第0話 如何にして彼がその生を終えたか
第一の人生。その人生における死神は猫だった。
客観的に見れば、それは一人のうつ病患者の自殺ということになるのだろう。その見方は7割がたは正しい。が、残り三割は違うのだ。少なくとも私の主観にとっては。
落ちていく瞬間を夢に見ることは度々あった。それと比べてどうだろうこの瞬間は。比較ができない。なぜなら、言葉が、私を作っていた理性、自我っていうしかめしい顔をした自分が、皮膚のあいだからボロボロ剥がれ落ちていくのを感じるから。眼鏡をかけた視力が急に数倍になったように感じる。網膜に飛び込む光粒子がビー玉になったかのように色合いが鮮やかだ。こんなにもこの町の空がきれいだと思ったことがあっただろうか。まるでアニメ映画だ。世界の明るいところと暗いところ、葛飾応為やフェルメールの世界に迷い込んだみたいに明暗がはっきりしている。
私の不眠はここの所月に一度か二度ほどになり、病院への通院も予後観察段階であると今日なじみの医者に言われたばかりであった。潔癖すぎるほどの大型総合病院で働く、常に柔和な笑みを浮かべる若い医師。ギリギリ20代だという好青年はキャリアに一点の曇りもなく、優秀すぎて遠くないうちに独立するのではないかとのうわさだ。待合室では患者の連れ添いの女性たちが姦しくしていたこの病院に関する情報は殆どが彼女たちから。おそらく彼女たちの家族は診察中なのだろう。付き添い人が話しているのは、殆どがそういう時なのだ。
そこはそういう場所で、沈黙が王様だ。あるいは、恐怖が。狂気に対する恐れと、それを可能な限り見ないよう、起こさないようにする態度がそこのマナーであった。そこで話している50~60代に見える彼女たちは年齢的に患者の母親だろうか。それとも、私のように仕事からドロップアウトした夫の付き添いだろうか。同年代の女性よりも幾分か白髪が多く、顔に皺が目立つように感じるのは私の偏見か。少なくとも彼女たちの口ぶりからは若い青年医師に対する信頼が見られた。私のかかりつけ医に対する信頼は向上し、いい医者に知り合えたことに何度目かの感謝をした。ここ最近は、こうして周囲の話を比較的穏やかに聞くことができるようになった。所謂理性的な近代人という奴に私は回復しつつあるらしい。
自由落下によって発生した揚力が臓腑を持ち上げる。気持ち悪い。脳の芯から氷柱のような恐怖が頸椎を突き刺す。落ちてもう一秒ほど 経っただろうか。記憶がカレイドスコープのように展開して、キラキラと太陽の光を分解、サイケデリックに再構築する。
帰る途中、ふと見上げた建物。雑居ビルの屋上に猫がいた気がした。スマホでSNSのトレンドをチェックするのをやめたときのことだった。この頃は健康に気を使えるようになってきた。毎朝とはいかないが、鏡をチェックする習慣もまた定着しはじめた。食べるものや、着るもの、健康に関心が戻りつつある。首を下に向き続ける習慣は意識的に改善しようとしていたのだ。
脳幹から脊髄、 頭堆を通って肺の上まで来た冷気が、体の側部へと広がってゆく。この感覚は知っている。動物的な恐怖というやつだ。なのに、なぜだろう。どこか解放されたような、清々しさを感じる恐怖なのは。愉快で、笑ってしまう。これこそ、ずっと求めていたものだという直観がある。最近は活力を感じていなかった男性自身すら元気だ。
屋上には猫がいた。最近では珍しいのではないだろうか。その雑居ビルは屋上にカギをかけていなかった。手すりの向こうに佇むぶちの猫は、背筋を伸ばして街を見下ろしていた。そんなに楽しいものがあるのだろうか。街頭カメラが好きな人間は分からないでもないが、人の雑踏を眺める猫はどうにもわからない。私は猫に声をかけつつ近寄った。驚かせて落としてしまっては大変だから。アニマルセラピーという奴に期待していたのだ。猫は素直で、膝をついて伸ばした腕の中にしゃらんと入ってきた。体長は40センチほどだろうか。顔はちょっと不細工かもしれない。
このブサイク、私が立ち上がりきる寸前やにわに顔をひっかいてきた。とっさに顔をひねった私は、腰ほどの鉄柵に体重を乗せた。どうしてだろうか。後から考えると、その瞬間に渾身の力を腹筋に加えれば、ちょっと横に重心をずらして半回転。それで私は今のように宙に躍り出ることはなかったであろう。ただ、入れるべき一瞬、その瞬間に力が抜けたのだ。これは自殺だろうか。
7割がたはそうだ。客観的に見れば、真昼間からうつ病患者が雑居ビルの屋上へとわざわざ階段を使って上り、そこから投身したのだ。実に迷惑な行為だ。目撃者はそれなりにいて、おそらく5人くらいは軽いPTSDになるだろうし、ビルのオーナーやテナントは風評に苦しむだろう。疎遠になっていた家族も迷惑だろう。だが、別に死ぬ気はなかったのだ。すくなくとも、意識的には死のうとはしていなかった。ただ、向かってくる死に抵抗しなかっただけ。それともできなかった?果たしてこ………
意識が消える瞬間、にゃー、と聞こえた気がした。