昭和は良かった(笑)
昭和は良かった(笑)昭和の雰囲気そのままに。
42歳となり、人生ももしかしたら半分以上終わったかも、という心境からの~、最近仕事が暇ですよからの~、自叙伝を書こう!という気になり、新エッセイスタートです。今回こそ、尻切れとんぼにならぬようがんばります(笑)
昭和48年秋、わたくしは四日市市内の産婦人科で産声をあげました。
昭和48年秋は、第一次オイルショックで、町中からトイレットペーパーが消えた大騒動の真っ最中だったとか…
四日市は万古焼き(ばんこやき)という瀬戸物が地場産業でそこの5代目として生を受けたわたくしは、なかなかのお坊っちゃん育ちでした。祖父の月給が月に40万円だったそうです、42年前。それから間もなく我が家は没落の方へ、行ってしまうのですが、それはまた、後程。
昭和40年代50年代の四日市は喘息がまだ流行っていました……
公立の小学校一年生まで話は飛びます。昭和54年。黒のランドセルで初めて小学校に登校した日の事をいまだに覚えています。
初めて入った教室1年B組に、ピンクの折り紙平仮名でわたくしの名が入った短冊が貼ってある机を見つけて、はしゃいで座りました。
担任のU先生は、当時流行りの聖子ちゃんカット、20代半ばの女性の先生でした。
U先生のクラスメイトへの最初の質問は
『好きな食べ物は何ですか?』
でした。
わたくしの順番が回ってきて、
「果物ならばなんでも好きです!特にミカンが好きです!」と答えました。三つ子の魂百まで、ですね。今でも好物は?と訊かれればミカン、と答えます。
大学時代の先輩にこの話をしたらおどろかれたのですが、小学校の全水飲み場に「うがい薬」が設置されていました。空気が悪いので、水を飲む前、飲んだ後はうがいをしましょう、と。四日市の陰の部分ですね。
まだ、幼児教育などなかった時代、わたくしは小学校2年生の夏休み明けまで、平仮名が全部は書けないアホな子でした(笑)
おまけに泣き虫で小学校の低学年時代は1日5、6回は泣いていました。祖母に「今日、学校はどうだったの?」と訊かれると、「6回、泣いた(^-^)」と答える、ほんとアホな泣き虫男子でした。。。(続く)




