9. 体育準備室に忘れ物を取りにいったら
土曜日の部活の後着替え終わってから、体育館にサポーターを忘れた事を思い出した。
「ちょっと、体育館寄ってくわ。サポーター忘れた」
「更衣室、締めちゃっていい?」
地崎がシャツからニョキッと顔を出して、聞いた。
「うん。荷物持って出るわ」
俺は更に忘れ物を重ねないように、ロッカーを隅々までチェックして更衣室を出た。
確か、体育準備室の扉の所に置いたような。
あ、あったあった。
準備室の扉の脇に置きっぱなしだったサポーターを手にしようと屈んだ時、バスケットボールを一杯入れた移動式の籠のすぐ横からムクッと何かが飛び出してきた。
「うおぉ……!」
な、なんだ?!
俺は思わず尻もちをついた。
「え、あっ……あれ?」
よく見ると気配の無かったところに唐突に現れたのは、人間だった。
「鴻池……」
「……」
「……脅かすなよー」
ホッとして抗議の声を上げると、鴻池はムスッとしていた。
「脅かしてない。あんたが勝手に私のいる所に入って来たの」
心臓はまだドキドキしている。
正直俺はビビリだ。『ヘタレでビビリ』―――改めて言うと、最凶にカッコ悪い響きだ。
ビビり過ぎてここのところの気拙かった空気が吹き飛ぶほど、俺は動揺していた。
けれど一方で少しだけ、ホッとしている自分がいる。気拙くなるのは仕方ないと諦めていたけれど……部活動中のぎこちない空気は俺にとって結構なストレスだった。
「帰ったかと思っていた―――何してんの?」
相変わらず仁王立ちで立つ鴻池の手に視線が行く。ボールと布を持っていたので、ピンと来た。
「ボール、磨いていたのか?……1人で?」
鴻池は、更にムッツリした。
「何よ、悪い?」
挑戦的にジロリと俺を睨んだけど―――ここ睨むとこ?俺は首を振った。
「別に悪くないよ―――むしろ、偉いなって思う」
俺がそう素直に口に出すと鴻池はビクリと肩を震わせ、ちょっと目を瞬かせた。
彼女がマネージャー業を精一杯頑張っているのは分かっていた。でも皆の目の届かない所でやっている作業までは、把握してなかった。
そういえば1年生マネージャーはもう1人いたはずだ。どうして独りきりで作業しているんだろう?
「城田さんは?」
「城田ちゃんは彼氏とデート。それに別に『やれ』って言われた作業じゃないから。城田ちゃんの仕事じゃないし」
「いつも独りでやっているの?」
「やりたいから、やっているの!……あんた、バラすんじゃないわよ。城田ちゃんやマネの先輩達、気ィ遣って手伝うって言いだしたら悪いし。ただでさえ忙しくて自由時間少ないのにさ……」
鴻池って真面目な奴。
俺は改めて感心した。
そんで、1人で何でも抱え込むタイプ。と、俺は呆れた。
俺だったらなんか始めようと思ったらすぐ地崎に声掛けちゃうし、手伝って貰うのが当たり前だと考える。だってチームなんだし。
俺の眼には、彼女はとても―――窮屈そうに映った。
「何も抱え込まなくても」
「もー……そういうの言われるのが嫌だから、黙っているのに。違うのっ!趣味なのっ!だから好きでやっているって、さっきから言っているでしょ!」
乱暴な物言い。暴走気味で偉そうな態度。
鴻池は、相変わらず鴻池だった。
だけど、相変わらず……不器用な奴。
あんだけ人に『無駄』とか連呼する癖に。なんか微妙に痛々しいんだよな。素直じゃないっていうか。
「手伝う」
「いーよ」
「俺も、やりたくなっただけだから」
俺は作業道具の入った箱から余っている布を取り出して、胡坐を掻いてその場に座り込んだ。黙ってゴシゴシとボールを磨き始めると鴻池もその場に座り、黙って作業を再開した。
無言でボールを磨く。
これまでの2人なら、鴻池が俺に絡んで来たり小突いてきたりして来て雑用の時間は賑やかだったと思う。
なかなか人間関係って難しいもんだな。と、15歳の分際で俺は思った。
最後のボールを磨き終わって布を畳んで道具入れにしまうと、鴻池がそれを見て言った。
「森って、几帳面。そんな布切れでも端と端、ちゃんと揃えるんだね」
呆れているんだか感心しているんだか判断のつかない口調で、鴻池は言った。
「そう?別に普通じゃない?」
「言われない?『几帳面』って」
「ああ、よく姉貴に言われる」
思い出して、思わず笑顔になってしまう。
「この前も……」
そこまで言って口を噤んだ。
鴻池が目を眇めて、俺を見ている。
気拙い空気が、一瞬で戻って来た。
「帰るか」
逃げるが勝ち!
俺はそそくさと立ち上がって、体育準備室を出た。鴻池も黙ったまま道具入れを所定の場所に戻し、扉に鍵を掛けた。
「じゃ」
手を上げてその場から立ち去ろう(逃げ出そう)とした俺の背に、鴻池が声を掛けた。
「なんで?……あの人全然、森のこと見てないのに」
俺は立ち止まった。
「なんのこと?」
笑って振り向くと、予想外に静かな表情の彼女が俺をじっと見つめていた。まるで、肉体をすり抜けて俺の内面を覗き込むかのように。内臓が少しザワッとした。
「いくら森が大事にしたって、あの人森のこと、弟としか思って無いじゃない」
静かな声。だけど思いがけず鋭い響きにギクッと心臓が跳ねる。
ショックな指摘を受けたというより、俺がねーちゃんを異性として見ていることを当たり前のように話されて焦った。
気付かれている。
鴻池は俺がねーちゃんに邪な気持ちを抱いている事に―――気付いていたのか。
「……」
何と言っていいか判らず、返事ができない。
「『無駄』だよ。」
鴻池の表情は穏やかだった。
今までギャンギャン絡んできた時の―――傲慢な様子は全くうかがえない。
「森があの人を大事にしたって、どんなに思ったって、きっとあの人は振り向かないと思う。だって、いつも冷静だった。私が森とあの人を引き離そうとしたって平然としているし。あんたと私が一緒にいることに焦りもしない。むしろ身を引こうとしてさ」
痛い指摘に、心臓が鈍く締め付けられる。
「お姉さんは森が『いなくても、どうとも思わない』って、自分で言っていたよね。私もそう感じた。なんか森だけ2人でいる時間作ろうと一所懸命でさ、大事な練習の時間削ってまで頑張っているのに……貴重な時間無駄にして振り向かない人追いかけて―――気持ちの強さが違うことを我慢していると、いつか空しくなるよ。きっとそれに耐えられなくなる。それでいつか―――相手をトコトン憎むようになる」
「……鴻池」
俺は息を呑んだ。
「森にそんな悲しいことして欲しく無い……」
鴻池の訴えが涙声で歪み始めた。
俺はドキリとした。しかし今にも泣きそうな鴻池の様子に狼狽えた訳では無かった。
鴻池はずっと勝手な思い込みや勘違いで、無理矢理俺達の間に割り込んで喚いていた。本当に迷惑だった。
だが、今の彼女は違うように見えた。勘違いや本人の勝手な思い込みの押し付けではなく、純粋に俺の事を考えて真剣に言っているのが伝わって来た。
だからこそその指摘の中に潜む笑って否定できない真実が―――俺の心臓にグサリと鋭いアイスピックを突き刺すように、もどかしい痛みを与えたのだ。
ただ腹を立てて彼女の言葉を否定したり無視したり、一笑に付したりできない何かが俺の中に生まれたのを感じる。
心が静かになった。
鴻池は真剣に俺を心配してくれている。
俺は覚悟を決めた。自分の本当の気持ちを言おう、誤魔化さずに―――それしか鴻池の心配を止める手段は無い、そう思った。
「鴻池。俺、姉貴が俺の事『弟』としか思っていないって……知っている」
鴻池は僅かに眉を上げた。
「鴻池の言う通りだ―――言われなくても、この俺がその事を一番分かっている。でも、諦められない―――正確に言うと、正直諦めようと思ったこともある。 自分にそう言い聞かせて、別の子に目を向けようと考えた時期もあった。でもできなかった。無理だった―――だから、今傍にいることに決めた。できるだけ頑張ろうって」
伝わるだろうか。俺がむしろ後悔しないために、行動しているってこと。
伝わらなくても。
真剣に自分を心配して正面から真面目に話してくれた相手に、俺はちゃんと応えなくちゃならない。
「一時期俺から姉貴と距離をおいた事もある。だけどその間、本当にずっと辛かった。無理して目を背けても辛いばかりだった。でも今は―――俺すごく楽しいんだ。一緒にいるだけでそれだけで嬉しくて―――姉貴に幸せな時間を貰っているって感じている。だから無駄な時間なんてひとつも無い。俺が今こうしている事は『無駄』なんかじゃないんだ―――鴻池に理解して貰えるか……わからないけど」
鴻池は俺から視線を逸らし、俯いた。
返事を期待したわけではないけれど、返答を待ってしまう。
しかし、鴻池から俺の独り言のような訴えに対する反応は無かった。
「―――帰る」
理解ったとも理解らないとも言わず、それだけを鴻池は口にして手の中のものを俺に放って来た。
放物線を描いて、それは綺麗にこちらに落ちて来た。
咄嗟に受け取る。それは体育館の鍵だった。
「返しておいて」
それ以上何も言わずに、鴻池はその場を去って行った。
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鴻池に言ったのは、俺の本心だ。覚悟もできているつもりだ。
そう、確信を持って言ったのに。
その覚悟を口に出した途端、心の奥深く仄暗い場所に目に付かないように押し込んでいた『恐れ』が、首をもたげて来るのを感じた。
ねーちゃんが王子を選んだら?
今王子を選ばなかったとしても、将来自分以外の誰かを男性として愛するようになったら?
そう思うと『覚悟している』と自分自身に言い聞かせているにも関わらず―――例え一瞬でもその未来をイメージするだけで切なく、辛くて仕様が無い。
そしてその時自分がどんなに傷つくか―――傷を抉られるのか、その痛みを想像すると―――恐ろしくなる。
鴻池は俺が見ないようにしていた側面や目を逸らしていた事実を、言葉に晒して突き付けて来た。
必死で押し殺してきたのに。
俺の心に鴻池の『いつか相手を憎むようになる』という言葉が、呪いのようにじわじわと影を落とし始めた。
真っ白いシャツに落としてしまった一滴の墨汁のように―――それはしつこく繊維に絡み付いて、何度洗っても落ちない微かな染みとなって俺の心に残った。




