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16.ねーちゃんと、家に帰った



「ねーちゃん、話があるんだけど」


家に着いた途端、部屋に籠ってしまいそうなねーちゃんの背中に声を掛けた。


「荷物置いたら……後で居間に来てくれない?」


ねーちゃんは振り向かずコクリと頷いた。


俺も荷物を置いて軽くシャワーを浴びる。練習後、汗まみれのまま安孫子の家に押しかけたのだ。一人暮らしをしているのは驚いたな。だからいろいろ自由がきくのだろう。


居間を見ると―――ねーちゃんはまだ下りて来ていなかった。


俺は髪の毛をガシガシタオルで拭いながら、階段を登った。ねーちゃんの部屋の扉の前で、立ち止まる。


「ねーちゃん。お茶入れるから、降りてきて」

「……」

「……何もしないから、お願い。……先に行ってるね」


俺はお湯を沸かして紅茶のパックをポットに入れた。ねーちゃんの好きなミルクティを作る。ご機嫌伺いというより少しでもリラックスして欲しい、そういう気持ちで丁寧に準備する。


キッチンから芳醇な香りが広がって―――俺の気持ちも落ち着いてきた。


カチャリ。


扉が開いて、華奢な体がゆっくりと現れた。


表情は固い。

けれども。


ねーちゃんがこの家にいる、それだけで俺の胸には安堵が拡がって行った。


自分は寂しかったんだと、改めて実感する。


ぽっかりと空いた空洞が温かい物で満たされる。この気持ちは……一時のまやかしかもしれないと考えるには、あまりにも濃厚過ぎる。

俺を包み込む柔らかい日溜まりは―――恋と呼ぶにはあまりにも濃く、家族愛というにはあまりにも甘い。


ねーちゃんが俺を受け入れるようなはっきりとしたサインがあるまで、俺の心の内を打ち明けるべきでは無いと考えていた。だけどもうどうしようもなく隠せなくなっている。だからあの日、無理に抑えつけていた物のたがが外れて暴走してしまったのだ。


衝動的に打ち明けたあの日の告白は、その行為の現実と裏腹に俺の『甘え』だった。理性を失ったままぶつけた気持ちを受け止めて欲しいなんて―――まるで幼い『弟』の行動そのものだった。泣いて暴れて我儘を言う……小さな子供と変わらない。




俺はミルクティをダイニングテーブルに置いた。

本当はソファの方が落ち着けるけど、ねーちゃんが緊張するかもしれないと考えたから。触れる程近くにいたいけど―――今はまだテーブル越しに距離を取ったほうがいいだろう。


ねーちゃんは、無言のままダイニングテーブルに座った。


俺はあらかじめ温めた牛乳を入れて置いたマグカップにポットから紅茶を注ぎ混み、ねーちゃんの前へ差し出す。


「ありがとう……」


消え入りそうな声。


ねーちゃんの柔らかい声が耳に届いた時、俺の背筋をぞくりと何かが這い上がった。


ああ、俺はねーちゃんの声にさえ、飢えていたんだ。


何だか目頭が熱くなってくる。ねーちゃんの誠実さが、悲しい。俺がやった事を考えれば一生口を聞いてもらえなくても仕方が無いと思っているのに、お礼を言われてしまって申し訳ない気持ちになる。


「うん」


俺は、ゆっくりと温かいカップに口を付けた。豊かな香りが口いっぱいに広がって、上ずった感情がゆっくりと腹の中に降り積もって行くのを感じた。


「ねーちゃん、あの……」

「ごめんなさい」


ねーちゃんが、辛そうに眉を顰めてテーブルに目を落としていた。


「え?」


何を言われているのか判らない。

ねーちゃんが謝ったのか?なんで?


「何でねーちゃんが……俺こそ……謝らなきゃならないのは、俺の方だよ」

「ううん…私、清美がいつも私に言っている事をきちんと受け止めていなかった。清美の事いつまでも小さい子供のままだと―――思いたくて。可愛い弟を手放したく無くて……だから清美の気持ちに気付かないまま、結局清美の優しさに甘えて居心地の良いところでぬくぬくしていて」

「ねーちゃん」

「いっぱい、傷付けた?……ごめんね。清美の気持ち、見ない振りして……怒って当然だよ……」


伏し目がちに震える……ねーちゃんのつぶらな零れ落ちそうな黒曜石の瞳が、キラキラと輝きを増した。涙の膜が照明の光を拡散しているのだ。

マグカップを握る小さな白い手が震えている。思わずそれに自分の手を重ねたい衝動に駆られたけど―――グッと堪える。


無垢材でできたダイニングテーブルに、阻まれた距離がもどかしい。

でも有り難くもあった。でなければ衝動的にその細い体を抱き竦めてしまっていただろう。


「鴻池さんに、言われたの。清美が私のこと……家族って意味じゃなく……好きなんだって。そう言われても『まさか』って思っていて。清美に面と向かって言われるまで気付かなくて……」

「ねーちゃん、謝らないで。違うんだ。俺、ねーちゃんに気付いて欲しく無かったんだ」


ねーちゃんはそこで少し顔を上げた。問いかけるように俺を見上げる。


「俺に勇気が無かったんだ。俺、ねーちゃんを好きだったけど……自分でもどうして良いかわからなくて……ねーちゃんのこと、大事な家族だと思っているのも本当で、この関係を壊すのが怖かった。なんの覚悟も無くて……好きなのに―――振られてねーちゃんと話せなくなるのも嫌だったし、ねーちゃんがもし俺の事好きになってくれても、ずっと好きでいてくれるか自信も無くて―――きちんとねーちゃんに告白する勇気が持てなかったんだ」


俺は一旦そこで息を吸い込んだ。

そして吐く。もう言ってしまえ。

もう隠す必要など―――何ひとつ無いのだから。


「でも嫉妬だけは一人前で……友達だって聞いてても、王子とかが傍に来ると腹が立つし……自分が告白する前にねーちゃんが俺の事好きになってくれればって、都合の良い事ばかり考えてさ」

「清美……」

「今だってはっきり言ってどうして良いか、全然わかんないんだ……ただ、このままねーちゃんと擦れ違って離れて行っちゃうのだけは、嫌なんだ」

「うん」


ねーちゃんは、静かに頷いた。


離れているのは、嫌だ。


ねーちゃんは、その俺の想いに同調してくれた。それが無性に嬉しくって、喉が詰まった感じがする。


気持ちが溢れ出して来るのが抑えられず、俺はテーブルの上の白くて小さい手の上に自分のゴツゴツした手を被せた。




温かい。




思わず、その温かさにほっとする。

ねーちゃんは俺の手を振り解かなかった。




「ねーちゃん、好きです。俺と付き合って下さい」




思わず口を付いて出た。


それまでいろいろ悩んでいた。


振られたら?気まずくて傍にいられなくなるかな?

幸運にも付き合う事ができて……その後もし、別れる事になったら?ねーちゃんに、本当に好きな人ができたら?

結婚する覚悟、ある?親に打ち明ける覚悟とか、世間の視線に耐えられるかとか……。


でも、今俺の心にあったのは。

意外とシンプルな願いだった。


好きだって伝えたい。

ねーちゃんに俺の事、男として好きになって欲しい。

それで付き合いたい。他の男にねーちゃんと付き合う権利を渡したくない。


それだけ。

普通の男女交際と、おんなじ事だけ。


言ってから理解わかった。




そっか。

全てはここからだ。

自分の本心を言って。それから。




ねーちゃんに振られれば、終わり。だけど家族関係は変わらないから―――駄目ならその関係を取り戻せるよう、努力する。好きな気持ちが変わらなくても、それは自分が抱えて行くしかない。


ねーちゃんが受け入れてくれれば、ずっと好き同志で居られるよう努力する。それで努力が実らず、ねーちゃんに他に好きな人ができたら―――その時はまた振り向かせるよう頑張るか……どうしても駄目なら振られるしかない。


そんな事、今悩んでもどうしようもない。

万が一にも無いと思うけど……将来自分が違う相手を好きになるかもしれない。それも、今の俺にはどうしようもない。

自分が悩んでも、どうにもならない事を悩んだって―――ただ時間を消費するだけだ。


だって、まだ何も始まっていないんだから。

俺の気持ちを伝えないうちは。悩みさえ生まれていない状況なのだから。


「今すぐじゃ無くてもいいから、考えてみて返事が欲しい。返事が俺の希望と違っても……ねーちゃんが俺の大事な家族だって事は変わらないから。だから―――ねーちゃんの本当の気持ちを教えて欲しい」


ねーちゃんの大きくて黒い2つの瞳は、今では俺の瞳をしっかりと見据えていた。




やっぱ、可愛いーわ。




どうしようもなく、好みなんだ。

この円らな瞳も、黒くて艶々した髪も、白くてもちもちした肌も、抱えやすい小柄な体も。

低くて優しい声も、おおざっぱなとこも、ハンバーグが上手なとこも。

人見知りであまり沢山の人と打ち解けられないところも。

たまに人を抉るような辛辣な台詞を発する唇も。

俺を見守って、安心させてくれるおおらかな性質も。

いつも無表情なのに、甘い物食べて上機嫌になるところも。




例えねーちゃんと、姉弟として巡り合えなかったとしても。

―――きっと俺はこの女性ひとを好きになった。


俺は自分自身と闘いながらゆっくりと指の力を抜いて―――ねーちゃんの手を離した。

名残り惜しかったけど……。




離した手の……掌の中には、ほのかに残り香のような温かみが消えずにずっと灯っていた。



次回、最終話です。

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