第四話 城塞都市ラルコー -4-
明け方前のラルコー市街に、囚人の脱走を知らせる兵たちの怒号が響く。いくつもの松明が躍る通りを避けて、ハキムたちは一旦、狭い路地で息をひそめていた。
「リズ、ローブだけでも替えとけよ。魔法も使えないし、臭いでバレるからな」
「分かった。これからどうするか考えといて」
彼女は荷物から衣服を取り出し、暗がりでローブを脱ぎ捨てる。
「今からここを出るには、防壁を越えないといけない」
言いながら、トーヤは慣れた手つきで自らの長刀を腰に帯びた。
「門が開く朝を待つかい?」
「そいつは難しいぜ、お兄ちゃん」
ジョウイが口を挟んだ。彼の目はほんの僅かな灯りを反射して、闇の中で光っているようにも見える。
「あとでゆっくり説明するが、今ここは準戦時下だ。余所者は必ず調べられる」
「じゃあ、どうする?」
トーヤに見られたハキムは、首のうしろをこすって考える。
「門はやめとこう。鉤つきロープがあったろ。アレを使って、壁を登ろう」
頭の中で行動の手順を組み立ててから、ハキムは全員にそれを説明した。既に東の空では夜の濃紺が追い払われつつある。日の出前にラルコーを離れなければ、どこからでも追手に見つかってしまうだろう。綿密な打ち合わせはできないが、ある程度までは勢いでどうにかなる。
「決まった?」
リズが戻ってきた。動きにくいローブを捨て、腰までの胴衣を身に着けている。
「決まった。リズ、煙玉を貸せ」
◇
ハキムたちは牢獄に近い北の防壁を避け、市街の西側までやってきた。ここまでくれば、脱獄の騒ぎも少し遠くなる。それでも門の周りには見張りが立ち、防壁の上にも歩哨が配置されていた。
壁はレザリアで見たものほどではないが、一般的なそれと比べれば十分以上に立派な部類と言えた。おそらく芯には土ではなく砂利が使われていて、投石器や破城槌を持ち出しても、突き崩すのはほとんど不可能だろう。
しかし戦争をするわけではないから、壁の強度はほとんど考慮しなくていい。肝心の高さは建物三階分。壁面も程よく凹凸があって、ロープを掴みながらであれば上るのは難しくない。しかし鉤つきロープをそのまま投げただけでは、音で歩哨に気づかれてしまう。
作戦はこうだ。ハキムが亡霊の指輪を使い、東門のかがり火に煙玉を投入する。歩哨たちの気が逸れた隙に、身の軽いジョウイがロープで防壁を登る。リズとトーヤがそれに続き、最後に戻ってきたハキムが登る。その間にジョウイが防壁の外へロープを垂らし、全員でラルコーから脱出する。
完璧な計画とはいえないが、待っていればそれだけ状況は悪くなる。
「いいか。俺を置いていくなよ」
ハキムはジョウイに釘を刺した。
「梟は夜に獲物を襲うが、卑怯者ってわけじゃない。信用しろ」
とはいえ、絶対に見捨てない、というような生温い感傷までは期待していない。盗賊に限らず優秀な人間は、ある程度の非情さを持ち合わせているものだ。
ともあれハキムは自分の役割を果たすべく、忍び足で百歩ほど離れた門へと近づく。亡霊の指輪を装備しても足音までは消せないし、指輪自体は目に見えるため、炎でできる不自然な影には注意する。しかし少々違和感を抱かれたところで、目的を果たせれば大した問題はない。
ハキムは危なげなく歩を進め、発見されることなくかがり火の足元までやってきた。握っていた五、六個の煙玉を火に投げ込んでから、木でできたかがり火の支えを蹴倒す。
燃えていた薪が落ち、薄闇にぱっと火の粉が舞った。しかしそれもすぐ、大量に発生した白い煙で隠される。異変に気付いた見張りが警戒の声を上げた。
煙玉の出来は予想以上だった。ハキムは素早く踵を返し、元いた場所へと走る。防壁の下に辿り着くと、そこにはリズだけがいた。他の二人はもう上ったようだ。
「ほらほら、早く行け」
もたもた登るリズの尻を小突きながら、ハキムもロープを掴んで壁を登っていく。こちらの存在はまだ気づかれていない。
防壁の上部には、敵側の矢を防ぐため、また狭間からそのまま射撃をするための胸壁がある。この狭間に鉤を引っ掛けられれば、比較的簡単に壁を登攀することができるのだ。そのまま防壁に上がるには身軽さが必要だが、誰か一人が手伝えばその限りではない。
ハキムが防壁に上ったとき、ジョウイはもう反対側にロープを垂らし、地面に辿り着こうとしていた。トーヤもリズを引き上げてから、ロープを伝って降り始める。
「おい! 何をしている!」
しかし運の悪いことに、防壁の上に一人残り、門に注目していた歩哨がこちらに気づいた。誰何もそこそこに弓を取り、矢をつがえる。
「頭を下げろ」
ハキムがリズの服を引っ張ると、頭のすぐ上を矢が通り過ぎた。ロープを降りている間は遮蔽もなければ、矢を避けることもできない。姿を見られたからには、ほかの歩哨もすぐに集まってくるだろう。
「ハキム、先に行って」
リズは囁き、小袋から煙玉を取り出した。ハキムはそれを見届けてからロープを掴み、防壁から身を躍らせる。
一瞬あと、濃い煙が防壁の上に漂い始めた。リズがロープを掴む気配がする。臭い思いをして、煙玉を大量に作っておいた甲斐があったというものだ。
「消し炭にするのは勘弁してあげる。今日のところは」
しかし風のある防壁の上では、煙の滞留する時間が短い。最後尾のリズが地面に降り立つ前に、二、三本の矢が放たれ、近くの地面に突き刺さった。
「わ」
転がるように着地したリズを、トーヤが支える。ハキムが煙幕に浮かび上がる人影目がけてナイフを投げると、痛みに呻く声がした。
「よし、行くぞ。逃げろ逃げろ」
ハキムはリズとトーヤを促す。夜目の利くジョウイを先頭にして、一行は白みつつある空を背に、西へと走った。
◇
ハキムたちはラルコーの防壁から少し離れたところにある、農村内の廃屋で休憩を取っていた。脱出の際適当に詰め込んだ荷物を、一つ一つ取り出しては整理する。食事も摂りたかったが、残念ながら水と食料は破棄されていた。
「それでお前ら、いつラルコーに来たんだ?」
一息ついたころ、腐りかけの木箱に腰かけたジョウイが尋ねた。
「昨日だ。わざわざ騎兵が迎えに来て、捕まった。まだ何もやってないってのに」
「は、そりゃ災難だったが、なにせ日ごろのおこないが悪い」
それについて反論することはできないが、ハキムはそのほかに抱いた違和感と、それに基づく推測をジョウイに話した。ラルコーの領主は、発掘されたレザリアに関心を持っているか。あるいはこの近辺で、学院の勢力が暗躍しているか。
「ああ。西で遺跡が発掘されて、そこから金が出るって話はあったな。乗り遅れたんで、俺は結局行かずじまいだった」
しかし、そのことに関してヴァンドルがどのような態度を取っているか、ジョウイは知らなかった。
「それと関係あるかは分からないが」
ジョウイは身を乗り出して、声を潜めた。
「領主のヴァンドルが妙なことをやりだしたのは確かだ。ヤツらはネウェルで何かを探してる」
「何かって?」
リズが尋ねた。
「〝夕暮の竜〟って呼ばれてるのは知ってる。けどどういうものなのかは知らん。本物の竜ってことはないだろ。そんなのはおとぎ話の世界だもんな」
ハキムもそれには同意した。そもそも竜のような怪物がいるならば、とっくに噂が広まっている。
「俺が予想するに、こう、黄金でできた竜の像、みたいな」
ジョウイはうっとりした顔で、空想上の黄金像を手で示す。ハキムが言えた義理ではないが、所詮盗賊の想像力というのはこの程度のものだ。
「けど、ネウェル人はどうするの? あそこは余所者に厳しいでしょ」
「だから妙なのさ。その夕暮の竜とやらにどれだけ価値があるかは知らないが、ネウェル人どもを怒らせてまで欲しがるようなものかね? 俺みたいな盗賊ならともかく、領主ともあろうもんがさ」
「……戦争が起きるのか?」
それまで黙っていたトーヤが、不意に口を挟んだ。
「ああ。起きるだろうな」
ジョウイは神妙な顔になって言った。
「街の様子を見ればわかる。傭兵も集まってきてるぜ。囚人が沢山いたろ? あれは街中で面倒を起こした傭兵どもだ。言っとくけど、俺は巻き込まれた側だからな」
「どうせ女関係だろ」
ハキムは言った。優男の盗賊はそれに怒るでもなく、笑いながら首を振った。
「ま、とにかくこの辺りで仕事するなら気をつけろ。誰も彼も気が立ってるからな」
ジョウイは木箱から立ち上がり、廃墟の窓から外を覗く。既に地平線から朝日が顔を覗かせており、外はかなり明るくなっていた。
「さて、俺はそろそろ行くとする。じゃあな愉快な仲間たち。また会おうぜ」
「貸しを忘れるなよ」
ハキムの言葉を背に、ジョウイはどこかへと去っていった。自分たちもそろそろ移動を開始したほうがよさそうだ。しかし、その前に一つ確認しておこう。
「リズ、夕暮の竜って言葉に聞き覚えは?」
「どこかで聞いたような気もするけど……、どこだったかな」
オヴェリウスやレザリアと関係のあるものだろうか? とはいえ現状、それが生き物なのか、財宝なのか、あるいはほかのなにかなのか、全くもって分からない。
「リズの師匠さまなら、なにか知ってるかもしれないね」
トーヤに言われて、ハキムはここに来た目的を思い出した。例のメサとかいう魔術師に会えば、そのあたりの謎もハッキリするのかもしれない。もちろん、ガラス球について尋ねるのが、もともとの理由ではあるのだが。
この場所からメサ導師の住居までは少々離れているが、今から歩けば、日没ぐらいまでには辿り着けるだろう。このあたりは夏でもそこまで暑くならないので、一昼夜ぐらいであれば、たとえ飲まず食わずでもなんとかなる。
「仕方ない。頑張って歩くか。ベッドで寝られなかったのが悔やまれるな」
ハキムは立ち上がり、大きく伸びをする。廃屋の外を覗くと、遠くに複数の人影が見えた。そろそろ農民たちが畑仕事を始める頃合いだ。これ以上長居すると不審がられる。
そして三人は乾いた風の吹き抜ける草原を、西に向けて歩き始めた。振り返れば、背後から朝日に照らされる、ラルコーの立派な防壁が見えた。
多分あの場所には、また戻ることになるだろう。特段の根拠はないが、ハキムにはなぜかそう思えた。