猫
「僕の事はコルチェって呼んでくれると嬉しいな」
猫は礼儀正しく自己紹介をした。
やや小さめのシルクハットを持ち上げて軽く会釈する。なかなかに愛らしい。
『コルチェって名前なのか。あったかそうで猫にぴったりな良い響きだな。今度猫飼ったら同じ名前にしよう』
「コルチェ、ここにはどうやって来たんだい?」
ケンは警戒を解いていない。謎の猫コルチェにそんなに警戒するのもどうだろう。大きさも一般的な猫のサイズだし、毛並みも艶やかで上品この上ない。ぱっと見ロシアンブルーに似ていた。
「僕はどこにでもいけるし、ここにも今さっき次元を超えて来たばかりだよ」
……来た。やっと巡ってきたチャンスが!
「マジか! コルチェ! 俺も世界を超えて来たんだ! それ、どうやってやるんだ?教えてくれ!」
帰れるかもしれない。
僕の期待はどんどん膨れ上がった。コルチェが危険かもしれないなんて、頭から飛んでしまっていた。
「君は誰だい?」
「ああ、すいません。興奮してしまって……。僕は、花 涼介って言います。異世界から転移してここに来たんです。コルチェさんは異世界転移の方法はご存知無いですか?」
「異世界転移か。ちょっと厄介だけど、僕なら出来るよ! 帰りたいのかい? 」
「はい。もう帰ることは絶望的だと思ってましたから」
「そうだね。誰かが意図的に何かしないと絶対に無理だろうね」
「意図的に……ですか」
「そう、意図的に。まあ、でも大丈夫。僕が元の世界に帰してあげるよ。ほら」
そう言うと、コルチェはおもむろにに杖を振った。杖の先端から空間が裂けたかの様に、空中に穴が開く。その先には、見知った景色が広がっていた。
「あ……。俺の家」
「うまくいったみたいだねー。後はここに入れば帰れるよ! 時間も調整しておいたから、うまくいけば入学式に間に合うんじゃないかな?」
「本当ですか!? じゃあ……」
「待って!」
僕がふらふらと空間の裂け目へ歩み寄ろうとすると、ケンが腕を出して僕の体を止めた。
「駄目だよ涼介! 安全が確認出来てないんだ、不用意な行動は危険だよ。コルチェ、それが本当に安全なのか証明できるかい?」
「証明? 僕がここにいることで証明になってると思うんだけど、それ以外じゃ証明なんか出来ないかな。どうする? やめておくかい? 次また会えるかどうかわからないから、君にとって最後のチャンスかもしれないけど」
最後のチャンス……。僕は、焦る気持ちを抑えられなかった。ケンの腕を避けて裂け目に向かって歩き出す。
「駄目!」
ケンが腕を掴んで僕を引いた。だが、それよりも先に右手が裂け目を通過していた。
目の前が黒で覆われ、やがてキラキラとした輝きの隙間から、現実が顔を見せる。
『…………水平線。』
後ろを見ると、ケンが呆然とした顔でこっちを見ている。
『猫……』
そこにコルチェの姿は無かった。
やがて脳が状況を認識すると、右手に激痛が走った。
「いってぇーーー!」
僕の右手が無くなっていた。
血が止まることなく溢れ出す。
痛みに気付くと同時に、ケンが右腕を掴み切り口に何かを吹きかけた。
「いーーーーぃぃぃ……たく……ない?」
切り口がじゅわじゅわと泡立ち、傷全体を覆うと腕の先に赤いアフロヘッドを形作り固まった。
「ふう……。まったく涼介は怖いもの知らずなんだから! とりあえずこれで大丈夫だよ」
いつもの様にケンに叱られた。僕は元の世界に帰れなかった。
「ふっ…ふふ……あーはっはっは! なかなか面白かったよ! 」
ケンじゃない、どこからか声がする。この声はコルチェか?
「次元を超えて来た猫を信じてしまうなんて、なかなか涼介君は面白いね! こんな簡単な嘘に騙されるなんて、次はどうやって騙そうかワクワクしちゃうね! 」
それは、どこか聞いたことのあるような悪者セリフのそれだった。
当事者になって聞くと、それはそれは心中をかき回し、怒りがうずを巻いてせり上がってくる。
「ふざけんな! コルチェ! 出てこい! 」
「おっと、慌てない、慌てない。君とはまた近いうちに会うと思うから大丈夫だよ! 楽しみに待っててね」
声だけだ。あたりを見回しても何もない。いったいどこから……
バァーン!バリバリ!
突然の閃光と、大きな炸裂音。目の前の海が高く水しぶきを上げ、中心に穴を開ける。
『なっ……』
声を上げる余裕もなくケンに抱えられ、僕は空中に持ち上げられた。
眼下に海を見下ろし呆然としていると、やがて波も落ちつき、何事も無かったかのように海は平静を保ち始めた。
「ケン……。何がどうなってんだ?」
「もう少し待ってて。そのうちわかるよ」
ケンに言われた通り、海を呆然と眺めていると、穴が開いた少し先に何かが浮かんだ。
よく見ないとわからないくらい小さかったが、あれは……
「コルチェか?」
「そう。どうやら、うまくいったみたいだね」
「……」
この世界の実力を身をもって知ってしまった。
「なんで殺したんだ?」
「コルチェは明確に敵対攻撃をしたからね。それに、生け捕りにする余裕も無いし、敵に情報を持ち帰らせる事は出来ないよ」
まるで戦場で軍隊がするような意思決定方法だった。
遅れて思考が追いついてくる。
右手を切り取られた事実と、相手がお遊びでなければ死んでいたであろう自分の行動に。
ケンには躊躇いも、混乱も、感情も無い。最善な行動をしただけだ。
ならば、もう少しうまくやれたんじゃ無いだろうか? 右手がアフロヘッドにならずに済んだんじゃないのか? 助けて貰っていながら、恥知らずな感情が痴態を晒す。
自分の体が欠損するという取り戻せない初めての経験に、後悔とも焦燥とも言える悲痛な感情に、思考が飲み込まれていた。
「ケン……俺の右手……」
いろいろな黒い感情が渦巻いていて、今その先を口に出せば酷い事を言ってしまうだろう。
口をつぐむ事は出来たが、その先の言葉を組立てる事は出来なかった。
「大丈夫。治るよ。」
「え?」
「涼介を待たせていた三十日間で、脳以外のスペアは作ってあるから大丈夫だよ」
「ええっ!……えー!」
大丈夫だった。
脳以外ののスペアとか……ちょっと……というか、かなり見たく無い。
「そっ……そうなんだ。このアフロ治るんだ。」
「もしかして気に入っていたのかい?」
「そんな訳ないだろ!?治してください!」
「オーケー! 船に着いたらすぐに治療だね!」
「お願いします!」
打算的な僕は、とりあえず治ってからなにもかも考える事にした。
色々といやらしい意図が絡み合って出来た結果だ。ちゃんと組み立てた会話じゃないと、本題に行く前にこじれてしまうだろう。
「さあ、みんな! 涼介を頼んだよ!」
ケンは船の乗組員に僕を引き渡すと、すぐさまコルチェの回収の手伝いに向かってしまった。
電波障害区域ではケンは貴重な労働力なのだろう。
着いて来てくれないのかと一瞬不安になったが、なにかとケン頼りになってしまっている自分に気付き、少し恥ずかしくなる。
『ケンがいなくても、一人でなんでもできるようにならないと……。なんでもかんでもケンがいないと不安になるなんて……子供か!』
切ない一人ツッコミを交わし、気持ちを入れ替える。
ケンがいなくても、前に進まなければならない。面倒くさがらずに、もっと交流の幅を広げなければ、どんどんケンに依存してしまうだろう。
頼りになり過ぎる親友に胡座をかいてばかりでは駄目人間になる。
「涼介様」
タンカで運ばれている最中に声をかけられた。
レノだ。
「おお。レノか。ありがとうな! レノのおかげで助かったよ」
「いえ、涼介様にお怪我をさせてしまいました。申し訳ありません」
「いやいや、これは自分のせいだからなんとも。こちらこそ、言うことを聞かずにこんな結果になってしまって申し訳ない」
「いえ、とんでもありません。今回の件ですが、これからコルチェを回収し、調査いたします。現在シューゼ法国でなにが起きているのか? 事態はそう簡単ではなさそうです。コルチェの調査次第では、一旦シューゼ法国の国民を安全な場所に避難させなければなりません」
「そうだな。もうアロー法国に連絡したのか?」
「いえ、まだです」
「じゃあ、すぐに現状を連絡したほうがいい。情報が細切れになっちゃうけど、終わってから報告じゃ遅いかもしれないからな」
「……かしこまりました。遣いを出します」
「あ……。ごめんレノ。俺の提案は無駄なら却下してくれていいからな。いくら良かれと思って指示したところで、その場しのぎの短慮に過ぎない可能性の方が高いから!」
「いえ、今回の涼介様のご提案は遅かれ早かれ実施される予定でした」
「そうか。悪りぃな。まだあんまり頭回ってないみたいだ。レノに指示出すなんてな……」
「いえ、涼介様は思う通りに発言していただいて結構ですよ。その方がより良いと結論付けられていますので」
買いかぶり過ぎだろう。だが、レノになにを言ってもしょうがない。だから、僕はしょうもないお願いで、この世界にとって良くない結果を起こす事だけは避けなければならない。
個人で背負うには大き過ぎる期待と代償だ。ただし、良い結果になればこの世界の英雄となるのだろう。その甘美な響きは、人を惑わし、破滅へと導く一歩になりかねない。英雄なんて、なりたくてなるようなもんじゃない。後から付いて来る結果だ。その事を勘違いすれば、英雄と言う名の偽善者を大真面目に演じなければならなくなる。世界に期待と責任を押し付けられ、道化師として今後の人生を歩むことにならないよう、謙虚に、慎ましく生きていくことを誓おう。