第十七話 傷 -2-
マリウスとソニアが出て行ったテントには、ハキムとリズ、メサ導師が残された。
「トーヤはどこいった?」
ハキムは尋ねた。
「今は多分、頭を冷やしてるんだと思う。ラルコーで嫌なものを見たから」
「嫌なもの?」
「詳しく言いたくないけど、その、小さい女の子がね」
リズの口振りで、ハキムはなんとなく状況を察した。ラルコーを脱出する際についてきた守り人たちは、ほとんどが大人の男だった。しかし、捕虜がそれだったとは限らない。
連れてこられた人間の中に、もし少女や若い女性が、あるいは傭兵や兵士の嗜虐心を刺激するような者がいたとしたら。そこで目を背けたくなるような、不快な蛮行が生じた可能性は高い。
ヴァンドルが暗黙のうちに認めているのか、あるいは厳格な主人の留守ゆえに起こった規律の緩みなのか、それは定かではないし、正直どちらでもいい。
重大なのは、トーヤがそれを目にしたということだ。もし彼が被害者と妹を重ねたのだとすれば、それは激しい怒りと混乱を呼び起こしたことだろう。
「ちょっと行ってくる」
思えば、ラルコーを脱出する際のトーヤは、どこか様子がおかしかった。今も彼の気分が沈んでいるのであれば、一晩過ごしてなおそのときの、あるいは遠い過去の記憶に苛まれているのかもしれない。
行って何ができるとも思えないが、ハキムはテントを出て、トーヤを探すことにした。
集落は昨日、いや一昨日とさほど変わらない様子だった。少なくとも女性と子供の生活は、あくまで見かけ上ではあるが、まだ普通に回っているようだ。
しかし集落をよく見まわすと、男たちの姿が極端に少ないように思えた。近づく戦いに備えて、なにがしかの作業や話し合いをしているのだろう。
先程摂った朝食で、少しばかり血を取り戻したハキムは、ふらつきながらも集落の辺縁に向かった。東の尾根から差し込む朝日が、まばらに草が生えた西の斜面を照らしている。盆地にあるこの集落に陽光が入ってくるのは、もう半刻ほどあとになるだろう。
ハキムはしばらくうろうろと歩き、やがて集落の南にある小さな岩山の近くで、座り込むトーヤの姿を見つけた。彼は両脚の間に落ち込みそうなくらい項垂れて、ときおり何かを呟いていた。
「よう」
ハキムは彼から二、三歩離れた場所に腰を下ろした。
「……ハキムか。傷の具合は?」
トーヤはそのままの姿勢で応えた。
「少なくとも致命傷じゃない。苦い薬は飲まされたが」
「そうか」
予想していたよりも、トーヤの消沈ぶりは酷かった。ハキムはなんと言葉を掛けたらよいか分からず、しばらくそのまま黙っていた。
「アヤメは僕を許してくれるだろうか」
「なんか許されないようなこと、したのかよ」
「分からない」
「……」
トーヤはハキムではない、どこか遠くの誰かに話しかけているようだった。あるいは、自分自身に。
「アヤメがずっと前に死んだことは、分かってるんだ。頭では分かってる。でも僕の中では、昔と今が混ざり合ってもいる。過去がいつまでたっても過去にならない。
自分のしていることにどんな理由があるのかさえ、分からなくなるときがある。……僕はおかしいんだと思う。それも、かなり」
トーヤが自分をおかしいと表現したのは初めてだった。それくらい混乱している、ということなのかもしれない。
「お前と初めて会ったときは、確かに変わってると思ったよ。まあ、正直に言うと、変だと思った」
ハキムは遠く南の方角を眺めながら言った。
「でも、お前がいなかったら、俺もリズもレザリアから戻れなかったし、ここに逃げてくることもできなかった。
お前が本当の意味でおかしいのかどうか、俺には分からない。でもそれとは関係なく、俺はお前に感謝してるし、これからも頼りにしてる」
「……うん、ありがとう」
「だから――」
ハキムの口からは、滑らかに言葉が出てこなかった。感謝は普段から言い慣れていないし、誰かを真面目に慰めようとしたことなど、これまでの人生を振り返ってもほとんどなかった。
「だから、あんまりヤケになるなよ。頼むから」
それでもなんとか意図は伝わったのか、トーヤはほんの少しだけ顔を上げた。
「……分かった。心配かけてごめん」
「おう。朝メシ少し残しといたから、あとで食っとけよ」
ハキムはそう言うと腰を上げ、集落へ戻ることにした。
盆地を下っていくと、テント群から少し離れたところで、メサ導師が火を起こし、なにかを鍋で煮ていた。
「師匠。なんでこんなところで料理してるんだ」
「飲み薬です。臭いがするので」
風に乗って漂ってきた湯気は、確かに酷い臭いがした。
「それ、また飲ませるつもりか」
「全部は飲ませませんから安心してください。怪我人は貴方だけじゃありません」
「……」
不味いは不味いが、怪我の治りが良くなるならば、飲むのにやぶさかではない。ハキムはメサ導師の対面であぐらをかいて、小さな火で指先を温めた。
「俺よりも、あっちの方が重症に見えるね」
ハキムは手を揉みながら、先程までいた岩山の方に目をやる。
「トーヤですか?」
「ああ。なんとかさ、妹のことを忘れられるようにできないのか」
「それが正しいことかどうかは分かりませんが」
メサ導師は匙を鍋に差し入れ、どろりとした内容物をかき混ぜた。
「彼が感じている苦しみは、魔術の範疇でも、医術の適応でもありません」
「なら、宗教とか」
「いいえ。あなたが今、しようとしていることこそが正しい処方です、ハキム。どんな方法を取るのであれ、人を救うのは誰かの真心だけ」
「……盗賊に真心なんて期待しないでくれ」
「色々と聞きましたよ。ハキム。あなたがソニアを助けたことも、エリザベスを庇ったことも。氏族を死なせまいとするマリウスの思いを汲み、ヴァンドルの城館に忍び込んだこともね。それは全て打算ですか? 一片の真心もない冷酷な判断だと?」
「別に。勝手にやっただけだ」
「まあ、いいでしょう。ことさら言葉にする必要もないことですから」
メサ導師は火から鍋を降ろし、小さな器に熱い汁を注いだ。
「出来立てです。飲みなさい」
舌を火傷しそうになりながら、ハキムは渡された器に口をつけた。すぐに飲み込めない分、椀を空にするのが辛い。
「薬を飲みやすくするっていう真心はないのか」
「真心はときに苦いものです」
彼女は賢者なだけあって、人を煙に巻くのがうまかった。ハキムは冷たい水が飲みたくなったので、メサ導師に別れを告げ、鍋を離れまたぶらぶらと歩き始めた。
集落の真ん中あたりには井戸があり、そこではジョウイが子供たちと戯れていた。うっかり存在を忘れかけていたが、彼もまたここに逃げてきたのだ。
「おい。燭台を返しなさい。いい子だから」
ヴァンドルの城館から盗んできた燭台は、金や銀で見事に装飾されている。子供たちがその金銭的価値を理解しているのか定かではないが、キラキラしていてなんとも興味を惹くのだろう。燭台はすっかり子供たちの遊び道具になってしまっていた。
四、五人の子供たちがそれを振り回したり、取り返そうとするジョウイの背に登ったりしている。
「ほら、もう一人お兄ちゃんが来たぞ」
子供たちの注意が逸れた隙に、ジョウイが燭台を取り返し、彼らをしっしと追い払う。子供たちはキャーキャーと声を上げながら、どこかに走り去っていった。
「思ったより元気そうだな」
「あれくらいじゃ死なねえよ」
「いやいや。相当ブッスリいってたからなお前」
そういえば、倒れかけていた自分を助け起こしてくれたのはジョウイだったか。そのまま逃げることもできただろうに、意外と義理堅いではないか。
「まあ、いいけどさ。それよりハキム。お前はこれからどうするんだ」
「どうするって?」
「とっとと逃げないのかってことだよ。俺は戦争に巻き込まれるなんて御免だぜ」
「ああ」
その考えは、ジョウイが盗賊でなくとも至極当然のものだ。ハキムも少し前までならば同じように考え、すぐにこの場所を離れただろう。
「ちょっと仲間がこだわっててね。色々と因縁もあるし。ほら、前に話した西の遺跡だよ。だからまだ離れられない」
ジョウイは一度、信じがたいといった風に肩をすくめたが、思い直したように言った。
「いや、そうだな。そういうのも悪くないのかもな。仲間っていうか、拠り所っていうかさ。ただ、そのまま盗賊やろうとすると多分死ぬからな。気をつけろよ」
「娼婦の肩持って、あっちこっちに喧嘩吹っ掛けるお前に言われると複雑だな」
「それはしょうがない。俺は娼婦の子供だからな」
ジョウイは愉快そうに笑った。
「俺はポートに落ちるぜ。盗んだ銀を、馬と食料に替えてもらったからさ。分け前は本当に要らないな? あとで寄越せとか言うなよ?」
「言わねえよ」
「今度会ったら酒でも奢ってやる。だからせいぜい、命を大事にするんだな」
「ご心配どうも」
ジョウイを見送ったハキムが片腕で水を汲むのに苦労していると、さっきの子供が戻ってきて、作業を手伝ってくれた。井戸水を飲んで口をすすぎ、顔を洗う。
ハキムの身体は万全に程遠く、リズも見かけ以上に消耗しているようだ。トーヤは言わずもがな、相当に落ち込んでいる。何か失敗したわけでもないのに、パーティー全員が不調に陥ってしまっている。
こういうときに調子を取り戻そうとして、無暗やたらと行動を起こすのは良くない。ハキムの経験上、それは状況をより悪化させることに繋がりやすい。集落周りの状況は不穏だが、ここはしっかり休息して、士気を回復させるべきだろう。
それに、ここ数日は少々シリアスになりすぎた。レザリアに初めて入っていったときのように、もっと明るく、楽観的に冒険をしなければいけない。
明るく。明るく。水を浴びてすっきりした頭で反芻しながら、ハキムは自分のテントに戻っていった。




