきらりと光るなにかが映った。

 寝台の上部で、枕の下に半ば埋まっていた。ティベリウスの青い目は、夜間でも、とりわけ眠って起きたひとときのあいだ、よく見えるのだった。それで何気なく手を伸ばしていた。

 それは、髪の毛だった。ティベリウスの赤みがかった茶髪でも、マルケルスの焦げ茶色の髪でもない。アウグストゥスのそれに近いが、それよりももっと長くて、ゆるりと跳ね上がっている金色の一糸だ。

 マエケナスの奴隷が、寝台の清掃で見落としたのだろうか。

 ティベリウスは目元をしかめた。

 結局、寝台を出ることにした。マルケルスを起こさないようにそろりと抜け出し、廊下に出て、水場で顔を洗った。

 小鳥のさえずりが聞こえてきたが、鶏の泣き声はまだ聞こえない。マエケナスはそもそも飼育していないのかもしれない。

 すると当の主が、列柱廊の向こう側から歩いてくるのに気づいた。

「やあ、若きネロ。早起きだね。よく眠れたのだろうか?」

 そう問うマエケナスの顔つきは、まだまだ眠り足りないでいるように見えた。気の毒がりながらもそれには触れず、ティベリウスはすっかり甘えて過ごさせてもらったことを詫びた。

「朝からそんな堅苦しい話は無用だよ。まずもってカエサルが、君たちに話をしたくてここを選んだのだからね」

 マエケナスの笑みが精一杯に見え、ティベリウスはさすがに心配になった。

「マエケナス、お疲れを溜めていらっしゃるのでは?」

「いやいや」マエケナスは軽く手を振った。「ぼくの寝つきが悪いのはね、性分なんだよ。このごろは寝床を変えたりして、色々試してはいるが、どうあったってこれだけは治らないんだ。まぁ、代わりに昼間好きなだけ眠れるなら何の問題もないんだけどね。しかし陽の出ているあいだはあいだでやることがあるし、世界の皆が起きているし……」

「我々が一日ご厄介になってしまい、誠に恐縮です」

「だから違うって。まして君みたいな年不相応に静かな青年は、もっと羽目を外したっていいと思うよ。わかるだろう? ぼくのまわりでいちばんかまびすしいのはテレンティア。四六時中、ところかまわず金切り声。気づいたかもしれないけど、ぼくはこの家に鶏も犬も飼っていない。必要がないからだ。むしろ鶏か犬にでも変身してくれないかと思っているよ。かまびすしい人が、神々の力で。そうでなければせめて、せめてほかの者らが……──」

「何か静穏を妨げることがあるのですか?」

「……いや」

 マエケナスは薄ら笑ったが、どこか翳があった。ティベリウスの肩を叩き、そのまま歩き出した。朝の散歩にでも行くつもりだろうか。

「あと少しの辛抱。もうじきカエサルもヒスパニアに行くし……というのは冗談だけど、でもまぁ、ぼくの頭が半分夢に浸かった状態をやめてしっかりしておかないと、静穏で済むものもそうはいかなく──」

 そこでマエケナスは、また言葉を切った。立ち止まり、傍らの扉のない部屋へ視線を送った。ティベリウスは少し待ったが、好奇心に負けて、マエケナスの頭越しに中を見やった。

 部屋自体にはだれもいなかった。ただその奥の露台に人影が見えた。椅子を引き出して座り、ゆったりと朝の空気を味わっている様子だ。

 宙を何かが舞っていた。春の虫ではない。ずっと大きい。一瞬のきらめきを残し、それは人影の手元に吸い込まれていった。人影はそれをもう一度宙に放った。まっすぐに飛んだそれに、昇る朝日がまた一瞬のきらめきを与えた。だがまだ目のよく見えているティベリウスには、その助けさえ必要なかった。

「やあ、カエピオ」

 マエケナスの声がした。

「君も眠れなかったのかい?」

「おはようございます、マエケナス」

 それをまた拳の中に収め、人影は口元をにやりとゆがめた。だが彼は立ち上がりもしなかった。

「ご心配なく。私はとても気分が良いですよ」

 その時すでに、ティベリウスはマエケナスを押しのけていた。猛然と進み出て、また宙へ放たれたそれを横から奪っていた。

 握りしめた感触は、もう間違いなかった。

「…これはなんだ?」

 震える声で、ティベリウスは問い質していた。

「どうしてあなたがこれを持っているんだ!」

 ティベリウスの激声に、カエピオはただ無邪気そうに首を傾げた。

「はて、これとは?」

「とぼけるな!」

 ティベリウスはようやく手の中のものを突き出した。カエピオの鼻先に、硬貨を。

 この世でただ一枚だけの、自分が作らせた硬貨を。

「ああ、確かに珍しい銀貨だねぇ」

 カエピオはしゃあしゃあと言った。

「『ルキリウス、ぼくはこれから帰る』とは、どこのだれの鋳造なんだか。個人が勝手に作ったんなら犯罪だろうに」

「なぜこれをあなたが持っているのか聞いている!」

「拾ったんだよ。さっきそのへんで」

「とぼけるな!」

 ティベリウスはカエピオにつかみかかっていた。

 ああ、おとといマルケルスの誕生日の宴に姿を見せなかった。それは予想できた。だからその日、あいつは一人だったんだ。つまり、あの輿は、あの寝台は、あの髪の毛は、この硬貨は──。

「お前はルキリウスになにをしたんだ!」

 喉も裂けんばかりに、ティベリウスは怒鳴っていた。






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