バス
ごとん、ごとん。
がた、り。
不規則な振動でぐらりと身体が傾いで、叶野は自分がつり革を持ったままうとうとと微睡んでいたことに気づいた。
緩く瞬いて、車窓へと視線を向ける。
ここはどこだろう。
感覚としてそれほど長く眠っていたつもりはない。
おそらく、乗り過ごしてはいないはずだ。
とはいえ、車窓からの景色だけでそこがどこなのかがわかるほど道に詳しいわけでもない。
叶野が眠気を吐き出しでもするかのようにふー、と一息ついて視線をバスの入り口付近へと彷徨わせた。
電光板には、次のバス停の名前が出ているはずだ。
―――縺ク繧後k縺ョ螟
何か、見たことのない文字列が電光板ではちかちかと瞬いていた。
文字化けだろうか。
電光板とはいえ、デジタルなものだ。
何らかのバグでこうした文字化けが発生したところで別段おかしなことはない。
ただ、ちょっと珍しい。
いっそレアな事象に当たったような気がして、叶野は少し口元を緩ませる。
が、電光板がバグってしまっているとなると今自分がどの辺りにいるのかがわからない。次の停車駅について、音声案内が流れるまで待つしかないだろうか。
そんなことをぼんやり考えているタイミングでのことだった。
ふと、見覚えのないセーラー服が視界の端を霞めた。
電光板を見る叶野の視界の右下のあたりに。
俯き加減にバスに揺られる女子高生の長い髪に覆われた項と、なだらかなセーラー服に包まれた肩がちらりと映りこんだのだ。
いつの間に、乗ったのだろう。
叶野が乗った時、バスの中に女子高生はいなかった。
赤ん坊をつれた母親と、何人かの老人たち、そしてどこか取引先にでも向かうのかかっちりとスーツを着こなしたサラリーマンが数人、座席には座っていた。
空いている席はなかったけれど、それほど混雑しているわけでもないバスの中は見通しもよく、立っているのは可能を含めて数人しかいなかったはずだ。
これはますます寝過ごした可能性が高くなってきたな、と内心叶野はため息をつく。
別段家に帰るだけなので、急いでいるわけではない。
だがそれでも、一度バスから降りて、反対側のバス停を探して、またバスを待ち、最寄のバス停に向けてごとごとと揺られるというのは考えるだけで面倒な手順だ。
どこでもドアの開発が急がれる。
そんな下らないことに思いを馳せつつ、叶野は視線を伏せる。
そして、今度は自分の隣に見慣れぬローファーの靴が並んでいることに気づいた。
よく磨かれた濃い茶の革靴。
濃紺のソックスと、よく似た色合いのプリーツスカート。
ああ、いつの間にか隣にも人がいたのか、と何気なく考えて――あれ、と叶野はおかしなことに気が付いた。
何故、自分は隣に人がいることに今になって気づいたのだろう。
普通なら、電光板を見ようと顔を上げた時に気づくはずだ。
それなのに、叶野は気づかなかった。
それはつまり、叶野の視線を遮るものがなかったからだ。
隣には誰も、いなかったはず。
「――――、」
それなのに、足元には確かに靴が二つ、叶野の足の隣に並んでいる。
ぴかぴかと真新しい、磨かれたローファーが。
そう。
女子高生が制服に好んで合わせがちの革靴が、二つ。
なんとなく、視線が持ち上げられない。
隣を見れば、疑問は解決する。
もしかしたら、隣にいるのは子どもなのかもしれない。
叶野の視界を遮らない程度に小柄な、子ども。
私立の小学校であれば、セーラー服のような制服を着ていることもあるだろう。
見てしまえば、なぁんだ、で終わることだ。
寝ぼけた頭が見落とした現実をチグハグに繋いで、勝手に叶野が厭な想像を膨らませてしまっているだけだ。
「…………」
ゆっくりと、視線を持ち上げる。
プリーツスカートの腰の膨らみを経て、きゅっとくびれたウェストへ。
そしてそこで、まるで解体されたマネキンのようにその身体は終わっていた。
「―――え」
思わず、声が零れる。
叶野の隣にあったのは、女子高生と思わしき人体の下半身だけだった。
ごとんごとんと揺れるバスの中、倒れもせず、まるで叶野には見えていない上半身があり、つり革をつかんでいるのだとでも言うかのようにその下半身は当たり前のように叶野の隣に立っていた。
肉色の断面が、てらりと車窓から差し込む光を弾く。
「え、」
理解が、できない。
隣にあるのが何であるのか。
何故こんなことが起きるのかがわからない。
状況が、飲み込めない。
隣にあるのが女子高生の下半身だということはわかる。
だが、どうしたら女子高生の下半身だけがバスの中で自分の隣に立つことになるのかが理解できない。そんなことが起こるはずがないということがわかっているから、目の前にある確かな現実が認識できない。
こぷ、と何か、排水溝が逆流するような水音が聞こえた。
「え……、あっ」
肉色の断面から、どろりと何か赤黒い液体が染み出す。
紺色のプリーツスカートを滴り落ちていく、ヘドロのような鈍い赤。
眼の奥がツンと痛むような色合いの暴力性に、叶野の呼吸が浅くなる。
ごぷ、ごぷ、と厭らしい水音を響かせて、赤黒い粘液は零れ落ち続ける。
プリーツスカートの裾から、ぼたり、とついには滴り落ちてバスの床にまぁるい落下痕を残す。
避けなければ足が汚れるな、なんて。
この状況に釣り合わないことに思い至って初めて、まるで金縛りにでもあったかのように動けずにいた叶野はびくりとその場から逃げるように後退ることに成功した。
周囲を見渡す。
いつの間にか、バスの中には誰もいなかった。
がらんとしたバスが、どことも知れぬ場所を走っている。
隣には、下半身だけの女子高生。
否。
もう一人、いる。
電光板の下。
バスの入り口近く。
ぶらりと人影が揺れる。
厭だ。
見たくない。
けれど、見ないわけにもいかなくて。
「ぁ、あ、あ…………」
女子高生はつり革にぶら下がっていた。
だが、本来つり革につかまっていなければいけないはずの手は、だらりと身体の脇に落ちている。
彼女は、首を吊っていた。
がたり、ごとり。
バスが揺れる度に、女子高生の上半身が揺れる。
腰から下はない。
何か肉色の臓器をだらしなく引っさげて、女子高生は揺れていた。
自重がかかって伸びたのか、もとよりそういうモノなのか、常人よりも不格好に長い頸がつり革でぐッと絞められ、その先で俯きがちの頭がぐらぐらと揺れている。
自分の見ているものが、わからない。
これは現実なのだろうか。
悪い夢を、見ている?
ぐらぐらと足元が揺れる。
バスが揺れているのか、自分が揺れているのかがわからない。
鼻先を霞める生臭い香りに視界が霞む。
吐き気がこみ上げる。
わけのわからない状況が飲み込めなくて、頭の中は疑問符でいっぱいだ。
少しでも気をぬけば、叫びだしてしまいそうだった。
そうしないのは、叶野が怖かったからだ。
叫びだして、アレに気づかれたらどうなるのかが怖かった。
ぐらぐらと無作為に吊った頭を揺らすアレが、叶野を見たら。
それが何よりも怖かった。
がたり、ごとり。
バスが揺れる。
俯いた女子高生の髪が、揺れる。
青白い頬が、鼻梁が、微かに髪の向こうに覗く。
見てはいけないと頭の中で危険信号が鳴っているのに、目をそらせない。
ご、とん。
髪が、揺れて。
白く濁った眼が。
叶野を見て。
「あ、」
悲鳴をあげかけた叶野の隣を、誰かがふと通り過ぎた。
誰もいなかったはずのバスで、見知らぬ男が立ち尽くす叶野の横を通り抜けて、バスの入り口へと歩いていく。
男だ。
未来人、なんて書かれたふざけたTシャツの背と、銀の髪が目を引く。
外国人だろうか。
それとも染めているのか。
男はどろどろち血色の粘液を吐き出し続ける女子高生の下半身も、ぶらぶらと揺れる上半身にも気に留めた様子を見せずにすたすたと歩いていく。
見えて、いないのか。
と、思ったところで。
その男は何でもないことのように、ポン、と女子高生の肩を叩いた。
「足、忘れてるぞ」
がたん。
「っ……」
バスが揺れた振動で身体が傾いで、ふと意識が浮上した。
何か厭な夢を見ていたのか、息があがり、額にはじっとりと汗が浮かんでいる。
心臓は早鐘のようにばくばくと鳴っている。
「あ」
そういえば、今はどこだろう。
視線を持ち上げて、次の停留所を確認する。
目的の停留所の一つ前だった。
寝過ごしてはいなかったらしい。
良かった。
そう安堵の息をつきかけて、叶野は妙な既視感を覚える。
つい先ほど、似たような状況を体験したような気がする。
そしてその後、何か恐ろしいことがあった、ような。
不吉な記憶を辿るように視線を落としかけたところで、き、と軽く軋んでバスが止まった。叶野の目的地だ。
ああ、降りなければと降車口へと向かう。
その最中、どこか見覚えのある銀髪の青年の前を歩みすぎた。
トン、と叶野の片足がバスの外に降りる。
「なあ、あんた」
背後から声がかかる。
振り返りながら、バスに残っていた足を引く。
完全に車外の人となった叶野に向けて、人懐こい笑みを浮かべた銀髪の男は言葉を続けた。
「靴、汚れてるぜ」
視線を落とす。
靴の先、赤黒いヘドロのようなものが撥ねた後が、ひとつ。
吹き抜けた風は生ぬるく、何故だか生臭く匂った。
友人が見たという夢を元に。
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