第七話
「ユート!」
男がテーブルを蹴り上げたのと、少女が動いたのが、ほぼ同時だった。
フェルナリートは宮廷魔術師の少年に抱き着きながら、横っ飛びに跳んだ。
ソファーから転げ落ちた少女と少年が、もつれあって地面を転がる。
フェルナリートはさらにくるっと一回転して膝立ちになり、攻撃してきた男を見据えながら、腰の剣を抜こうとする。
しかし、剣の柄を握ろうとした右手は、虚しく空を切る。
フェルナリートの腰に、剣は装備されていなかった。
その段になって、領主の館に入る際に武装解除されていたことを思い出した。
「ほぉ、今のをよけやがるか。やるじゃねぇか、お姫様よぉ。こいつぁ少し楽しみになって来たな」
テーブルを蹴り上げた男はそう言いながら、ウォーミングアップというように首をごきごきと鳴らしていた。
武器を持っていないのは男の方とて同じであるが、その肉体そのものが持つ凶悪さは、少女のそれとは比べるべくもない。
その男の凶行を、彼のすぐ横で腰を抜かした領主が止めようと、声を張り上げる。
「や、やめろグリット! こいつらを殺したところで……!」
「はっ、んなこた後から考えりゃいいんだよ。いい加減、腹くくれや旦那。つかよぉ、せっかく旨そうな獲物見つけて大興奮な俺ちゃんの邪魔すんなら──あんたから先にぶっ殺してやるぜ」
「ぐぅっ……!」
雇い主であるはずのアドラルトが止めても、男──グリットは聞きわけるどころか、逆に恫喝する始末であった。
そしてグリットは、その興味を眼下のフェルナリートへと戻し、大股で一歩踏み込む。
「さあ可愛いお姫様よぉ──その綺麗な顔、ぐちゃぐちゃにぶっ潰してやるよ!」
「くっ……!」
フェルナリートの顔面を蹴りつけようと、男の脚が振り上げられた。
膝立ちの体勢の少女は、ぶんと唸りをあげる一撃を、上半身を後ろに逸らせて回避する。
少女の鼻先わずか空間を、男の靴の先がえぐってゆく。
さらに、そのまま踏みつけにくるグリットの足を、フェルナリートは後ろに跳んでかわすが、そこで少女の背中が部屋の壁にぶつかった。
「──姫様!」
「ユートは領主をお願い! こいつは私が!」
さらに迫りくる男の蹴りを横っ飛びで回避しながら、フェルナリートが叫ぶ。
「はっ、俺なんか一人で大丈夫ってか、面白れぇ──おい旦那、そっちの魔術師はテメェが何とかしろ! テメェだって腐っても騎士の端くれだろ、根性見せろや!」
少女と男が、ともに邪魔者を相方に押し付け合って、一対一の状況を作り出す。
そしてフェルナリートは、相手の隙を見て立ち上がり、ようやく両者が立って向き合った状態になった。
「ちっ、すばしっこい嬢ちゃんだ。でも逃げ回ってばっかじゃ勝てねぇぜ」
「不意打ちしておいて、よく言うわ。御託はいいからかかってきなさいよ」
「言うねぇ。剣がありゃあともかく、素手で男に勝てるつもりかよ」
「素手の組手でも、三回中二回は勝つわ」
「ふん、そりゃああの魔術師の坊主相手の話か? あんなナヨナヨしたのは、男って言わねぇんだよ。男ってのはよ──こういうもんだ!」
グリットが床を蹴る。
一足飛びでフェルナリートを素手の間合いに収め、拳を固めた剛腕を振るう。
その拳は容赦なく、少女の顔面に襲い掛かる。
だが次の瞬間には、少女の姿はグリットの視界から、忽然と消え去っていた。
「なっ……どこ行きやがっ──がはっ!」
目にもとまらぬ速さでグリットの懐にもぐりこんでいたフェルナリートは、全身の体重を乗せた肘を、その男の腹に埋め込んでいた。
「ぐっ……のガキャア!」
男が両腕で抱き込むように捕まえようとしてくるときには、フェルナリートはすでに、バックステップでその場を離れている。
そして、低くなった男の頭に、鋭いハイキックを叩き込んだ。
「がっ……! く、クソが……!」
グリットはそれでも倒れず、ぶるぶると頭を振る。
そして憎々しげに、怒りの表情でフェルナリートを見下ろす。
フェルナリートはそれに、少し感嘆したように目を見開く。
「……驚いた、タフね、あなた」
「くっ、こんガキゃあ……ぶっ殺してやる。裸にひんむいてから殺してやるぞごらぁっ!」
男は理性を失った獣のように、フェルナリートに襲い掛かる。
両手でがむしゃらに少女につかみ掛かろうとするが、フェルナリートはそれらをひょいひょいとかわすと、その片腕を取って背中側へとひねり上げ、そのまま男の体をうつぶせに倒した。
「がああああっ! くそっ、クソがああああっ!」
グリットは拘束を抜け出そうともがくが、一向にかなわない。
それどころか、さらにがっちりと関節技が極まってしまい、より一層自由を奪われることとなった
フェルナリートは、少しだけ切らせた息を整えつつ、口を開く。
「私がいつも相手にしているのは、騎士たちの中でも精鋭の、王宮近衛騎士たちよ。あなたみたいなのが相手なら、三回中三回勝てるわ」
そうして少女が男を制圧したとき、彼女の相方である宮廷魔術師の少年も、ちょうど自分の相手を魔法で眠らせることに成功したようだった。
少年につかみ掛かろうとする姿で、太った貴族姿がばったりと倒れてゆく。
男を押さえ込んだままのフェルナリートが、少年に声をかける。
「結構かかったのね。意外と手ごわかった?」
「もう、姫様。魔術師に一対一での接近戦能力を期待しないでくださいよ。精神集中もままならないんですから」
「あ、そっか、ごめんごめん。ついでにこっちも眠らせてくれる?」
「興奮しているようなので、眠らせるよりは全身麻痺させた方がまだ楽ですね。もう数秒、そのまま取り押さえておいてください」
「ん、分かった」
そうして少年の魔法でフェルナリートの相手も動けないようにすると、ようやく場が静かになった。
そして宮廷魔術師の少年は、大きくため息をつく。
「……はあ、危なかった。この様子だと、元より事の主導権はアドラルト卿ではなく、このグリットという男が握っていたのかもしれませんね。雇っていただけのはずが、いつしか弱みを握られて、立場が逆転したとか……迂闊でした」
「ユートって頭いいけど、詰めが甘いところあるよね」
「……あの、それ姫様に言われると、すごい腹立つんですけど」
「あはははは」
フェルナリートは笑うが、宮廷魔術師の少年の胸中は、まったく笑えないという気持ちでいっぱいだった。
何しろこれから、自分たちが領主の館で無法を働いたことに関する後始末の仕方を、一人で考えなければならないのだ。
正当な理由があるとはいえ、それは彼の頭痛の種とならないほどには、簡単な仕事ではないのであった。