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泣き止む気配のない目の前の少女を見ていると、罪悪感が沸々と湧き上がる。「私」がささやく。おまえ、いい年して何してるんだ、と。
「ねえ、ローラ。そんなに困らせないでおくれよ」
ローラ。ぼくの姉貴分。彼女に手を引かれるようになったのはいつ頃だったか。気づけば、いつも傍にいるようになっていた。
時間が欲しかった。考える時間が。あと一時間くれれば、彼女の気持ちに適当な推論を立てることが可能なのだが。
「ねえ、聞いて、ローラ。ぼくはしがない4男さ。畑を継ぐわけじゃないし、村の経営にかかわるような仕事は残ってない。いずれ出ていくんだよ。それが他の子よりもちょっと早いだけさ。
それに、貧乏だから売られに行くんじゃない。読み書きも計算もできるんだ。逆にぼくを売り込みにいくんだよ。仕送りや手紙だってすぐに出せるようになるさ」
こういう理屈を目の前の女の子が欲しがっていないことは分かっていた。ぼくがいなくなることに、喪失感に泣いているんだろう。ありがたいし、胸も暖かくなる。だけど同時に、心の中で小さく、どうしようもない邪魔さを、それに対する小さな苛立ちを感じる。
だから人付き合いってやつが嫌いなんだ。ぼくにとっての他人なんて、ただの機能でいいんだ。ヒトデナシなのは分かってる。だけど、それを自覚させられるのはちょっとだけイライラするんだ。
「アレンのばか。昔、わ、私と、約束したじゃない。覚えてないの……?」
しゃっくりをしながら、ローラはまた困ったことを言い出した。
「……どの約束だろう?いっぱいしたじゃない。ああ、今年の誕生月のお花かな。大丈夫、ちゃんとにいさんたちに頼んであるし、奉公先でも探すよ。行く先は都会なんだ、きっと見たこともないようなものが……」
「アレンのそういうところ、ホントに嫌い!!!」
ローラの癇癪玉をまた踏み抜いてしまったようだ。
「アレンってば、いつもそう!誤魔化すときになると、変にニコニコ笑って、長くおしゃべりして!そうやってワタシが言い返せなくなればそれでお終い、って顔して!
そういうことじゃないもん!おかしみたいな言葉でその場しのぎしようだなんて、そんなのに騙されたりなんかしないんだから。そんなの、今まで黙ってあげてただけなんだから!家に帰ったあとの、こっちのモヤモヤなんて考えもしないで!!
そうやって、全部わかってます、って顔するときのアレン、大嫌い!!!」
言い終わると、ローラは犬のように舌を口からだして、獣みたいな呼吸音を響かせた。ぼくは彼女の言葉を聞くと、恥ずかしくなって、とても彼女の方を見ることができなくなってしまった。
恥ずかしい。「私」は随分と年上で、知識もきちんとしていた筈だった。
近代に入りかけのこの時代において、認知科学的な知見なんて誰も持ってない。一握りの天才や、よっぽど熟練の人物でない限りは、人の心をもっとも把握して、操ることができるのは「私」だと己惚れていた。
それがどうだ。そんな薄っぺらい知識と、いまだに幼稚な精神性はまだ年端もいかない少女にすら看破されていたのだ。
「あ…ちが、今のは…そうじゃなくって……」
ローラは自分の言葉に、ぼくよりも余計に傷ついてしまったようだった。一歩こちらに近づこうと、彼女の足が地面を擦った。今のぼくには耐えられない嫌な音だった。
「ローラ。本当にごめんよ。そんなつもりじゃ……
いや、君の言う通りだよね。分かってる。いや、分かってるなんて言うつもりじゃ……
……とにかく、本当にごめんなさい。今まで気づけなかったよ。
それと……ありがとう。ぼくと一緒に遊んでくれて。今までずっと、その、嬉しかったよ」
彼女の手がゆっくりとぼくに触れようと近づいてきたけれど、その手が怖かった。ぼくは早口でなにかを捲し立てながら、数歩後ろに下がった。
彼女の手が虚空を切るのを見ると、ぼくの心臓は塩もみしたみたいに縮んでしまって、壊れた繊維から水が出るみたいに体から熱がどんどん外に出てしまった。
彼女の顔を見ることができずに、ぼくはさっと後ろを向いて走り出した。
耳がジンジンと熱くなって、風の音が嵐のときみたいにうるさく感じた。後ろの方でローラが何か言っている気がしたが、意味のある塊がぼくの頭にまで届くことはなかった。
それから家について、夕食を食べて、沐浴をして、ベッドに入るまで、ぼくの体は3センチくらい中二浮いているような気がした。ずっと軽い吐き気を感じていたけれど、ぼくはいつも通り家族のみんなと話せただろうか。
それから約一週間、ぼくは引っ越し用の準備に追われた。といっても、ぼくの荷物なんて殆どないし、大抵のものは一年前から両親が用意してくれていた。幸い、我が家の大きなネズミさん(兄さん達を母さんはよくそう呼んだ)に干し肉の類を齧られることもなかった。
大変だったのは、近所へのお礼参りと、村長宅での勉強の引継ぎだった。
その間、ローラとは会うことはなかった。よくよく考えてみれば、自分から彼女を呼びにいったことなどあっただろうか。いつも彼女がぼくのところへやってきては、あれこれと世話を焼いてくれた。彼女が来なくなった途端、ぼくは急に一人になったことを感じた。
ぼくは、大切な友人を失ったのだろうか。このままではそうなるだろう。
「私」は、仕方ないと言っている。人が交流するとは、常に傷つけあう可能性がある。それが別れという特殊な状況で、リスクが最大化しただけだと。さらに、と「私」は続ける。
お前はもう帰ってこないつもりだっただろう、と。「ぼく」はずっとこの村の異物だった。なにもそれは悪いことではない。異端は変革時に必要とされるのであって、安定期には無用の長物。ただのリスクだ。
「ぼく」と村との衝突は時間の問題だった。この村は保守的で安定している。そんな中に異物が一人。可能性は闘争か逃走か。「ぼく」も「私」も穏便な方を好んだというだけのこと。
村全体とは穏便に済んだのだ。個人との関係全てを穏便に済ませるのは難しかった。可能性が高い方にサイコロの出目がでた。それだけだ。
今回のことは次の人間関係に生かせばいい。人生は終わらないのだ。只々次の現実が、次の今が押し寄せてくるだけなのだ。
「私」から漏れ出てくる感情は、徹頭徹尾少しの寂しさと、大きな諦めだった。
だけど、とぼくは思う。なんだか嫌だ。それに、「私」は彼女の言葉を全然考えていない。彼女は確率的に怒ったんじゃない。ぼくが、彼女のたいせつを忘れたからだ。
約束ってなんだっけ。彼女にとってのそれは、とても大事なものなんだ。
その日の夜、ぼくはそっと家を抜け出した。