第十八話 傷 -3-
初めてこの集落に来たとき、ハキムたちは完全な異邦人だった。ソニアを傭兵たちから救い、連れてきたという事実があったから排斥されなかったというだけで、本来なら騎兵に包囲された時点で、そのまま射殺されても不思議ではなかった。
マリウスの頼みを聞いてラルコーに侵入し、瞳の奪還には失敗したものの、その情報を持ち帰り、また捕虜を解放して戻ってきたときも、守り人の大多数はハキムたちを遠巻きにしていた。
大人たち、特に先日襲撃された下の集落から逃げてきた老人や女性たちは、平地の人間であるハキムたちに対して、やはりまだ恐れのようなものを抱いているように見えた。
しかし大人たちに比べると、子供たちは随分と柔軟、というよりもむしろ積極的だった。ハキムが目を覚ました翌日には、テントにソニアをはじめとした数人の子供たちが侵入し、トーヤの肩に登ったり、リズの金髪を引っ張ったりといった蹂躙を始めた。
「おい、このお姉さんを怒らせると、髪の毛を全部燃やされるぞ」
そう忠告しても子供たちは興奮するばかりで、リズがヤギの毛束に小さな火を点けると、歓声を上げて駆けまわった。
「ハキム、冒険の話をしてよ!」
本日何度目かでせがまれて、ハキムは辟易した。
「私も聞きたいなあ」
「僕も少し興味がある」
リズとトーヤが意地悪そうに子供たちの味方をする。
「お前ら……」
レザリアの話はもう二度ほど繰り返した。別の話もあるが、盗賊の仕事に子供が憧れてしまうと教育に悪い。注意深くエピソードを選び、ハキムは仰々しく語り始めた。
「……ここからずっと南東に、〝大森林〟って呼ばれる滅茶苦茶デカい木が生えてる森がある。そこの人食い種族に攫われたときの話をしよう――」
◇
半日に一回メサ導師が治療に来るほか、ハキムたちは特に用事も相手もなく退屈していた。延々と子供たちの遊び相手をするのも疲れるので、そのうち自然と、集落の仕事を手伝うようになった。
リズはメサ導師に付き従って往診や調合を手伝い、トーヤは新しいテントの設営や修繕に駆り出された。ハキムの肩は治療の甲斐もあり、かなり早い速度で回復していたが、流石にまだ力仕事はできない。仕方なく、ソニアと一緒にヤギを追うことにした。
しかし、これが意外と重労働だった。草の生えた放牧地を歩き回り、鉤の付いた木の杖で角や脚を引っ掛けて捕まえ、乳を搾る。桶一杯のヤギ乳を得るために、十頭近く相手にしなければならなかった。
放牧地といっても、比較的平らなところはテントが立っているから、必然的に何度も斜面を上り下りすることになる。ヤギ飼い初心者であるハキムは、四半刻もしないうちに汗だくになった。
「北側ほどじゃないけど、こっちも冬が近くなると、雪が結構積もるの」
ソニアはヤギの世話に慣れているのか、さんざん動いてもまだ涼しい顔をしていた。
「寒いから大変だろ」
「うん。あんまり外で遊べないしね。でも、景色が全部白くて、晴れて月の出た夜に外に出ると、月明かりで雪が銀色に光るんだよ。それがすごく綺麗で」
ハキムはずっと昔に見た、故郷ラウラでの景色を思い出した。ネウェルとはずいぶん気候の異なる地だが、ラウラには一面の砂砂漠が広がる場所がある。そこも晴れた月の夜には、薄い黄金色の海原となるのだ。
「戦争は怖いけど、私はこの場所が好きだから、……離れるのは嫌だな」
ソニアがもし別の場所で暮らすようになっても、折に触れてネウェルの雪景色を思い出すのだろう。それが父親の死や血みどろの戦争と共にのみ想起されるのは、あまりに不幸なことであるように思えた。
自分も、空腹と貧困と暴力と一緒にでなければ、あの黄金の海原を、もっと穏やかな気持ちで思い出せたに違いない。
しかし故郷を離れるには、離れるなりの理由があるものだ。
「残念かもしれないが、死ぬよりマシだ」
ハキムはソニアと過去の自分を重ね合わせながら、そう言った。
作業が終わったら、桶に入れたヤギ乳を集落まで運び、所定の場所に納める。近隣のテントを訪ね、労働の対価として昼食を受け取る。普段の薄焼きではなく酵母を使ったパンなのは、怪我人に対する心遣いか。
ソニアと別れ、ハキムは歩いてテントに戻る。屋内に入ると、リズとトーヤに加えてマリウスもいた。
「ちょうどいい。少し情勢を知らせておこうと思ったんだ」
彼は言った。促されるまま皆で頭を突き合わせて座り、昼食を摂りながら話し合いを始める。
「竜の瞳が奪われたことは、もう全氏族に伝わっているはずだ。ここの集落にも、もう一、二日で守り人たちが集結してくるだろう」
「砦を攻めるのか?」
「そういうことになる。先日、氏族長とメサ導師で、なんとか交渉できないか相談しててみたが、結局無駄だろうということになった」
ラルコーよりも小規模な防衛施設である国境の砦は、兵の数さえいれば包囲もそれほど難しくないはずだ。しかしそれが有効かどうかは、相手の準備と、増援の有無による。
「敵の数はどれくらいなんです」
トーヤが尋ねた。
「それを今から見に行く。一緒に来るか」
カダーヴ峠はここからそう遠くないらしい。気晴らしも兼ねて、ハキムたちは敵情を偵察しに行くことにした。
◇
「守り人の男たちは皆、馬と弓の扱いには慣れている。しかし、全員が戦士というわけではない。我々の生産する食料の余剰では、職業としての兵士を養えないからだ。この貧しい土地では、一人一人が重要な労働力になる。戦争のために遠征することすら、簡単ではない」
ハキムたちはそれぞれで馬に乗りながら、マリウスの先導で峠を目指していた。
「〈父祖の罪をその身に宿し、我等は夕暮の竜の守り人〉」
ふと、リズが歌の一節を口ずさむ。
「その歌は?」
「ソニアが歌ってたのを教えてもらって。そういえば、気になってることがあるんですけど」
「なんだ?」
「守り人として夕暮の竜を守るのは理解できるんです。でも、罪っていうのが一体何なのか分からない」
「……罪か。聞いたことはあるが、私にも正直よく分からない。歴史の中で失われてしまった知識なのかもしれない。我々の先祖が何かの愚かしい行為を成し、子孫がその償いとして、夕暮の竜を守るという役割を与えられた。そんなところだろう。何にせよ、神話に近い時代の話だ」
「でも、何の罪かも分からないし、守るべき夕暮の竜が何なのかも分からない。それって理不尽で、不幸だと思うんです」
「いや、それは違う。少なくとも私は、この地に住むことを不幸だとは思わない」
マリウスはあくまでも穏やかな声で言った。
「たとえ寒く貧しくとも、私はこの地を、巡る季節と星々を、共に住む家族や家畜を愛している。だから君たちに手を貸すのだ、リズ。たとえ氏族全員を裏切ることになったとしても、私はできるだけ、皆が死なないような道を選びたい」
「……そうですか」
しかしその愛も、ある種の呪縛には違いない。それを聞いていたハキムはそう思ったが、マリウスの考えが理解できないわけではなかったし、それを否定するつもりもなかったから、この場で何か言うことはしなかった。
そのあと、集落から東に一刻ほど進むと、やがて砦と思しき建築物が見えてきた。
「あれか」
ハキムが遠目から観察しただけでも、見張りと思しき多数の兵がいることが分かった。
「少し迂回しよう。そうすれば全体が見えるはずだ」
マリウスに先導されるまま馬を歩かせると、やがて小高い丘の上から、カダーヴ峠の一帯を見ることができた。
グランゾールの側から山を上る道は何度か折り返しながら伸び、峠に至ると真っ直ぐになる。頂点のあたりでは道の左右に二つの砦を望み、再び折り返しながらキエス王国側へと下っていく。
峠にある二つの砦。手前の西側がラルコーのもので、東側がキエスのものらしい。
「トーヤ、どれぐらいいると思う?」
ハキムは尋ねた。
「物資とか馬の数とかから判断するに、ラルコーの兵は六百から八百の間だと思う。キエスは下手すると千人か、もっと多い」
ラルコーとキエス、合わせれば二千近くの部隊。これだけの距離で小競り合いも起こさずにいるならば、両者は完全に協力関係であると判断して間違いないだろう。
「あの規模の砦なら、三百人は収容できる。残りは近くで野営するんだろう。ほらあそこ。テントもあるし、防柵も作ってある」
よく見れば木で作った防柵には、所々板が打ち付けられている。矢による攻撃と、騎兵の突撃を防ぐためだろうか。
「よく分からんが、勝てるのか?」
ハキムがマリウスに見込みを尋ねると、彼は馬に乗ったまま、渋い顔で腕を組んだ。
「こちらが集められる頭数と、やり方次第だ。ラルコーを攻めるよりは易いだろうが、敵があれで全部だとは思えない」
彼の態度からは、戦に対する悲観が透けて見えるようだった。
ハキムは改めて砦を眺める。リズの魔術でも、亡霊の指輪を使っても、堅固に守られたあそこに侵入するのは不可能だ。無理に行けば今度こそ矢傷一つでは済まないだろう。指輪の前の持ち主のように、腕ごと指輪を斬り落とされ、誰にも見つからず死ぬことになりかねない。
では、竜の瞳はどうする。夕暮の竜が奪われるのを、黙って見ているしかないのだろうか?
いや、焦ってもいい考えは浮かばない。ひとまずこの場所は撤収だ。
「まあ、そのうち何か案が思いつくさ」
ハキムは努めて楽天的な調子で言った。シリアスになりすぎてはいけない。
「……そう願おう」
マリウスはそう言うと、集落に戻るべく馬首を巡らせた。




