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◆ 弟を、心配された <晶>

清美の姉 晶視点です。

あまりに一方的な攻撃に堪忍袋の緒が切れた私は、溜息をついてそのファーストフード店を後にした。

しかし時間と共に怒りが薄らいでくると―――脳裏に刻まれた鴻池さんの台詞が木霊こだまのように私の中にリピートされて頭から離れなくなった。




『もう森を惑わすのは止めて欲しいって、言っているんです』

『森を苦しめないで下さい。森の気持ちを踏みにじらないで』

『森は、お姉さんの事女の人として好きなんです。分かっていて無視しているんですか?』




誤解だと否定すると、彼女は清美に直接聞いたのだと挑戦的な目で私を貫いたのだ。それが鴻池さんの狂言だと言う可能性は……いまだに否定できない。

だけどそのときの鴻池さんは、私を騙そうとしているようには見えなかった。

彼女を良く知っている訳ではないけれど―――少なくとも自分自身に対して正直に思った事を口にする人だという印象を受けた。ただ少し思い込みが激しい性質のように見えるので、彼女が信じている事が真実かどうか……という事には確信が持てなかった。


それはおそらく清美がおこなった微妙な発言についての彼女なりの解釈で。彼女はその解釈に従って、自分が正しいと思う行動を実行したのだろう……と、思う。


たぶん彼女は清美のことが好きなのだ。清美はその可能性について否定していたけれど―――だからこそ血の繋がっていない私と清美が、家族だからといって親しくしている事実に耐えられないだろう。

彼女の言い分の是非はともかく、王子との交際を勧めたり遠方の大学受験を勧めたりと……とにかく私を清美から引き離したいという熱意だけは伝わった。

実際既に私は、東京の大学を受験する事を検討していた。だけどあまりに高圧的な彼女の物言いにカチンと来てしまい言いなりになって受験したと思われるのが嫌で、つい『鴻池さんには関係ない』と言い放ってしまったのだ。

……もしかしたら、あの一言は余計だったのかもしれない。


昼休みに一緒にご飯を食べた時から鴻池さんは一方的で、清美は鴻池さんの強引な行動に戸惑っていた。


だけどどういう事だろう。

鴻池さんは『直接、森に聞いた』と言っていた。


清美と鴻池さんは、もともとそういう話をするほど近しい間柄だったという事だろうか。少なくとも彼女が誤解している可能性はあるにしても、なんらかの考えを清美が鴻池さんに打ち明けたということは事実なのだろう。


清美から、これまで鴻池さんの話が出る事はほとんど無かった。


でも部活動では常に一緒で、同学年の鴻池さんと清美が接する時間はかなり多かった筈だ。




そういえば。




夏休み前に見学した、バスケ部の練習風景―――その一場面が脳裏に浮かんだ。


清美の頭をタオル越しに掻き回していた鴻池さん。清美は笑いながら応対していた。

2人の間に親密な空気が流れていて、周囲の清美ファンらしい女子達から抗議の声が上がっていたっけ。

清美がそんな風に女子と親しくしている所を見たのは初めてで、私は興味深く感じたものだ。


……あれ?


と、いうことは……。


もともと清美と鴻池さんは、親しくて。

いろいろ深い話をするほど仲が良く。

鴻池さんがいろいろ誤解しているにしても、彼女は清美を案じて行動していて。

清美は私の前で一応迷惑そうな対応をしているけれども……。

それは遠慮なくぶつかる事が出来る2人の親しさの発露―――なのではないか?


清美は姉である私の事を尊重してしまうから……そんな本心を口に出せず、照れ隠しでつい鴻池さんの事を邪険にしてしまっている……という可能性はないか?




だとすれば。




鴻池さんが姉に執着する清美の為に、あえてあねから距離を取った方が健全だっていう主張は―――正しい判断と言えるかもしれない。


私はますます混乱した。

到底、清美が私の事を女性として好きだなんていう鴻池さんの妄想(?)は信じられないけれど(何せ小学生の子供の頃からの付き合いだ)、少なくとも3人で中庭でお弁当を食べた後に、清美と鴻池さんの間で何か話し合いがあったのだろう。


やはり鴻池さんの主張を……丸切り無視しない方が良いのだろうか。


清美の本音について、彼とちゃんと話をしたほうが良い?

私の所為で清美が道を間違ってしまうなんて事が……あるだろうか?


あの、明るくて率直な子が……?友達に囲まれて、誰にでも好かれるあの子が?


それとも私が高校生になった清美を正しく見ようとしていないのだろうか?―――鴻池さんには―――清美が苦しんでいるように見えているのだから。


ファーストフード店で鴻池さんにきっぱりと言い放ったその瞬間、溜飲は下がったけれど―――後になればなるほど、かえって不安が湧き上がってくる。そして私の清美に対する判断には……さして強い根拠は無いのだと気付かされる。




その日スーパーへ買い出しに行った私の買い物カゴには、清美の大好物のハンバーグの材料が入っていた。完全に無意識だった。


鴻池さんの主張を無防備に信用したわけでは無いけれど―――何となく清美に申し訳ない気持ちが湧いてしまったからかもしれない。







** ** **







どうして、こうなったのだろう。


始めは些細な言い争いだった。

売り言葉に買い言葉―――みたいな。







受験の話になって、清美が東京の大学受験に反対して。

ひるがえって清美の過剰な心配性に話題が及んで。


清美が私の両手首を掴んだ。運動量の差なのか、平熱の高い清美の掌から熱が伝わって来る。思い詰めた表情が心配になって清美に声を掛けたら、そのままソファに倒れ込んでしまった。


「はは…」


清美が乾いた笑いを零した。様子のおかしさに、私は彼がますます心配になった。


「ホントに警戒心ないなって。男はね、ねーちゃんみたいに非力な女なんて、簡単に押さえつける事ができるんだよ。こんなふうに」


清美は自分の発言の正しさを裏付けるように、私を押さえつけたのだ。言葉で説得しても納得しない私に対して、実際に体験させて理解させようとしているのだろう。

だけどやり過ぎではないか。例え2つ年下だとしても、清美のような鍛錬を重ねた運動選手にインドア女子が対抗できないことは、火を見るより明らかだ。


そんなに私の反論が腹に据え兼ねたのだろうか。


「独りになっても―――近づいて来る男を上手くあしらえるって言うなら、実際にやってみせてよ」


ひゃっ。


耳に息が掛かってくすぐったさに思わず背筋がぞわっとした。声音が冷たくって―――清美の怒りが伝わって来た。仕方が無いので清美の要望に応えて、精一杯抵抗してみる。

すると清美は腕だけじゃなく、両脚でも私を固定してきた。


「……っ!」


腕だけでも無理なのに、そこまでして思い知らせたいのか。

清美の意地が伝わって来て、思わず息を呑んでしまった。


清美は本気だ。

だから私も本気でやってみる事にした。


2人とも無言のまま―――私は必死にあれこれ抵抗を試みる。体格では敵わない事が明確なのに私も清美の真剣さに煽られて意地になってしまったのか、一通りしっかり抵抗した後、私はぐったりしてしまった。

けれども見上げる清美は―――息ひとつ乱れない。




姉の面目、丸潰れである。




あれか。

いつも息子を力で押さえつけていた父親が、ある日息子が弾みで放った軽い一撃でふっとばされてしまったような。家族の力関係の崩壊みたいな。

そんな気持ち。


泣きたい。


私は感傷的になってしまった。

大事にしてきた弟に、口で敵わないからといって力で屈服させられるなんて。

成長を喜ぶべきなんだろうけど……追い越された事を眼前に晒されて、私の姉としての矜持はズダボロだった。


私、間違った事言っていないのに。


「……無理だよ……私が清美に敵うわけないよ」

「道外受験、止めたくなった?」


なんで?

そんなに私、頼りない?


人見知りはずっと居心地の良い場所に引き籠っていた方がいいって言いたいの?


やっと友達もできて。

好きな事をやれる大学に、挑戦してみようって考えているのに。


清美にとっては、私は非力な考え無しの子供に見えるの?私を追い越したつもりなの?

私の容姿が子供っぽくて、清美が大人に見えるからって。


「それとこれとは、関係ないよ」


私は少し意固地になっていたかもしれない。

その日鴻池さんに責められて、清美が私より彼女に心を許しているのかもしれないって考えてなんだか焦ったような気持ちに急かされていた。


弟を取られたような。


そんな感情なのかもしれない―――私の反抗心に火を点けたのは。

でもその時の私の心情も多少おかしかったけど、清美も常とは様子が違っていた。




「そっか、これじゃ足りないか。じゃあもっと納得できるよう説得しなきゃな」




聞き慣れた弟の声とは思えない冷たい響き。


同時に唇に違和感。

ちゅっと音がなった。


意識がポーンと床に跳ねたゴムまりみたいに空中へ飛び上がった。それからストンと落ちて元の位置にすっぽり嵌る。


自分を取り戻した時、目の前にあったのは端正な清美の双眸。

何があったのか尋ねる前に唇を生暖かい物で塞がれた。

それから軟体動物のような塊がグイッと押し込まれた。それは口の中をじっとりと動き周り、私の舌に絡み付く。

体がビクリと跳ねた。私の意思に関係なく。


(ちょっ、ちょっと待って)


制止の声を上げようとするけど、口の中いっぱいにそれが居座っているので、声がでない。

それから暫くの間……というか本当に長い間、清美は私の口を塞いでいた。


そしてやっと口を離してくれたと思ったら、そのまま至近距離で穴が開くほどジロジロと顔を検分される。

もう、抗議の声を上げる力が顎の筋肉に残っていなかった。とにかく空気が恋しかったので、荒い息を肩でするしか無い。


あ……顎が痛いんですけど。




「怖い?」




思いも拠らない言葉が清美から発せられたので、私は最初、彼が何と言ったのか理解できなかった。聞き逃した言葉を追うように言葉を発したその唇を見て、記憶の中の台詞を再度拾い集めた。


『こわい?』って言ったのかな。


どういう意味だろう。聞いている意図がわからなかった。


「こわく……ない」

「そう……まだ分からないの?」


私は言葉選びを間違えたのだろうか?


でも、何を差して『こわい』と聞いているのか判らなかった。この家に私が怖いと感じるものは無い。居心地の良い住処と温かい家族。私に恐怖を与えるものは、この家の敷地内には存在しないのだ。


噛み合っていない事は理解できた。

私が返す言葉も態度も、清美の気に入るものでは無かった、という事は分かった。


というのは、清美が私の腰を抱え直し、更なる試験を実行したからだ。


ぐいっと脚と脚の間に清美の体が割り込んで来た。大きな分厚い体がそこに居座る場所を作るために、私の両膝頭がぐっと持ち上がった。


これは……なんとも恥ずかしい格好だった。

こんな格好をしたのは、おそらく記憶にないほど幼い頃以来だろう。

私が他人事のようにその状態を分析していると、不意にお腹の辺り、ブラトップ越しに何かが触れた。それはゆっくりと這うように上を目指し、ささやかに盛り上がる場所に辿り着いた。そしてギュッと両胸から、鷲掴みにされる感触が伝わって来る。




えっ?




私は咄嗟に何が起こったのか判断できず、近くにある弟に目で問いかけた。

が、すぐに何が起こっているのか理解した。そして、問いかけた相手がその行為の実行者だという事に気付いて狼狽える。




えっ?何で?




混乱していた。

更に鷲掴む指に力がこもって、私の胸部についた細やかな脂肪が僅かに形を変えた。


「ねーちゃん……怖いでしょ?」


あ、そうか。


やっと理解した。

清美は私を怖がらせようとしているんだ。


体格の良い男性に抗えないひ弱な女性の体に、言葉にできない恐怖を上書きする事で、清美の主張を私に理解させようとしているんだ。


そのことに、この時やっと気が付いた。


ふっと肩の力が抜けた。

私は、やっと我に返って返事をする事ができた。

フルフルと首を振って、声に出して言った。




「こわくない。清美をこわいなんて、思うはずない」




嘘だ。


怖かった。

今初めて、怖さを感じた。




幾ら理屈を重ねても、口で正論を説いても。

息も乱さず、それを屈服させる『力』が―――男の人には、あるのだ。

何が真実だろうが、どちらが正しかろうが。

捻じ伏せる『力』に抵抗しても、無駄なのだ。




もうそこには、私の可愛い『弟』はいなかった。

水溜りに突き飛ばされて茫然とする弟の手を引いて、落ち着かせ支えたあの頃が……何故か心に浮かんだ。


精一杯強くありたいと反発する小さな男の子は、ここにはもういないのだ。

ここにいる清美はもう既に、十分すぎる程の力を蓄えた立派な1人の男性だった。







とうとう非力な私を見るその薄い瞳に―――気の毒そうな同情の色が浮かんだ。


そしてゆっくりとその瞼が閉じられて、両胸が圧迫感から解放され自由になった。


と思ったら、どさりと大きな硬い板のような体が降って来て、私の体を圧迫した。




私を覆い隠すほどの大きな体から、声が直接、振動となって伝わって来た。




「ねーちゃん。俺ねーちゃんの事、好きだ。姉じゃなく、女の人として。だから、離れたく無い」




じん……と、言葉が私の体に染み渡る。


染み渡って行く速度に合わせて、私の中で幾つか抜けていたパズルのピースがカチカチカチ、と嵌って行く。朧気に形作られていた絵が―――鮮やかに本当の姿を現した。


清美の言っている言葉が、すっとまっすぐ心に入って来る。


これまで清美が目の前に差し出した絵を―――私は離れたり近寄ったり、斜めから見上げたり裏返したりして、それがまるでだまし絵であるかのように、答えを探して額縁の周りをウロウロしていた。


やっと素直に―――静かな気持ちで、その絵を見ることができた。

清美の言っている事を、そのまま。

裏の意味とか本当の気持ちとかを推し量らずに、そのままの言葉を受け入れる。




「都会で独り暮らしをさせるのも、心配だし。俺が知らない場所で―――他の男がねーちゃんに近づくのかと思うと、気が狂いそうになるんだ」




しかも清美はとっくに、私が清美の台詞を誤解している事に気付いていて。

だけど私に意識させないように―――私がそれを意識して委縮しないように、かつてのままの『弟』を演じてくれていたのだ。


いったいいつからだろう。


とっくに彼は私を追い越していた。それは体格についてだけじゃ無かったのだ。




そして清美がそっと―――体を離した。

私を温めていた温もりと空気を介さず伝わって来た言葉が……また私から離れてしまう。


寂しい。

もっと、包まれていたいのに。




「ごめん」




視線ごと体を逸らして―――清美がソファを離れた。


私は心の中では手を伸ばしていた。

だけど実際は……腕には力が入らず、ピクリとも動けないままそこで茫然と横たわっていたのだった。


暫くそのまま、そうしていて。

やっと体が動いたとき―――彼が謝罪の言葉を口にした意味を理解した。


涙が頬を濡らし、私の体は小刻みに震えていた。


私は自分の体が恐怖心を露わにしていた事に、やっと気が付いたのだった。

彼は私を怯えさせた事について、謝罪したのだ。




「清美、ごめんね」




私は今度こそ、意識して泣いた。


清美の部屋に届かないよう、嗚咽を堪えて。

自分の浅はかさが恥ずかしくて。




胸に抱えていた沢山の大事な『弟』との想い出が―――遠く離れていくのを感じながら。



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