第六話 隠者の庵 -2-
思えば、最後に〝家〟で眠ったのはどれくらい前だっただろうか。ハキムは微睡みの中でぼんやりと考えた。単純に家屋と定義される場所ではなく、誰かが生活を営む場としての家で眠ったのは。
正確な期間は今一つ思い出せなかった。もしかすると数年以上前だったかもしれない。
そのうち完全に目を覚ましたハキムは、包まっていた毛布の隙間から顔を出した。玄関方向、戸が開かれた東の窓から朝日が差し込み、鍋から上がる湯気をキラキラと照らしている。
トーヤとメサ導師は既に起きていた。トーヤは小さな刃物を使い、床に座って野菜の皮を剥いている。彼の傍らに在る椅子の上には、せいぜい十歳かそこらに見える、黒髪の小柄な少女が座っていた。
しかし二度瞬きをする間に、少女の姿は消えた。
今のは夢の名残か、寝ている間に妙な薬でも吸ったか。
深く考えることはせず、ハキムは眠気の残る頭を持ち上げ、自らの身体から毛布を剥いだ。野営時に比べればまだましだが、朝の空気が肌寒い。
「起きましたね、ハキム。鍋の様子を見ていて下さい」
メサ導師は椅子から立ち上がると扉を開け、家の外に出て行った。ハキムは言われた通りにかまどへ向かい。鍋を覗き込む。芋のような灰色の何かが、白い汁の中で煮込まれていた。木の杓子でかき混ぜると、どろりとしている。
「その野菜は入れないのか」
ハキムはトーヤを振り返る。
「これはあとで瓶詰めにするらしいよ」
部屋の棚を見ると、並んだ物品の中には、確かに酢漬けだか塩漬けだかの大きな瓶がある。このあたりは、年かさの女性という感じがする。
鍋が焦げないよう、ハキムがぼんやりとそれを見守っていると、メサ導師が戻ってきた。手には薬草らしきものが一束。彼女はそれを無造作にちぎり、鍋に放り込んだ。かまどに薪を少しくべ、ハキムに告げる。
「もう少し煮ましょう」
ハキムたちが普段しているそそくさとしたものに比べれば、ずいぶんのんびりした調理だ。
「ところで、アイツは昔からああなのか?」
ハキムはまだ部屋の隅で眠りこけているリズを顎で示した。
「遅刻の常習犯ではありました。ただ成績が優秀なので、それについてあまり文句は出ませんでした」
「ちゃんと成績が付くんですね。学院だから当たり前なんでしょうけど」
剥いた野菜をまとめてボウルに入れながら、トーヤが言った。
「事実、教育機関でもありますからね。裏の顔がどうであるかは、あなたたちがレザリアで体験した通り。もっともこれは、どんな権力にも言えることだけれど」
「賢者っていうのは、要するに教師か」
「必ずしも同じではありません。魔術を扱う者は全て魔術師と呼ばれます。指導的立場にある熟練者が導師。そのうち最上位の九人に賢者の称号が与えられ、組織を差配する大きな権力を持ちます」
「そうか。師匠は偉いんだな」
「それも今となっては、というところですがね。さて、そろそろ火を消してください」
メサ導師はそう言うと、テーブルに載っていた野菜クズを掴み、リズに向かって放り投げた。
「遅刻ですよ。エリザベス」
野菜がリズの頭あたりに命中すると、毛布に埋もれた彼女が身じろぎした。
「はい……」
普段よりも大人しい様子がおかしかったのか、トーヤがふっと笑った。
それから少しして、テーブルとテーブル代わりの木箱に、煮込みと黒いパンが並んだ。パンはグランゾールでよく食べられているものよりもやや固く、僅かな苦みがある。不味くはないが、とりたてて美味くもない。
食事中、メサ導師は一言も口を利かなかったので、ハキムたちも黙ってシチューを口に運んだ。
「で、昨日の続きだけど」
食事が終わったあと、ハキムは荷物からガラス球を取り出してテーブルに置いた。
「黄金の天象儀……の中心に置いてあった。これを取ったからかどうか知らんが、オヴェリウスは消えて、レザリアも崩れた」
「拝見しましょう」
メサ導師はそれを手に取り、指でこすり、上に掲げてまじまじと眺めた。ガラス球の中、無数に散らばる極小の粒が、光を強く反射して星のように煌めいた。
「なんでしょうね。これは」
「分からないのか?」
ハキムは思わず、落胆を声に出してしまった。十日以上かけて馬車に揺られ、一時は牢屋にまで入ったというのに、ガラス球の正体を知るという目的が果たせないとは。
「特別なものなのは間違いありません。おそらくは門か、窓のような役割を持つアーティファクトでしょう」
ハキムたちは、少なくともハキムとトーヤは首をひねった。
「門とか窓っていうのは、その、どういうことでしょう。メサさん」
「内側から外側を覗くもの。あるいは二つの場所を繋ぐもの」
メサ導師は意味深に答えた。
「転移の魔術……ではないですよね」
リズが恐る恐るといった様子で尋ねる。
「それならば簡単に鑑別できるはずです。これの正体を知るには、もしかするとレザリアの図書館を掘り返す必要があるかもしれませんね」
「要するに、無理ってことか?」
ハキムはすっかり意気を喪失し、床に転がって仰向けになった。
「あるいは、知らない方がいいのかもしれません。価値のあるなしという観点からは、計り知れない、とだけ言っておきましょう。不要ならば預かりますが?」
「ダメだ。絶対ダメ」
ハキムは起き上がってメサ導師からガラス球を奪い取り、再び荷物の中にしまった。
◇
ガラス球の正体は知りたいが、学院は警戒しなくてはならない。進むべきか、退くべきか。ハキムと愉快な仲間たちは、次にどこを目指すべきだろうか?
今後の方針が決まらぬまま、ハキムは四、五日の間、メサ導師の庵に滞在させてもらうことにした。
「少し時間を置くのがいいでしょう。追われている身ならば、なおさら」
ハキムたちの滞在を、メサ導師は歓迎した。ただし当然、喰って寝るだけという生活は許されなかった。家屋や畑の補修、物品の買い出し、森での採集、食品や薬草の加工など、様々な雑役が課された。
食物保存用の樽を近くの川で洗いながら、ああ農民の生活は大変なのだ、とハキムはしみじみ感じた。やはり自分には、とても長く維持できそうにない。
こういった環境では、今つけている火鼠の手袋も、手がかじかまない便利な道具に過ぎなくなってしまっている。氷河に浸しても、溶岩を掴んでも平気なアーティファクト。本当ならもっとスリル溢れる、英雄的な仕事に使いたいのだが。
不憫な手袋に同乗しつつ、ハキムは小さな樽を担いで庵へと戻った。庭ではトーヤが雑草を刈っている。家の前に樽を置き、室内に入ると、リズとメサ導師が羊皮紙を散らかしていた。レザリアで手に入れた、アルテナムの年代記を読んでいるのだ。
「ガラス球については、なんか分かったのか」
リズがアルムで読んで聞かせた部分は、ほんの概要に過ぎない。年代記の中には、より詳細な出来事が書いてあるはずだった。
「歴史学者は喜ぶでしょう。しかし帝国の魔術的な秘密については、ほのめかし程度にしか書かれていないようです」
やはりあのとき宮殿の探索を急がず、全ての部屋を見て回るべきだったか。しかし今更悔いても仕方がない。
「そういえば、導師。〝夕暮の竜〟という言葉に聞き覚えは?」
リズが思い出したように言った。
「ありますよ。それをどこで?」
「ラルコーにいた盗賊が話してました。領主のヴァンドルが夕暮の竜を探して、ネウェル人と戦争をするつもりだと」
導師は手に持っていた年代記を閉じ、リズの言葉を反芻するように目を閉じた。
「夕暮の竜とは、ネウェル人が守るなにかです。我々は彼らをネウェル人と呼びますが、彼らは自身を〝守り人〟と呼びます。夕暮の竜の守り人、と」
「なにか、ってのは?」
「その正体すら、彼らが守る秘密なのです。あるいは長いときを経て知識が失われ、信仰に近い形となっているのかもしれませんが」
「正体の分からないものを手に入れるために、戦争するんですか」
理解できない、といった口調でリズが言った。
「あるいはヴァンドルには分かっているのかもしれません。それにはまず間違いなく、学院の入れ知恵があるでしょう。となれば関係があるのは……」
「オヴェリウスとアルテナム、か」
ハキムは言葉を引き継いだ。レザリアの宮殿で対峙したオヴェリウスは、その後姿を現さなかった。しかし消滅したとは思えない。ヘザーの姿を借りた彼は、果たしてどこへ行ったのか。
「メサさん、草刈り終わりましたが」
話していると、トーヤが戻ってきた。時刻は昼前である。
「続きは昼食後にしましょう。ハキム、かまどに火を入れてください」