第二十八話 夕暮の竜 -4-
松明の火が爆ぜる音。硫黄ガスのわずかな臭い。目の前には灰色の石棺。
ハキムたちは暗く、静かな空間の中にいた。
「次は……なに?」
リズの出した声が虚ろに反響する。それほど広くはない場所だ。せいぜい、少し大きめの納屋ぐらいだろう。
ハキムは自分が松明を持っていることに、遅ればせながら気づいた。この松明は、石扉の中に入ったときに持っていたものだ。火はまだ燃え尽きていない。つまりここは現実の世界であるに違いなく、体感の時間はともあれ、長くとも四半刻ほどしか経っていないということになる。
「戻ってきたの?」
ソニアが言う。
「どうやらそうらしい」
ハキムは答えた。
松明をかざして部屋を歩けば、すぐに四方の壁に行き当たった。もともと立っていた場所の近くには階段があり、その上にはハキムたちが通ってきたらしき扉がある。そもそも大きな塔の螺旋階段を下って行ったところからして、幻だったというわけか。
扉を開けて地上に戻る手段はとりあえず置いておき、ハキムたちは石棺に目を戻した。黒い石壁の部屋にあって、この灰色の棺だけが浮かび上がっているように見える。表面にごく薄く埃が積もっているものの、欠損や風化はしていない。
「リズ、ソニア、警戒を……」
ハキムがトーヤと協力して石棺の蓋に手を掛けると、それは意外なほど簡単に持ち上がった。まるで暴かれることを、ずっと以前から予期していたかのようだった。除けた蓋を棺の傍らに置き、ハキムたちはその内部を目にした。
果たして安置されていたのは、朽ち果てた布の残骸を纏ったミイラだった。中には華美な装飾も立派な副葬品もなかった。ミイラはただ一つだけ、丁寧に布で巻かれた羊皮紙の本を胸に抱いていた。
「これが、秘儀書?」
リズが棺にしゃがみ込み、本を取ろうとミイラに指を伸ばした。
そのとき、ハキムが腰に帯びていた小袋が光り始めた。ガラス球が反応している。
「リズ、待て」
これが光るときは、決まってなにか良くないことが起こる。ハキムはリズに警告したが、声を掛けるのが一瞬遅かった。
棺の四隅で闇が凝る。
それは勢いよく吹き出すと、渦巻きながら輪郭を成し、松明の光さえ吸い込む半実体の暗黒として顕現した。そして拡散し、膨張し、再び凝固して密度を高める。空間の半分を占めるほどの巨体には、熱で溶解した岩石のように赤く煌めく、大きな二つの眼があった。
『星渦の玻璃球……』
暗黒が言った。深く、地の底から響いてくるような音だった。
「ホシウズ……?」
ハキムは思わずおうむ返しにした。このガラス球のことを言っているのだろうか。
『貴様、オヴェリウスの手の者か……!』
周囲の闇が膨らみ、強烈な敵意を帯びた。ハキムは耳の奥が冷え、喉がつかえるのを感じる。目の前の暗黒は、自分たちの命など一瞬で吹き消せるほどの、圧倒的な力を持っている。
ハキムは後ずさった。しかし地上への扉は固く閉ざされていて、逃げることはできない。
暗黒の腕が伸びてくる。掴まれれば死ぬ。
しかしその指がハキムの鼻先を触る前に、ソニアが間に割って入った。
「やめて!」
周囲の闇が、一瞬その圧力を緩めた。
「私たちは守り人です! ずっとこの場所を守ってきました! みんなは忘れちゃったかもしれないけど、私は歌を覚えてます!」
ソニアが泣きそうな声で訴える。
『守り人……』
「お父さんは竜の瞳を守って殺されました。叔父さんもみんなを守るために戦ってます。私もみんなの力になりたくて、頑張ってここまで来ました! だからどうか、酷いことしないで……」
暗闇は赤い眼をわずかに明滅させると、ハキムの目の前から、ゆっくりとその腕を引いた。
『我が裔よ。使命を果たしたか……』
声に理性が宿り、満ちていた敵意は霧散した。気づけばミイラは急速に風化して塵となり、ひとりでに舞い上がって暗闇と混じった。
ハキムは理解した。目の前にいるのはリコ王だ。彼もまた守り人として、千年間この場所で秘儀書を守っていたのだ。
背後で重い音がする。振り返れば石扉が開き、夕暮の残光が差し込んできていた。
リコ王は密度をそのままに形を変え、部屋の天井を這うようにしてハキムたちの頭上を通り過ぎた。彼は石扉から外に出て、天空に舞い上がったようだった。
「なんだなんだ」
それを見送りつつも、ハキムは秘儀書の回収を忘れなかった。
「まずいぞハキム。敵が来てる」
トーヤが警告し、刀を抜いた。確かに近くを走る馬蹄の音が、地表を伝って聞こえて来る。
「クソ、とりあえず外に出よう」
この場所に留まれば袋の鼠だ。逃げようにも逃げられない。
ハキムたちは階段を駆け上り、薄闇が覆いつつある荒れ地に立った。それほど遠くない場所から戦の喧騒が聞こえ、土煙が上がっている。学院の連中は、やはり夕暮の竜に執心らしい。当初予想した通り損害も顧みず、強行軍でこの場所を目指しているのだ。
だとすれば迫っている兵は数百か、あるいは千以上か。その中には、アンデッド兵も多数含まれているに違いない。
守り人たちは敗退を続け、ネウェルは陥落しつつある。しかしあらゆるものが無意味に帰したわけではない。自分が言うのもおこがましいが、彼らはその役割を果たした。千年前に与えられた使命を全うしたのだ。
近くにある岩山の上で何かが燃えていた。硫黄ガスに火がついて、青い炎を上げているのだ。
ハキムが目線を上げれば、薄暮の天空高くにも、青白く燃え盛る竜の姿が在った。それは地表に同じ色の火を降らせながら、朗々とした声を響かせていた。
竜が啼いている。
しかしその身体は既に崩壊を始めていた。秘儀書を守るという役割を終え、本来辿るべきだった、滅びという末路に至ろうとしている。
やがて学院の創始者であり、最初の守り人であり、異形の竜と化して千年を過ごしたリコ王は、夕暮の空に散って消えた。
「なにか来る!」
ソニアの叫び声で、ハキムは地表に目線を戻した。青白い松明のように全身から炎を上げながら、こちらに近づいてくる騎兵が二人。
「おいおいおい」
馬も人間も、尋常でないのは明らかだ。それは炎上しながらも歩みを止めず、剣を抜いてこちらを目指してくる。
「僕がやる。下がって」
トーヤが長刀を構えた。騎馬は途中で力を失って地面に倒れたが、兵はまだ動いていた。間合いを詰めるトーヤに対し、長大な剣を振り上げて襲い掛かる。ハキムは援護しようとナイフを投げつけたが、甲冑か何かを纏っているらしく、敵が意に介した様子はない。
叩きつけられた長剣が石を砕き、土塊を跳ね上げる。直撃すれば手足の一本や二本、簡単に斬り落とされてしまうだろう。
しかしその大雑把な攻撃で、トーヤが仕留められることはなかった。余裕のある体捌きで間合いの内側に入り込んだ彼は、下から上への斬撃で、一体の両手首を斬り落とした。
残る一体が突きを繰り出す。しかしその動きは鈍かった。夕暮の竜が地上に落とした青白い炎が、敵の力を奪っているのは明らかだった。
剣の腹に刃を叩きつけて隙を作り、身体を沈めて脚を払う。仰向けに倒れ込んだ敵の上に立ち、兜の隙間から刀を刺し込む。敵は一瞬体を震わせて、すぐに動かなくなった。
終わってみればほんの二、三呼吸する間の、短い攻防だった。
「これもアンデッドなんだろうか?」
火が消えた二つの残骸を示してトーヤが言う。もしそうなのだとすれば、レザリアでは見なかったタイプだ。
しかし検分する間もなく、新しい敵が現れた。憎悪の表情で騎馬を駆る、禿頭の魔術師だ。
「クリード!」
リズが叫んだ。クリードはハキムたちの二十歩手前で馬を停めた。
一度手傷を負わせ、撃退したにも関わらず、休む間もなくここまで走ってきたのだ。褒め称えるべきはその不屈の闘志か、功名への執念か。
クリードは青白く炎上していなかったが、湧出し、渦巻くエーテルが焦げ茶のローブをはためかせ、彼の次なる行動を示唆していた。
「エリザベス。貴様、何をした……!」
その口振りからして、夕暮の竜を解放したことは、アンデッドの兵団に少なからず損害を与えたようだ。
「さあ? でも夕暮の竜は私たちが奪った。アンタは負けたの。せいぜいオヴェリウスに叱られるといいわ」
クリードが手をかざす。リズも手をかざす。
「大丈夫かよ」
ハキムは言った。仔竜の道で交戦したとき、両者が持つ力量の差は明らかだった。
「やってみせる。信じて」
彼女は言った。ハキムはその言葉を信じた。
先んじて二人のエーテルが衝突し、それを超高温と極低温が追った。
「凍り付くがいい」
無数の蝶がクリードの手から噴出し、確実な死を伴ってハキムたちに迫る。避けることは不可能だ。
「灰にしてやる」
一方、リズの操るプラズマ塊からは、見慣れぬものが出現した。それは練り上げられ、研ぎ澄まされた魔術の産物。白熱した炎を纏う鷹である。
蝶の群と炎の鷹が衝突した。空気が滅茶苦茶にかき混ぜられ、暴風が吹き荒れる。ハキムは目を開けていられなかった。近くでソニアの悲鳴が聞こえた。膨大な量の熱気と冷気は嵐を生じさせてハキムたちを翻弄し、ほんの一瞬、意識と知覚の空白を生じさせた。
次にハキムが目を開いたとき、変わらず対峙するリズとクリードの姿があった。
しかし一瞬遅れて、クリードが乗っていた馬と、彼の全身から激しい炎が噴き出す。リズの勝利に終わったようだ。
しかしリズもさすがに力を使い果たしたようで、その場に膝をつき、地面に倒れてしまった。ハキムは慌てて身体を支える。
「よし、よし。よくやった。リズ、平気か」
「ちょっと疲れただけ……」
ゆっくり休息したいところだが、今の状況ではそうも言っていられない。他に馬の一匹でもいないかと周囲を見回したハキムは、灰燼となったクリードの近くに転がる宝玉を発見した。トーヤがそれを拾い上げる。
「熱っ」
それは高温に曝されながらも、溶けたり、割れたり、変質したりはしていなかった。一つはトパーズ。沈んでいく太陽の色。もう一つはアメジスト。残光に照らされた夜の紫。竜の瞳だ。
戦利品を確認する間に、戦の喧騒が近付いてきていた。もうすぐここにも、敵の大部隊が到達するだろう。
「ハキム、逃げよう」
トーヤは竜の瞳を荷物に仕舞い、ハキムを手伝った。
「言われなくても」
ハキムたちはリズに肩を貸し、目前の崖を迂回する道を探した。ソニアは背後の敵を警戒しながらも、去らねばならない故郷を寂しそうに眺めた。
「大丈夫だソニア。必ずまた、戻ってこられる」
トーヤが元気づけると、彼女は力強く頷き、ハキムたちに従った。
辺りが暗くなってくると同時に、周囲を濃い霧が覆い始めた。敵の目を躱さなければならないハキムたちにとって、それは幸運な巡り合わせだった。
そしてネウェルの霧と夜に守られながら、ハキムたちは山を下りる。
そのまま北西にあるポート公国を目指し、領の境を越えた。




