あるピアニストが遺した想いと、ある少女が託した願い
イメージBGMは、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンのピアノ独奏曲「ソナタ第9番 Hob.XVI:4 ニ長調」の第1楽章と、エドヴァルト・グリーグの「ピアノソナタ ホ短調 作品7」で御座います。
また、本作品はN0790GM「音楽室に光る眼」の前日譚という位置付けにもなっております。
千恵子さんと栄江さんが、「音楽室に光る眼」の状況に至るまでを描きました。
なお、本作品と「音楽室に光る眼」は、姉妹作品ではありますが、それぞれ独立した内容となっております。
滑らかに弾いていたピアノ独奏曲が、またいつもの所で止まってしまう。
最終小節の辺りで犯した運指ミスは些細な物だったが、生じた音の狂いは自分でもハッキリ知覚出来た。
幾ら繰り返し練習しても、ハイドンの「ソナタ第9番」の第1楽章は、私のレパートリーにはなかなか入ってくれなかった。
「ダメなのかな、私じゃ…」
私は軽く溜め息をつきながら、音楽室の黒いピアノの鍵盤蓋を閉じた。
-コンテスト本番に近い環境で、練習したいから。
そう無理を言って、音楽の先生に放課後の使用許可を出してもらったのに。
こうも上手くいかないと、自分で自分が嫌になる。
自分の心が暗く沈んでいくのを知覚しながら、私はランドセルを背負って音楽室を後にする。
窓から差し込む夕日のせいか、無人となった音楽室は赤く染まっていた…
-プロの奏者さんの演奏は、聴くだけでも良い刺激になりますよ。
ピアノの先生のアドバイスに従った結果、寝る前にピアノ独奏曲のCDを聴くのは私の日課となっていた。
だが、その夜に私が聴いていたグリーグのピアノソナタは市販品ではなかったし、奏者もプロのピアニストではなかった。
より正確に言えば、プロデビュー直前にその夢を摘まれてしまった奏者が遺した録音だった。
この曲を演奏している笛荷栄江さんという奏者は、私の叔母にあたる人だ。
5歳下の妹を、母は目に入れても痛くない程に愛していたらしい。
-居眠り運転のトラックにさえ轢かれなければ、きっとピアニストとして大成出来たはずなのに…
残された音源を聴いて故人を偲んでは、そんな繰り言を呟いていた。
母が好んで聴いていた事もあるが、私もピアノの演奏を聴くのが好きになっていった。
より正確に言えば、今は亡き叔母の演奏に惹かれたのだろう。
叔母の演奏は儚げで美しく、憂いを含んだ気品に満ちていたからだ。
それを見た母は、私がピアノを習いたがっていると判断し、コンテストを目標にしたレッスンを始めさせた。
ピアノのレッスンを見守る母の言葉の端々には、亡き妹が果たせなかった夢を私に託そうという想いが込められていた。
そんな母の想いは知りつつも、私の願いは別の所にあった。
-叔母と同等の技量を持つ奏者になり、あの演奏を再現したい。
そうすればあの美しい旋律を間近で聴けるからだ。
しかし練習をすればする程、自分の限界を否応なく突きつけられる。
努力だけでは補えない天性の音楽的センスと、演奏への強い情熱。
その両方に恵まれた叔母の早世が、惜しまれて仕方ない。
「栄江叔母さん…私、生きた貴女の演奏が聴きたかったよ…」
そう呟きながら床についた私の意識は、ゆっくりと眠りに誘われていった…
不思議な夢を見ていた。
放課後いつも練習している、堺市立土居川小学校の音楽室。
ハイドンの「ソナタ第9番」を滑らかに演奏しているピアニストの後ろ姿を、音楽室の椅子に掛けた私は憧れに満ちた思いで見つめていた。
憧憬だけではなく、不思議な親近感もある。
今の曲ではないけれど、この奏者の演奏を私は何度も聴いている。
この儚げで美しく、憂いに満ちた気品ある旋律を。
やがて甘やかな余韻を残して演奏が終了し、清楚なピンク色のドレスに身を包んだ奏者が、たった1人の観客である私に向かって美しく一礼した。
「あっ…貴女は!」
顔を上げた奏者を見た私は、はしたなくも大声をあげてしまった。
先程まで奏でられていた旋律に相応しい儚げな美貌は、仏壇に飾られている遺影と瓜二つだったからだ。
「貴女は、栄江叔母さん…」
「そう呼んで貰える日を待っていた…貴女が姉さんの娘ね、千恵子。」
初々しい儚げな美貌が、親しげに微笑んだ。
「あのね!聞いて欲しい事があるの、栄江叔母さん…」
わだかまっている想いを聞いて貰うチャンスは、今しかない。
意を決して、私は切り出した。
ピアニストとしての夢を断たれた叔母の死を、母は今でも嘆いている事。
遺された叔母の演奏に、私が魅せられている事。
叔母の演奏を再現したくてピアノを習っているが、スランプに陥っている事。
このままでは、ピアノを弾くのが苦痛になってしまいそうな事。
しかし母の手前、やめるとは言い出せない事。
そして、コンテストが間もないのに課題曲が上手く弾けない事。
私の打ち明け話を、栄江叔母さんは穏やかな微笑を浮かべ、時々小さく頷きながら最後まで聞いてくれた。
「1つだけ、方法があるわ…」
私の話を聞き終えた栄江叔母さんが、意を決した顔で切り出した。
「貴女の身体を、少しの間だけ私に貸して頂戴。私の演奏技術は、貴女の身体が覚えてくれる。もしコンテストまでに身体が覚えてくれなくても、その時は本番でも私が演奏すれば良い。いつか必ず、身体は覚えてくれるから。」
要するに、栄江叔母さんの霊が私に憑依するという事だ。
「お願い、千恵子!私はもう一度、ピアノが弾きたいの!」
栄江叔母さんの言葉は、本心に違いない。
もう少しでプロのピアニストになれる所で、その夢ごと命を散らされた。
その無念の想いは、私にもよく分かる。
たとえ私の身体を乗っ取ってでも、現世でピアノを弾きたいはずだ。
そう考えると、私を見つめる栄江叔母さんの美貌に、僅かな隙を伺うような雰囲気が感じられた。
だけど…
「良いよ、栄江叔母さん。少しの間なんてケチな事は言わない。そのまま私の身体を乗っ取って、好きに使って構わないから!」
「なっ…!?」
私の思い切りの良さに驚いたのは、むしろ栄江叔母さんの方だった。
「その代わり、絶対にプロのピアニストとして大成してよ。そしてその美しい演奏で、世界中の人達を感動させてね。それなら私も、満足して身体を明け渡せるから。きっとだよ!」
「何を言うの、千恵子!もっと自分を大切になさい!」
穏やかな栄江叔母さんが、意外な程に声を荒げている。
そこには、さっきまでの隙を伺う素振りは微塵も感じられない。
「栄江叔母さんこそ、自分の夢は大切にしなきゃ。プロのピアニストになって、沢山演奏したかった。その想いは本当でしょ?」
「それは…だけど…!」
何時の間にか主客が逆転しているようだけど、栄江叔母さんには私の想いを最後まで聞いて貰わなければならなかった。
「私、栄江叔母さんの演奏が大好き。憂いを含んだ儚げな旋律には気品があって、魂に直接響くんだ。」
私が栄江叔母さんの演奏の何処に惹かれたかを。
「あの気品ある演奏で、色んな曲を弾いて欲しかった。限られた音源を繰り返し聴く度に、そんな想いが募るんだ。」
演奏を聴いた私が、何を望んだのかを。
「そのためなら私、何だってやってみせる!私の魂がどうなってもね!好きな物の為なら、何だって出来る。それは奏者だけじゃなく、聴客だって同じなんだよ!」
そして鑑賞者として、信じた芸術に殉ずる覚悟を。
「千恵子…私、幸せよ。貴女という最大の理解者に会う事が出来て。」
私の主張を聞き終えた栄江叔母さんは、静かに口を開いた。
「ハッキリ言うわ、千恵子。私は貴女に憑依し、ピアニストとしての夢を叶えてみせる。貴女が見せた覚悟を、無にする訳には行かないわ。」
私を見つめるその目に、もう迷いはなかった。
「いずれは貴女の身体を完全に乗っ取る事になると思う。だけど、これだけは約束するわ。決して貴女を悪いようにはしない。身体を乗っ取った埋め合わせは、必ずつける。」
それは私の覚悟を耳にした、栄江叔母さんなりの誠意に違いない。
だったら私も、キチンと問い質す義務がある。
「どう埋め合わせるの、栄江叔母さん?」
埋め合わせとして、どのような手段を考えているのかを。
「必ず結婚して、女の子を産んでみせる。貴女の魂の器として。」
しばしの逡巡の後、意を決して出した答え。
軽々しく口にしなかったからこそ、真実だと確信出来た。
「それで良いよ。私、栄江叔母さんの娘に生まれ変わるんだね。娘として、間近で演奏が聴けるんだもの。私としては大満足。」
そう言った私は小さく頷き、その時を待った。
私の身体を使って栄江叔母さんが蘇り、私達の夢を叶える時を。
「ゴメンね、千恵子…ありがとう…」
涙ぐんだ栄江叔母さんの美貌が、どんどんぼやけていく。
「ヤだなあ…笑ってよ、栄江叔母さん。」
そう答えた私の声も、随分と遠い所から聞こえてくるみたいだった。
嗅覚が、視覚が、触覚が。
あらゆる感覚器官の精度が弱まり、消えていく。
どうやら私も、もう限界が近いみたい。
「今度はママって呼ばせて貰うからね、栄江叔母さん…」
希薄になりつつある意識を寄せ集めて。
何とか最期に、これだけは言い遺せたみたい。
こうして私の意識は、闇に落ちていった。
薄れていく聴覚の片隅で、ピアノの旋律が響いている。
何度も繰り返し聞いた、グリーグのピアノソナタ。
だけど、それは今まで聴いた中で最も美しい旋律だった…