第十話 ネウェルの歌う少女 -3-
さらなる追手を警戒しつつ、ハキムたちは山地の奥へと進んだ。標高はいよいよ高く、気温は低く、雲なのだか霧なのだか、視界も悪くなってきた。夏の装いでは、たとえ歩き続けていても肌寒さを感じるようになった。
小石の混じる地面を踏むのにも、いい加減飽きてくる。
「もうすぐそこだよ」
そんなハキムの気持ちを察したのか、ソニアがこちらを振り返って言う。それから彼女はぱっと走り出し、目前に見える斜面を駆け上がった。ハキムは自分を叱咤するように呻き声を上げつつ、それを追う。
斜面の向こうは、小さな盆地になっていた。深い皿のような形の土地を見下ろせば、二十か三十程度の家屋が見える。
しかし石造りの家々に、人の姿はない。ヤギもいない。遠くの段々畑も同様に無人である。破壊や略奪の痕跡はないが、放棄されているのは明らかだった。
「どう思う?」
ハキムは集落全体を眺めながら、リズとトーヤに問う。
「ソニア、君が住んでいた集落の皆は、ここに逃げたのか?」
トーヤが傍らのソニアに尋ねる。
「うん」
「またどこかに避難したのかも。……これ以上の歩きは勘弁してほしいなあ」
そう言いながら、リズは疲労を感じさせる足取りで盆地に踏み込んだ。全員がそれに続き、集落の中心あたりを目指す。もし避難したのなら、仲間だけに分かる暗号でも残していないだろうか。
家々の間を通り抜け、中央にある広場に辿り着いたとき、ハキムの耳は風に混じるわずかな音を捉えた。
「待て」
「なに?」
家の一つを覗こうとするリズを静止し、ハキムは改めて耳を澄ます。
集落を囲む霧の向こうから、澄んだ高い音が響いてくる。口笛だろうか。
はじめ一つだった音は、すぐ二つに増えた。周囲に反響して特定し辛いが、おそらく別々の場所から発生している。微妙な音色の変化から、それらがある程度複雑な情報を伝達する合図であることが分かった。
口笛の主たちは何者か。今いる広場は家屋に囲まれていて、見通しが利かない。ハキムたちがそのまま様子を見ていると、今度は盆地の外側から蹄の音が近づいてきた。その間にも複数の口笛が、互いの動きを確認するように鳴り続ける。
やがて家々の間を抜けて、二、三の騎兵が広場に姿を現した。ほとんど同時に側面や背後からも同じだけの騎兵が広場に入ってくる。ハキムたちは完全に囲まれた形となった。
ハキムはすぐ、こちらに敵意がないことを示すために軽く両手を上げた。彼らがラルコーの人間でないことがすぐに分かったからだ。リズとトーヤも警戒しつつそれに従う。
「何者だ」
隊長格と思しき馬上の一人がハキムたちを誰何した。ソニアにちらりと目をやるが、それを努めて気取られまいとしているように思えた。
彼らは一様に濃い色の金髪をしていて、多くの者が髭を生やしている。衣服は黒か白のヤギ皮で造られていて、弓や槍で武装していた。弓は先程倒した狩人たちが持っていたものと似ていたが、材質や形状は微妙に違う。
乗っている馬はグランゾールでよく見るものより背が低く、代わりに脚が太い。蹄も大きく、いかにも斜面や悪路に強そうな種だった。
「メサ導師の庵から来た」
ハキムは手を挙げたまま言った。不真面目な態度を取れば、即座に射られそうな雰囲気がある。
「この子がラルコーの連中に襲われてたから、ここまで連れてきたんだ。アンタらの身内だろ?」
馬上の男はハキムを値踏みするように目を細めた。髭を蓄えてはいるが、それほど齢はいっていないだろう。身体はよく鍛えられていて、いかにも屈強な山男、といった風貌だ。
「武器を下げろ」
男はその場にいる全員に命じた。彼自身は馬から降り、持っていた槍と負っていた弓、矢筒を置いて、ハキムたちにゆっくりと歩み寄った。
「ソニアを助けてくれて感謝する。その子は私の姪なのだ」
トーヤがソニアの背を軽く押すと、彼女は叔父のもとに駆け寄って、その足元に抱き着いた。男はその頭を軽く撫で、ほんの少し表情を緩ませた。
「ささやかな礼として、君たちを我々の集落に招きたい。お付き合い頂けるだろうか」
「助かるよ。一日中歩き通しで疲れてるんだ」
メサ導師の庵を出発したのが早朝。今はそろそろ夕方に差し掛かろうかという時刻だった。平地で休憩を挟みながらの旅ならともかく、追手を警戒しながらの山道だから、リズでなくとも疲労困憊だった。
ネウェルの山岳騎兵はハキムたち三人を騎馬に便乗させ、広場を出た。その際、ハキムがちらりと背後を振り返ると、男が跪き、ソニアを抱きしめているのが見えた。
◇
ネウェルの馬は、大人二人を乗せても平気な顔をして進んだ。ハキムたちは十二、三の騎兵とともに、離れた場所にあるらしい別の居住地へと向かう。
四半刻ほど移動すると、その場所が見えてきた。
居住地は先程の集落とは違い、木と白っぽい布で作られた住居しかなかった。おおざっぱに言えば、それらは天幕と同じようなものだった。大きさは様々だが、どれも直径と高さが同じぐらいの円錐型をしている。簡単に設営、解体ができそうな、仮の住居といった感じだ。
集落の周囲には草地が広がっていて、ざっと百頭近くのヤギが放牧されている。白いのもいれば、黒いのもいた。馬も数頭見える。
「我々は定住のための集落と、遊牧のための集落を作る」
ハキムが乗る馬と轡を並べながら、ソニアの叔父が言った。彼は道中でマリウスと名乗った。
「畑で作るグリュや芋だけでは、氏族の皆を養えないからだ。作物と、家畜と、狩猟による肉で、なんとか食べている」
「なんで平地で暮らさないんだ?」
ハキムは尋ねた。
「我々が〝守り人〟だからだ。この地を守る使命がある」
「黄昏の竜の守り人、ってヤツか」
その言葉を聞くとマリウスは眉をひそめ、じっとハキムを見つめた。
「メサ導師から聞いたのかもしれないが、軽々しくその言葉を口にしない方がいい。我々の氏族、いやネウェルに住む全ての氏族にとって、それは特別な存在だ」
ハキムは肩をすくめつつ、忠告を大人しく聞き入れることにした。
やがてハキムたちは馬から降り、集落の中心近くにあるテントの一つに招かれた。分厚い二重の幕をめくり、靴を脱いで中に入る。
そこは直径十五歩ぐらいの空間で、外見から予想したよりも広く、明るかった。木の骨組みは細いが、それらは精緻に組み合わされていて、強風や雪に耐えられるだけの強度が確保されているようだった。
「今、氏族長を呼んでくる」
ハキム、リズ、トーヤの三人はヤギ皮を重ねて作られた分厚い敷物に座り、しばらく待たされた。
「ほとぼりを冷ますために逃げてきたはいいものの、あんまりゆっくりできそうにないね」
リズは靴下を脱いで脚を崩し、ふくらはぎや足の裏を揉んでいる。
「ついでに夕暮の竜でも探してやろうかと思ったけど、さすがに広すぎるな。やっぱり特別な存在らしいし、迂闊に聞き込みもできなさそうだ」
氏族長や年長の人間なら何かしら知っているのかもしれないが、そもそもハキムたちにとって、手に入れる価値があるものなのかもまだ分からない。
「たとえば夕暮の竜がアルテナムの復活に関わりの深いことで、それを学院が狙ってるんだとすれば、僕たちとも因縁のある出来事、ってことになるね」
「何を考えてるか分かるぜ、トーヤ。お前、ネウェル人たちに同情してるな?」
「……」
「いや、悪いとは言ってないけどさ。でも、ヤツらは無条件にこっちの味方じゃない」
「それでも、お互いに協力できると思うよ。多分」
どうにもトーヤは、情に走りすぎるきらいがある。ハキムはリズに援護を期待することにした。
「どう思う? エリザベス先生」
「実際、興味はあるよね。夕暮の竜ってなんだろう? それがオヴェリウス生きていた時代のものだったら、ネウェル人たちは千年も前からそれを守ってきたってこと?」
「そういう話をしてるんじゃないんだよ。俺たちが生きるか死ぬかの話をしてんの」
「そりゃ生き残るだけなら、地の果てまででも逃げればいいけどさ。そうするとガラス球の謎は解けないよ? これからもけちな盗賊として生きるなら、それもいいんじゃない」
「あ、言ったなこの野郎」
さすがに怒ってやろうと思ったが、疲れていて本格的な喧嘩をする気になれない。
ハキムたちがぐずぐずとしたやり取りをしていると、テントの幕が開いて、マリウスが一人の老人を連れてきた。彼が氏族長だろう。
だらけた姿勢を取っていたハキムたちは、慌てて居住まいを正した。
老人は七十歳を超えていそうで、その金髪はほとんどが白く変じていたが、背筋はしっかりと伸びており、眼光に衰えは感じられなかった。
老人はマリウスの助けも借りず、ハキムたちの近くに座った。マリウスもそれに従った。
「まず、我が氏族の子供を助けていただいたこと、感謝します」
氏族長は胡坐をかき、床に両手の拳をついて頭を下げた。
「皆さんがメサ導師のもとから来たことを聞きました。彼女にはついこの間、悪い病を治してもらったのです。今はこの通り、健康になりました」
「……僕たちは下の集落で、ソニアと会いました。全てが酷く破壊されていた。一体何があったんです?」
トーヤが尋ねた。
「私も直接見たわけではない。逃げ延びた同胞から聞いただけです。彼らによれば、夜明け前にラルコーの兵が襲ってきたと」
その説明は、ソニアを襲った傭兵たちの言葉と合致した。
「氏族の男たちは、命を掛けて集落を守りましたが、老人と女子供を逃がすのが精一杯だったようです。ソニアの父親……このマリウスの兄は、若くして集落の長を務めていました。思慮深く勇敢な、氏族自慢の男でした」
老人は悲痛に満ちた表情で語った。マリウスも同様だった。ハキムも、リズも、トーヤも声をかけられなかった。
「そのような状況なので、あまり大層なもてなしはできません。それでもよければ、どうぞごゆっくり身体を休めてください」
「あー……、その、お気遣いなく」
逃げてきた人間、怪我をした人間が休む場所も必要だろうに。テント一つを提供するだけでも、彼らがどれだけの我慢をしているか。それを考えると、文句など言えるはずもなかった。
「すみませんが、私はこれで。すぐに食事を運ばせましょう」
老人は立ち上がり、軽く一礼するとテントから出て行った。
「あとで、少し話をしよう」
氏族長に続いたマリウスは去り際にそう言って、テントの幕を閉じた。




