偽物
中島の情緒を心配しつつも、レノの賛成には逆らえない。……逆らえない事も無いが、逆らう意味がない。腑に落ちない気持ちは、今後の結果が晴らしてくれる。今までずっとそうだったし、今回もそうだと思っていた。
「中島、大丈夫か?」
「……ああ」
「ヒルデも……」
「ええ……」
とても大丈夫そうではない二人。ユキちゃんが起きてからこの状態だ。
当のユキちゃんはというと、グレースと遊んでいた。
***
「ん、んー!」
「あ、ユキちゃん起きたみたいだぞ!」
「おお、ユキ!」
「ん」
ユキちゃんは、グレースの腕の中で目を覚ました。目をグリグリと擦っている。
「おはよう。ユキ、大丈夫か?」
「……」
起き抜けのユキちゃんは、不思議そうな顔で目の前にいる中島を眺めていた。
まだ寝ぼけているのだろう。
「おじちゃん……誰?」
「ユキ? ……大丈夫か?」
「ん? まだ眠いけど……おじちゃんは誰?」
……場が凍りつく。
奴に何かされたのだろうか? 記憶を消された? 何かショックな事でもあって……
「いやいや、お父さんだよ!」
「ほら、お母さんよ? ユキ」
二人とも必死に呼びかける。まさかという最悪の状況を否定するかのように。
「……私、知らない。わからない」
記憶喪失。そんな単語が俺の脳裏を過る。あの猫の仕業なのか? こんな事が出来るなんて、姐さんからは聞いていない。もしあの猫が意図して人間の記憶を操作出来るのだとしたら……もうお手上げも良いところだった。
「おいユキ! わからないのか? お父さんとお母さんだ! ユキ!」
中島はユキちゃんの近くににじり寄り、必死で叫んでいた。
「怖い……お姉ちゃん……」
そんな中島の必死な叫びは、ユキちゃんを怖がらせてしまったようだ。大の大人が、小さな子供に向かって真剣な表情で叫べば、こうなる事は必然だろう。
現実を目の当たりにして絶句する中島。ヒルデも困惑の表情だ。
「中島、離れろ。怖がらせちゃマズイ」
「……」
「おい! 中島!」
心ここにあらず。中島に俺の声は届かなかった。
仕方がないので、中島の背中を叩き目を覚まさせる。バシッと良い音と共に、中島は少しこちらへ戻ってきた。
「……あ」
「おい! しっかりしろ! まず、ユキちゃんが怖がってる。ちょっとこっち来い!」
「……ああ」
中島はふらっと振り返ると、ゆっくりこちらへ歩いてきた。目線が、どこを見て良いのかわからず不安定に揺れている。
「グレース、ユキちゃんを向こうの部屋へ連れて行ってくれ」
「はい。じゃあ、お姉ちゃんと一緒に向こうで遊ぼうか?」
「……うん」
ユキちゃんは不安そうではあったが、思いの外グレースが子供の扱いに慣れていて助かった。グレースがユキちゃんを連れて部屋に入って行くと、
やがて、少しずつユキちゃんの笑い声が聞こえ始めた。うまくやっているようで良かった。
しかし、両親の方はと言うと……
「中島、大丈夫か?」
「……ああ」
「ヒルデも……」
「ええ……」
大丈夫ではない二人。十二年の歳月を共に過ごした我が子から、すっかりと忘れ去られてしまうというのはとてもショックな事なのだろう。経験した事は無いが、なんとなく理解は出来た。
茫然自失な中島達を刺激しないように、俺はレノに、小声で真相を聞いてみることにした。
「レノ、ユキちゃんは記憶喪失なのか?」
「いえ……違います」
「ん? どういう事だ?」
記憶喪失じゃない……なら、なんなんだ? 突飛な状況過ぎて頭が回らない。まるで、脳が答えを拒否しているかのように、いくら考えてもたどり着けそうになかった。
「彼女の記憶には、別の両親に育てられた記憶があり、中島様達との記憶はありません」
「……はぁ? じゃあ、別人って事か?」
「いえ、先程消えたユキちゃんと、今、グレースと遊んでいる彼女は、遺伝子レベルで完全に同一人物です」
「あん? んじゃ、えーっと……って事は……」
「恐らく。彼女が本体なのでしょう」
なんとなく、こういう結果になるんじゃないかと理解していたのだと思う。でも、レノに説明されても、繋がらなかった。俺の脳は、この答えの証明を拒否していた。理解してはいけないと、俺の心がけたたましく警鐘を鳴らしている。
「あー。じゃあ……」
「中島様が育てていたユキちゃんは、偽物であったと考えるのが妥当であると言えるでしょう」
「そう……なるのかな」
小声で真相なんて聞くんじゃなかった。俺はこの事実を中島に説明しなきゃいけないのだろうか? 気が重い……。ここから逃げ出したかった。
『中島! 実はおまえ達が育てていたユキちゃんは偽物だったらしいぞ! さっき消えてしまったユキちゃんがおまえ達の……』
……言えない。言えるわけがない。
かといって、記憶喪失だと嘘をついたところで、本物の両親に会えばすぐにバレてしまう。
中島達に受け入れてもらうしかない。
しかし……ヒルデは実の子だと言っていたよな……。もし、ユキちゃんが偽物だったとしたら、本当の子は………………ダメだ……辞めよう。
脳がこれ以上の活動を拒否していた。全部聞かなかった事にはできないだろうか? こんな事、本当に言わなきゃいけないのだろうか? まして、なんで俺が……。
「……涼介」
「はいっ!」
レノと内緒話をしていたら、中島から呼ばれてしまった。思わず良い返事をしてしまう。
「……その感じ……良くない感じか?」
「あー、まあ、そう……かな?」
男らしくビシッと言えない弱虫が全面に出てきていた。
俺の心も、もうそろそろ限界を迎えそうだ。
「そうか……ヒルデ……」
中島はそう言うと、ヒルデを抱きしめた。急に抱きしめられたヒルデは、感極まって泣いてしまっていた。これから明かされる真実が、残酷なものだと分かっているかのように。
「涼介、教えてくれ……全部」
中島はヒルデをキツく抱きしめたまま、俺に真相を乞う。
もし聞かれなかったら、絶対話さないのに、中島は真相を聞きたいようだ。俺には嘘を付く才能がないと知っているはずなのにだ。
「良いのか? 知らない方が良いかもしれないぞ?」
「ああ、おまえの態度を見ていれば、結果は分かっているようなもんだ。宜しく頼む」
「……じゃあ、なんで……」
「はは。自分の子供の事だからだよ。知らない方がいい事なんてないさ。それに、おまえは嘘が付けないからな。仕方ないと全部受け止められる」
そうは言っても、俺の心は物凄く嫌がっていた。……すぐにでも逃げ出したかった。あれだけ取り乱していた中島に、この現実を受け止められるとは思えないが……もう、俺には逃げ道は残されていそうにない。
「じゃあ、簡潔に……中島が育てていたユキちゃんだけど、あの猫が創り出した偽物だった可能性が高い」
「!!」
中島は床に落とした視線を動かさずに、ヒルデをキツく抱きしめていた。肩が震えているようにも見える。……俺はもう見ていられなかった。
「そう……か」
「……」
掛ける言葉が見つからない。
「俺たちは、偽物を大事に育てていたわけか……」
「……」
中島の気が済むのを待つしかなかった。
「俺が十二年も一緒に過ごしたユキは……偽物で、さっき……消えちまったのか……」
「……」
「俺は、いつ消えたのもわからなかった」
「……」
「作られた存在だなんて、気付きもしなかった」
「……」
「なあ、涼介……ユキは……ユキはただの人形……だったのか?」
「それは……」
「レノ!」
レノが説明しようとしていたので、慌てて止めた。まだ、早いと思ったからだ。それに、人形なら、人形でいいじゃないか。中島がそう思うなら、それで良いと思った。
「なんだよ……まだ……あるのか。涼介……大丈夫だ。教えてくれ……」
「……」
「どうした?」
「いや……」
「そうか、涼介、悪い……な。でも……全部教えてくれ。大丈夫だから」
「……わかった」
俺の事を気にかける余裕が出るまでには、なんとか自分の感情を押さえ込めているようだった。
真相なんて、聞いてもなんの得にもならないが、きちんと自己処理するためには必要なのだろう。俺は心底自分の性格を呪い、優しい嘘が付ける人間になりたいと思わずにはいられなかった。
「あの猫が作り出すコピーは、完全に同じものなんだ。だから、そこに命が無かったとは言い切れない」
「……」
「それから、ヒルデが産んだはずの、本当の子供はどこに行ったのか? って疑問が出てきた」
「……」
「今、向こうで遊んでいるユキちゃんの記憶には、他に両親がいるらしい」
「……」
「これが、今のところわかっている事実だ」
中島は何も言わなかった。ヒルデは先程から泣き続けている。
「……そうか。じゃあ、俺の子は……ユキは偽物だったとしても……ちゃんと人間で、心の無い人形じゃなかったって事か。
一緒に過ごした時間は……偽物じゃなかったって事か。ユキは自分で考え、自分で行動したって事か」
「……そうかもな」
「なのに……あんなにもあっさりと……消えちまったのかよ……ユキ……俺は、何も……何もできなかった……ユキが消えるなんて……」
「……」
「ユキ……ごめんな……ユキ……」
中島も、ついに涙を堪える事が出来なかったようだ。ヒルデと二人で、声を殺して泣いている。
黙ってこの光景を見ているのも辛い。胸が張り裂けそうになる。こんなにも悲しいと感じているのに、俺は泣く事が出来ないでいた。一切涙が頬を伝う事も、目頭が熱くなる事もない。感情が制御されているようで気持ちが悪かった。
「レノ……」
「はい」
「俺はどうしちゃったのかな? 全然泣けないんだ」
「申し訳ありません。その身体では、思考を読むことが出来ません。なので、明確な答えがわかりません」
「そうなのか。じゃあ、しょうがないな」
こんな、自分の感情までもレノに聞いているようじゃダメだ。泣けないからって、悲しいわけじゃない。涙が出ないだけで、俺だって泣いているはずだ。そう心に言い聞かせ、俺は自我の存在を確認していた。
「どうして泣いているの?」
殺しているはずの泣き声が聴こえてしまったのだろうか? 部屋のドアを開けて、顔を出したユキちゃんが話しかけてきた。
「……ちょっと悲しい事が有ってね。もう少し、そっとしておいてあげて? お姉ちゃんと一緒に、もうちょっとだけ遊んでいてくれるかな?」
「……うん。わかった。リリナ、良い子にできるよ!」
「……そう……わかった。リリナは良い子だね」
「うん!」
怯えた表情はしていない。リリナは元気良く返事をすると、部屋に戻りグレースと仲良く遊んでいるようだった。
彼女の名前はリリナだった。ユキではない。それもそうか。と、俺は働かない脳でぼーっと考えていた。