第二十七話 夕暮の竜 -3-
次に目を覚ましたとき、そこは暗い石造りの部屋だった。ハキムは自分が眠っていたことに気付き、慌てて身を起こしたが、すぐに危険な状況ではないことが分かって力を抜いた。
ハキムが寝ていたのは簡素なベッドの上だった。枕元には火の消えた古風なランプがある。リズ、トーヤ、ソニアも同じくベッドに横たわり、寝息を立てていた。
窓の鎧戸から、白い光と朝の冷気が漏れてきている。ハキムがそれを開け放つと、眠ってしまう前に見た、無骨な城がすぐそばにあった。ハキムは身を乗り出して外を確認する。
僅かに湾曲した灰色の石壁は、この建物が円柱型であることを示唆していた。ハキムが今いる場所はせいぜい二階か三階の高さだが、上を見ればもう五階層ほどが重なっている。
ここは城が霞むほどの威容を誇る、大きな塔なのだ。
ハキムが三人を起こそうとしたとき、部屋の扉を誰かが叩いた。訪問者は返事を待たずに扉を開き、大声で叫んだ。
「やっぱり寝過ごしてる!」
それは紺色のローブを纏った若い女性だった。見覚えはない。
「ほら、起きなさい。今日は約束があったでしょ!」
彼女はずかずかと部屋に立ち入り、寒さに身をよじらせるリズを乱暴に起こした。
「なに……?」
寝ぼけ眼のリズは、まだ状況をよく把握できていない。
「リコ様を待たせてるのよ。さあ、そのままでいいから、早く早く」
女性はリズを立たせ、その服を引っ張り、髪を小さな櫛を整えて扉の外に押し出そうとした。その騒がしさにトーヤもソニアも起きてきたが、女性にはリズ以外が見えていないように、ハキムたちの存在を無視していた。
「リコ様?」
リズが女性に尋ねる。
「今は四階の部屋にいらっしゃるわ」
女性はため息と共に言い、他にも何か用事があるのか、せわしなく何かを呟きながらその場から立ち去った。
「おい、寝る前のこと覚えてるか」
ハキムたちは部屋の前で頭を突き合わせた。
「みんなでわーっと騒いで、歌って踊って、美味しい料理を食べて……」
ソニアが言う。
「それからは覚えてないけど、眠ってから、ここに運び込まれたってわけじゃなさそうだね」
「幻術の続きだとは思うけど、ここはどこ? リコ様って誰?」
「知らねえよ。会ってみればいいんじゃねえの」
確かあの女性は、リコとちう人物が四階にいると言っていたか。こうして佇んでいても仕方ないと結論したハキムたちは、見知らぬ塔の中をぐるぐると巡り、人に場所を尋ねては呆れられながら、なんとかリコがいるというの部屋に辿り着いた。
部屋の扉は両開きになっていて、金具で補強された黒っぽい堅木でできていた。その前に立つと、頭の位置に彫刻された黒い竜と目が合った。こちらの瞳はガラスか何かであるようだ。
リズが扉をノックすると、内部から男性の低い声が返ってきて、入室を促した。
「失礼します……」
重そうな扉はわずかな軋みを上げて開いた。まずリズが入り、ハキム、トーヤ、ソニアも続いて室内に滑り込んだ。
そこはなるほど貴人の部屋らしくはあったが、決して華美ではなかった。並んだ書架には巻物や羊皮紙の束、綴られた本が並べられていたが、資料の一部は未整理のまま床に積まれていた。古い紙とインクのにおいが漂う、どこか厳かな感じのする場所だった。
部屋の奥では、深緑のローブを纏った壮年の男が机に向かっていて、羊皮紙と羽ペンで何かを熱心に執筆していた。
「朝から呼び出してすまないな」
男が手を止め、顔を上げた。彼は祝宴の際、トーヤに話しかけた青年と同一人物ではないかと思われた。そのときはせいぜい二十歳を過ぎたくらいに見えたが、今目の前にいる男は五十歳に近いだろう。
「あなたがリコ……様?」
リズの間抜けな問いに眉をひそめたものの、リコはそれを咎めなかった。彼は部屋の隅に置かれた資料の山を羽ペンで指し示して言った。
「内容ごとに分類しておいてくれ。ここで作業して構わない」
リコが若かったころの状況を考えると、彼は国の王子であるはずだ。そのときもあまり王族らしくはなかったが、今はそれに輪をかけて変わり者めいている。部屋の様子や、やっていることを見ると、まるで学者のようだった。あるいは魔術師か。
「あの……それ、なんですか?」
リズは資料に手を掛けつつ、尋ねた。
「これは〝秘儀書〟だ」
リコは記述の手を止めずに言った。
「秘儀書?」
「オヴェリウスは忌まわしい魔術を使ったが、私はそれを完全に忘れ去られるべきものだとは思っていない。いつか、彼の者と同じ存在が現れたとき、この知識が役に立つだろう」
「つまり、それは、オヴェリウスの魔術を記したものなんですね」
「全てではないが、そうだ。魔術は使い手によって、善きものにも悪しきものにもなる。だからこそ私はこの地に学院を建て、知識を守り、知識を持つ者を導く場とするつもりだ」
それを聞いたリズははっと息を呑み、部屋を見回した。なるほど。ハキムにその実感はないが、この場所こそが学院の起源であり、目の前のリコという男こそが学院の創始者というわけだ。
ハキムは以前、メサ導師が説明していたことを思い出す。オヴェリウスの知識と、彼の魔性の血を受け継ぐ者たちを管理する場所として、学院は作られた。時代が下るにつれ、組織とその目的が変質してしまったことを知れば、きっと目の前の男は大層嘆くことだろう。
「あの、その本、見てもいいですか」
リコは少し考えてから、椅子を引いてリズに場所を譲った。
リズと一緒に、ハキムたちも羊皮紙を覗き込む。しかしそこにあったのはインクで書かれた文字ではなく、虚ろな闇に浮かぶ無数の光点だった。
「これは……」
リズが暗闇に手を伸ばす。その指が触れるか触れないかというところで、まるで不可視の腕に掴まれたように、リズの身体がぐんと引かれた。
「わっ」
暗闇の中から発せられたと思しき力は、信じられない強さでリズを取り込んでいく。
「おいおいおい」
ハキムがリズを引き戻そうとしても、取り込む力が強すぎて到底無理だった。そのままハキムも、それを掴んだトーヤも、ソニアも、まとめて暗闇の中に吸い込まれていった。
◇
視界を埋める幾億の星。ハキムは上も下も分からない、奇妙な浮遊感の中にいた。自分が回っているのか、星が巡っているのか、自分が瞬きをしているのか、星が煌いているのか、それさえも判然としない。
しかしやがてハキムの知覚は、多少なりとも秩序と統合を取り戻していった。原初の混沌が天空と大地へと分かれるように、上下の感覚がはっきりしてくる。
そのうちハキムは自分がごつごつした地面に寝そべり、晴れた星空を見上げていることを理解した。首を巡らせて左右を見ると、リズたちも同じ場所にいる。
「ようやく起きたか」
足元から声がして、ハキムは身を起こす。そこに立っていたのは、初老に差し掛かろうかという年齢の男だった。白いものの混じった頭髪と髭、身に着けた深緑のローブが、手にした松明の火に照らされていた。
「……リコ王?」
「この期に及んで、かしこまらずともよい」
リコ王はハキムに話しかけている。トーヤ、リズときて、今度は自分か。
ハキムは立ち上がって辺りを見回す。そこは夕暮の竜を見つけたのと同じ場所だった。地形こそ多少違うものの、黒曜石の竜が嵌め込まれた巨大な石扉でそうと分かる。自分たちは幻術から覚めたのだろうか? しかし目の前にリコ王がいるからには、多分違うのだろう。
「我が子よ。我が血を継ぐ者よ。私は学院を作り、そこに知識を残した。お前には意思を残す。守り人として、いつか来るときのために、しかとこの地を守れ」
その言葉を聞いたハキムは、思わず口走る。随分勝手なことを言ってくれたものだ。
「それは意思じゃないぜ、王様」
何か言おうとするリズを手で制し、続ける。
「それは呪いって言うんだ。あんたの子孫はそれを律義に守って、今後千年、このやせたクソ寒い土地で、ヤギと麦を必死に育てて生きることになる。豊かな平地を見ながら、侵略者に耐えながら」
リコ王が子孫をネウェルに住まわせ、夕暮の竜を守らせた。それがハキム自身の着想によるものなのか、それとも幻術によって思考が混濁しているのかは、よく分からない。
「それが残酷なことであるというのは、私も重々承知している。しかし夕暮が過ぎ、夜を越えればまた日が上る。そのときのために、備えが必要なのだ。次の千年に労苦があろうとも、次の次の千年に、我らが裔の幸いを願うならば」
それでも釈然としないハキムが黙っていると、リコ王は懐から何かを取り出した。それは銀で装飾された、拳大の丸いトパーズだった。夕暮の太陽と同じ色をしたそれは、松明の光を複雑に反射し、空中で揺らめいているようにも見える。
「これをお前に託す」
差し出された竜の瞳を、ハキムは手に取った。ずっしりと重く、冷たい。
「アンタは?」
「子にばかり労苦を強いるわけにもいくまい」
そう答えたリコ王は松明を持ったまま、踵を返して石扉に近づいた。ひとりでに開いたその内側に、ためらいなく足を踏み入れる。彼はそのまま階段を下り、松明の火も地下に消えた。沈殿してい
た暗闇が、その身体と魂を飲み込んでしまったようにも思えた。
「……ずいぶん身勝手な父親もいたもんだ」
残されたハキムは、手元にある竜の瞳を見つめる。そのうち、瞳の輪郭が夜に侵食されていっていることに気がついた。天球に在る星々が、急速にその光を失いつつあるのだった。
ハキムたちは互いに離れないよう寄り添ったが、他はどうしようもなかった。やがて辺りには濃い闇が満ち、何も見えなくなった。




