第二十三話 仔竜の道にて -3-
崖の高さは平均しておよそ建物三階分。道の幅は五、六歩と狭く、岩などで封鎖してしまうのは難しくない。落とし穴を掘るのは、地面が固いので無理そうだ。くくり罠なんかも、下草がないので目立ってしまう。
もし敵が案内を連れているならば、それは麓近くの森に住む狩人たちだろう。ハキムたちよりもよほど罠に詳しいはずで、生半可なものでは引っ掛かりそうにない。ならばむしろ、普通の罠が仕掛けられていると見せかけて、意表をついてやるのが有効だろうか。
「網……がなければロープと、木材と、あと油が欲しいな。任せていいか?」
やるべきことと必要なものを整理して、役割を分担する。トーヤとソニアに近くの集落へと向かってもらい、物資を手に入れてきてもらう。ハキムとリズは拠点の設営と偽装をおこなうことにした。
「ああ、分かった。行ってくるよ」
ハキムはトーヤとソニアを見送ってから、改めて罠と拠点の場所を吟味しはじめた。
◇
それからほとんど丸一日かけて、ハキムたちは仔竜の道にいくつもの罠を仕掛けた。
一つ目は偽の落とし穴。ある地点の地面を浅く掘り返し、小石を不自然に配置しておいた。罠の知識を持つ人間が注意深く見ると、落とし穴が仕掛けられているのではないかと疑うように仕向けてある。実際には地面が固いので穴は掘っていない。これはあくまで、標的の目線を下に向けるための陽動だ。
二つ目の罠は投網。これは複数の細長いロープを材料に、全員でちまちまと作った。広げれば縦横八歩の幅があり、崖の上から投げ下ろして使う。うまく相手を絡めとれば、その動きを封じることができる。これは二つ用意した。
三つ目は落石の罠。崖の一番上に小さめの岩を置き、すぐ落とせるようにしておく。その下にはもっと大きな、人間の頭と同じぐらいの岩を置く。こうしておくと、小さな岩をぶつけることで、連鎖的に雪崩れるようになる。退路や進路を塞ぐために使ってもいいし、直接押しつぶしてもいい。
四つ目は壺に入った鉱物油。これは罠というよりも、単純に投げ落として使う。目潰し、炎上、移動の妨害を狙える。
それに加えてリズの魔術。狩りに使う麻痺毒をつけたトーヤとソニアの弓矢。高所からならば、ハキムの投石でも十分な殺傷力を持つ。
道の監視は、崖の上からも下からも見えにくい中腹にある、大きめの窪みでおこなうことにした。昇り降りのためにロープを垂らし、二人一組で随時役割を交代する。
「ああ、なんか心が安らぐな」
ハキムは常に悪知恵を巡らせていた子供のころを思い出していた。ときに命懸けではあったが、力のある人間を罠に嵌めたり出し抜いたりするのは、最終的な損得を抜きにしても愉快なものだ。
「どこが?」
ロープや岩で掌をたっぷりと擦りむいたリズが、少しばかり不機嫌そうに言った。
準備は万端。補給なしでも三日は耐えられる。あとはいつ、何人がやってくるかだ。十人までならなんとかなるだろう。それ以上の場合は、やり過ごして後を尾ける方が得策かもしれない。
準備が終わってしまえば、あとは退屈なものだ。遠くから見られては全て無駄になるので、派手に動くことはできず、昼は煙を上げることもできない。
ただ、カダーヴ砦にいる兵士の食い扶持も安くはない。竜の両眼を手に入れ、守り人たちを引きつけた今、長々と捜索部隊を出さないでいるはずはない。そして彼らが夕暮の竜に至ろうとするならば、仔竜の道を通る可能性は高いのだ。
三日以内には必ず来る。ハキムはそのように見積もっていた。
◇
罠を設置してから二昼夜が過ぎた。やることもほとんどなく、かといって長く持ち場を離れることもできないハキムたちは、当然のごとく暇を持て余した。
しかしその退屈な時間の中で、ハキムはある変化を感じていた。
それはトーヤに関することだ。ハキムたちととりとめもなく話すとき、彼が存在しないアヤメに言及したり、その気配を匂わせたりするような機会が、以前に比べてかなり少なくなっていた。
それに加えて、長い監視の時間を過ごす間、トーヤが故郷で過ごした日々を、妹との思い出を、しっかりと過去のこととして語ることが多くなったような気がする。
この変化はもしかすると、ネウェルの地で、守り人たちの集落の中で、トーヤが静かに自己を省みる時間を持ったせいで生じたものなのかもしれない。あるいは、自分の妹にどこか似たソニアと出会い、彼女を守ろうとする気持ちが強くなったからなのかもしれない。
もしくは、これは少々驕りに過ぎるかもしれないが、自分やリズと長く過ごしたせいで、彼の中の狂気が少しずつ弱まり、ごく最近それが分かるほどになったのかもしれない。本当の理由は、どうやっても分からないだろう。しかしハキムにはそれが悪くない変化であるようにと思えた。
加えてハキム自身にも、小さくない心境の変化が生じてきた。それはネウェルの地に抱く印象についてのものだった。
ハキムは初め、この場所があまり好きではなかった。岩ばかりの、寒く、貧しく、移動も困難な辺境の地。ネウェルはある意味で、ハキムの故郷と似ていた。
ハキムが生まれ、幼少を過ごしたラウラは、砂礫ばかりの荒れた大地にあった。貧しい辺境という点では、ネウェルと同じ。もっと過酷な面を挙げるとすれば、住む人々は猜疑心が強く、身寄りのない子供を思いやる余裕もなかった。
痩せて渇いた家畜、実りの不確実な穀物や果実も、常に収奪の危険に晒された。ハキムはなぜ人々がそこに住み続けるのか疑問でならず、自分一人で生きて行けるようになるとすぐ、もっと豊かなグランゾールの地へ向かった。故郷を離れてなおその地を嫌悪し、軽蔑し続けてきた。
しかしよくよく思い返せば、ラウラの人々にも故郷への愛と素朴な善良さはなかっただろうか。自らの置かれた立場からしか見えない面を見続けた故に、認識と記憶を捻じ曲げてしまってはいないだろうか。
ここ数日、暗い天球に散らばる幾億の星を眺め、視界全てに広がる荒涼とした地を歩くうちに、ハキムはラウラの景色とネウェルの景色を重ね合わせるようになった。それはハキムが今までに抱いたことのない、郷愁という気持ちに違いなかった。
あるいは自分がこの地に生まれたのならば、盗賊になることはなかったかもしれない。今の境遇に後悔はないが、ふとそのような可能性に思い至り、ハキムは不思議な気持ちになった。
いや、そうでもないか。守り人たちの生活は悪くないが、一生続けるには退屈過ぎる。きっとなにがしかの方法で外に出て、なにがしかの方法で悪さをしただろう。自分の生い立ちを環境のせいばかりにするのは、いくらなんでも無責任というものだ。
「ハキム」
傍で監視を続けていたソニアが鋭く囁き、ハキムを追想から引き戻した。彼女が指差す方向を見ると、遠くから道を通って近づいてくる者たちがいる。
見えるのは五人。うち二人が毛皮を纏った狩人の斥候、もう二人が軽装の弓兵、そして一人が、焦げ茶の短いローブを来た、禿頭の壮年男性。
この期に及んで、停戦の使者ということもあるまい。ハキムはソニアに囁き返して、決めてあった配置につくよう指示をした。
崖の上ではもう、リズとトーヤが罠の準備をしていた。投網、落石、油の入った壺を用意して、敵が近付いてくるのを待つ。
挟み撃ちに遭いやすい峡谷。相手の警戒心は高まっているはずだ。焦って仕掛ければ容易に逃げられてしまう。姿勢を低くし、息をひそめる。
やがて慎重に歩を進める先頭の狩人が、偽装の落とし穴に気付く。後続の全員に警戒を促し、落とし穴の近くにしゃがみ込んだ。
ハキムは無言で合図を出す。
小さな支えを外されて崖から押し出された岩は、その下にあるさらに大きな岩にぶつかる。大小の岩はガラガラと轟音を立て、砂利や小石を巻き込みながら、仔竜の道に殺到した。高所から転がり落ちた岩は、たとえ拳大であっても、人間を殺傷するのに十分な威力だ。
岩が落ち切るのを待たず、ハキムたちは眼下に網を投げ落とした。岩が到達すると土煙が上がり、一瞬視界が遮られる。
「……やったか?」
ハキムは道を覗き込む。もし健在なままの人間がいれば、弓で射撃してやればいい。都合よく無力化できた生存者がいれば、情報を聞き出せるだろう。
しかしそのとき、意外なことが起こった。ハキムは敵がいた場所で、何かが急激に膨らむのを見た。
「……やってないな」
それははじめ、無数の細かい粒であるように見えた。しかし勢いよく噴きあがるそれらをよく見ると、掌ほどの青白い蝶であることが分かった。数万数十万のそれはひと纏まりとなり、巨大な奔流と化して空中をうねった。
そして次の瞬間、蝶の群はまるでそれ自体が意思を持った生き物のように、鎌首をもたげてこちらに襲い掛かってきた。




