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8.ねーちゃんの友達と、お弁当を食べた

その日からお弁当の時間に王子が現れるようになった。


俺が地学部に着くと既に2人が椅子に付いていて、模試の結果や問題の答えについて額を突きあわせて話し込んでいる。


「清美」

「弟君、お邪魔しているよ」


『弟』って。こいつわざと言っているな。

きっと今……俺の表情は能面のように冷たいものになっているだろう。


3人で食べる昼休みの弁当。


鴻池が座っていた時とは随分違う。

王子といるねーちゃんは随分リラックスしていた。言葉少なに話し掛ける王子に、弱冠柔らかい様子で応えるねーちゃん。


「ごちそうさま。いってきます」


「いってらっしゃい」

「練習頑張ってね」


何故か王子にも、笑顔で送り出される。


奴は満面の笑みを浮かべていた。

やたらキラキラした女性的な風貌。優しげな柔らかい目元。ねーちゃんのような人付き合いの苦手な女子の隣に在ってさえ、違和感のない雰囲気。

俺はバスケ部が好きだし男同士でわいわいやるのも馬鹿やるのも好きだ。だけどねーちゃん以外の女子と自分から対面する時は―――距離感を意識してしまう。


王子は俺と何もかも真逆な男だ。

自然に横に立って、女子に距離感を感じさせないタイプ。

いうなれば幼稚園にいる……女子のおままごとにニコニコと付き合っているタイプとでも言えば、伝わるだろうか。

優しくて警戒心を抱かせない。俺のように汗臭く暑苦しい世界に生きている男と違い―――すんなりと女子の隣で友人として振舞う事にけているのだろう。

俺が自分の中の男の部分を持て余し、ねーちゃんにどう接して良いか判らなくなって距離を取っていた頃、おそらくアイツはすんなりと彼女の横に座ったのだ。

俺が抱える種類の葛藤なんて―――きっと経験したことが無いに違いない。女子に対する絶妙な手加減を理解した物腰を見ていると―――俺みたいに思春期を拗らせてドツボに嵌る男の気持ちなんか絶対に理解できないだろうな……と苛立ちと共に歯噛みしてしまう。


地学部のテーブルの上に置かれた赤本と、模試のデータに回答例の資料。

同じ悩みと話題を共有する2人を見ているだけで、焦燥感が高まってしまう。


しかし、俺は自分を励ました。


平日の昼間、地学部に現れる王子を排除する事はできない。

けれども毎日夜一緒にご飯を食べられるし、日曜日は1日中俺はねーちゃんと一緒なのだ。その時は思う存分ねーちゃんを堪能しよう。

王子抜きで。







** ** **







『王子抜きで』と、思っていたのに。




今は、図書館の読書室で。

ねーちゃんの左隣に、俺。右隣には―――王子が座っていた。

王子は「やっぱりいた。隣に座ってもいい?」と言って、彼女の隣を確保した。


雑誌をめくるが……全く頭に入らない。

王子がねーちゃんに時折問題の解き方を尋ねる度に、右耳に意識が集中してしまう。

お昼ご飯でさえ休憩スペースで一緒に食べる始末。


「清美君って、日曜日いっつも森と一緒に図書館に来ているの?」


不意にこれまでねーちゃんにしか話し掛けなかった王子が、俺に話し掛けて来た。

『弟君』って呼ばれるのも苛々するけれど、名前を呼ばれる事も―――どうにも不快に感じてしまい思わず声が低くなってしまう。


「そうですけど」

「それって、前言っていた『ナンパ避け』?心配だったら俺家近くだから―――森さんと一緒に勉強するよ。家でばかり勉強していると煮詰まるし」

「結構です」


俺は仏頂面で即、断った。

王子は如何にも意外そうな表情を作って、俺を見た後ねーちゃんに向って言った。


「清美君、モテるからデートとかいろいろ誘われるんじゃないの?俺のクラスの子も、君の事カッコイイから付き合いたいって言っていたよ。結構可愛い子だから―――紹介しようか?ねえ、森も清美君に自由時間……あげたいよね?」


ねーちゃんは困ったように小首を傾げた。


もともと俺が女子と接するのが苦手だったって事をねーちゃんは承知している。だから、王子の提案になんて言って良いか戸惑っているのだろう。


「王子―――センパイこそ、モテるんじゃないすか?」


俺はやり返すように、水を向けた。


「いやー清美君と違って男らしいタイプじゃないし、地味だから全然。君って綺麗で目立つ女子にすごく人気があるよね。それに、受験勉強で今それどころじゃ無いからさ」


カチン、と来た。


目立つとか地味だとか―――線引きを強調されているような気がして腹が立った。

獰猛な気持ちが胸の中に渦巻いたが、外に出さないよう……何とか抑え込んだ。


「王子、私大丈夫だから。『ナンパ』って清美が心配し過ぎなだけでもともと有り得ない事だし―――清美も用事ある時は、無理しないで普通に別行動するし。気、遣わないで?」


ねーちゃんが、のんびりとした口調で言った。


「ね?清美、大丈夫だよね」


俺はゆっくり頷いた。

少し胸に渦巻く嵐がおさまった気がする。彼女の女子としては比較的低い声には、俺のささくれ立った気持ちを沈静化する効果があるのだ。

『心配し過ぎ』『有り得ない』と言うねーちゃんの認識は間違っているが、王子が心配する必要は無いと言う意見には同意する。そもそも排除すべき最たるものは王子だしな。


王子は苦笑した。


「そっか。でも良かったら、清美君が用事あるときは連絡してよ。それに俺も森と一緒に勉強すると気合入るから―――これからチョクチョク顔出そうかと思ってるし……また、一緒に勉強しよ」

「あ、うん。そうだね」


王子はそれは上手に……ねーちゃんと隣に座る権利を獲得した。


開いた口が塞がらなかった。


たった2年の差でもさすがに年の功というか、奴はねーちゃんが俺を庇っても涼しい顔で自分の良いように距離を詰めてくる。


―――こんなことが続いたら。


俺は顔から血の気が引くのを感じた。

こんなことが続いて、次第に王子がねーちゃんと一緒に居る時間を当たり前に増やして行き、俺は弟のまま―――ただの家族である位置から動けないまま―――彼女が王子を異性として意識し出すのを……目の当たりにしなければならないのか?







図書館からの帰り道。


夏休みの後半から北海道を通り過ぎた幾つかの台風が、空気から確実に温度を奪っていき―――いつの間にか夕方の肌寒さが、秋の訪れをヒシヒシと訴えていた。

俺はいつものようにねーちゃんの手を引いて、市電の停車場迄の短い横断歩道を渡った。


いつもはここで、手を離す。

ねーちゃんに警戒心を抱かせないように。


だけど俺は停車場に並んでいるときも―――ずっとその小さな柔らかい手を離さなかった。ねーちゃんは常とは違う様子に少し違和感を覚えたのか、俺を見上げた。けれども俺は……それに気付かない振りをした。


何も言葉を発せず、ただ彼女の手を握り続ける。


やがて停車場へ電車が到着すると、そのまま俺はねーちゃんの手を引いて乗り込んだ。空いている席に腰を下ろしても―――手を繋いだまま。


「……清美?」


ねーちゃんがおずおずと声を掛けて来た。

その声音に戸惑いと照れが入り混じっている気がした。


「何?」


俺はねーちゃんを見ないまま、返事をする。

知らずに声に怒気が混じる。

きっと、恥ずかしいから手を離してほしい……とかなんとか言いたいのだと思う。

俺はそれを受け入れたく無かった。


ねーちゃんが悪い。


アイツをはっきり拒絶しないねーちゃんに、俺は苛々していた。


―――完全に八つ当たりだ。


アイツはねーちゃんの数少ない友達で、受験勉強を一緒にするなんて―――大して特別な事では無いだろう。暇そうに雑誌を読む俺が横にいる方が―――不自然なのだ。

『弟』が『姉』に特別な感情を抱くほうが……不自然なんだ。


王子はねーちゃんと学年も趣味も同じ。


一緒に居る時間も簡単に確保できる。比較的穏やかで落ち着いた風貌の2人は、並んでも全く違和感が無い。


一方俺は。


ねーちゃんと一緒にいる時間も、無理をしなければ作れない。お笑いやテレビを見て世間話くらいはできるけど―――運動や体を動かす事が好きな俺と基本インドアな彼女は、趣味も合わない。


大して手を入れなくても元から軽く見える俺の容姿と、真面目で地味な日本人形のようなねーちゃんの容姿。身長もこれでもかっていうほど離れちゃって。お似合いと言う言葉からは程遠い、俺とねーちゃん。




俺は市電から地下鉄への乗り換えの間も地下鉄で電車を待つホームでも、改札を出て家に向かう道も―――ずっとねーちゃんの手を離さなかった。

俺が勝手に腹を立てて八つ当たりのように押し黙っている間、ねーちゃんが時折俺を心配そうに覗き込んでいるのが判った。そうして何も言わずに―――手を繋がれたままにしてくれている事にも……気付いていた。

俺は彼女の優しさに甘えて、知らんぷりを貫いていたのだ。







** ** **







今日も、夕ご飯は2人きり。


大手の設計事務所で働く両親はかなり多忙だ。特に盆明けはいつ寝に帰っているか判らないほど。2人の大まかな予定はネットに接続すれば確認できるようになっている。でもこの時期は事務所に泊り込んだり不意に出張が入る事も多く―――顔を合わせるのが難しいため、特に予定を確認する事は無くなった。


むっつりとカレーを頬張る俺と、黙々と自分の皿を綺麗にするねーちゃん。食器を片付けた後テレビを見ながらソファに沈み込んでいる俺にお茶を持ってきたねーちゃんは、ソファの隣に少し距離を置いて腰掛けた。


「お茶飲む?」

「うん」

「……大丈夫?……具合悪いの?」


ねーちゃんは、俺の顔を心配そうに覗き込んだ。


「……」


俺は黙り込んだ。


ねーちゃんは悪くない。

全然悪くないのに。


最近ずっと……昼休みの貴重な時間に王子が割り込んで来ている。

鴻池が絡んで来ていた時、俺は彼女を排除したくてヤキモキした。ねーちゃんと2人きりの時間を大切にしたかったから。


でも、ねーちゃんはそうじゃない。

王子に対して取っている、柔らかい無防備な態度。それに苛立ちを募らせる俺がいた。


王子には勿論腹を立てている。

しかしそれ以上に俺は―――俺のねーちゃんに対する想いと、ねーちゃんの俺に対するそれの温度差に―――焦りを感じ始めていた。


努力して一緒にいる時間を作っても―――俺達の心の距離が埋まる事は無いのだろうか。そんな風に焦る気持ちがムクムクと育ってきて……俺を苦しめる。


(当たり前だ。彼女にとって俺は大事な『弟』なんだ。家族でしかない―――『男』では無いんだ)


そう、心の何処かで静かに諭す者がいる。


「清美?」


俯いてずっと返事をしない俺を心配したのか、ねーちゃんは少し距離を詰めて伏せた俺の顔を下から覗き込んだ。

家では彼女は眼鏡を外す。実際極端に眼が悪いわけでは無いから不自由は無いそうだ。

不安そうに覗き込むねーちゃんの、無防備な―――黒曜石の大きな瞳。


目が合えば―――そこに吸い込まれそうになる。

俺は息を呑んで顔を上げた。


2人の視線が絡む。

俺は堪らなくなって―――そうしてゆっくりと自分の額を彼女の肩に埋めた。


「清美……つらいの?」


ねーちゃんの意識は―――あくまで俺の体調の心配に向いているらしく、俺が彼女の体に触れている事を特に意識してはいないようだ。


俺はそのまま……暫くじっとしていた。

額から柔らかい吸い付くような肌の感触が伝わってきて―――次第に切羽詰まった感情がせり上がって来る。


せり上がって来たものがどんどん積み重なり、重しのように俺の体に圧し掛かって来た。その重さに耐えきれず―――俺は両腕を彼女の体に回して抱き着いた。額をずらして顎を彼女の肩に乗せ、その柔らかい頬に自分の頬を……味わうように密着させた。


ねーちゃんが微かに息を呑む気配が伝わって来る。


しかし俺を押し退けるでもなく―――彼女はじっと受け止めてくれた。

俺を気遣って……好きにさせてくれている。図書館の帰り道―――手をずっと握らせてくれたみたいに。


「……ねーちゃん」


俺は切なくなって―――擦れた声で彼女を呼んだ。


「……なに?」


柔らかい沈静効果のある低音アルトが、俺の耳をくすぐった。

その途端、脊髄をゾクリと何かが這い上がった。それは一瞬で―――俺の脳を侵し支配した。


彼女に体を密着させたまま深呼吸をした。落ち着きを取り戻そうとする深い呼吸とは裏腹に、俺の心臓はドクンドクンと強く収縮し始める。


そのまま俺は―――ゆっくりと腕の中にある体をソファに押し倒す。


「ねーちゃん」


俺はもう一度、彼女を呼ぶ。


「……清美?」


疑いを含まない―――無防備な問いかけ。


俺の名を呼ぶ甘美な響き。―――脳髄を侵すような。


俺は抱き込んだ胸板で柔らかい体とその体温をたっぷり味わってから……名残惜しげに自分の体を離した。両手を彼女の顔の両側について、ジッとその瞳に見入る。

ドクドク……と頭にも脈が響いてうるさいくらいだ。

ふっくらとした小さいさくらんぼのような赤みを帯びた唇に視線が吸い寄せられる。


俺は彼女の弟だ。


でも、血の繋がった家族じゃない。

彼女を女性として見ることは―――罪では無い。


だけど彼女の中ではまだ、俺は小5の女子に苛められて憤っている小さな子供のままなのだと―――彼女の態度がそう言っている―――男として見ることを考える事もできないほど―――俺は彼女にとって、頼りない存在なのだろうか?




―――違う。




こうしてあっさり囲い込んで身動きを失わせる事なんて―――今の俺には造作も無い事だ。

おそらく彼女が抵抗しようとどうしようと、いますぐその体に俺の存在を刻み付ける事は、すごく簡単なことだ。


そうすれば俺を―――今の俺をねーちゃんは目に入れてくれるだろうか。

無理矢理瞼を抉じ開けて現実を見せれば……思い込みを捨てて俺を視界に入れてくれるのだろうか。異性というフィールドに分類してくれるのだろうか?


せめてスタートラインに立ちたい。


ゆっくりと俺は再び顔を沈めていく。

見開かれたねーちゃんの真黒な―――つぶらな瞳が、俺を絡め取って話さない。


捉えられたのは俺のほうだ。


抗う事ができない鎖のようなものに雁字搦めにされて、魂を抜かれたまま行動を支配されている。


そうだ―――これは、俺の意思で止められる事では無い。


鼻先が触れそうな距離、唇が触れるその時。


ガチャリと玄関の扉が開く音が聞こえた。

魔法から覚めたように。俺は我に返って、瞬時に体を起こす。


ねーちゃんはソファの背にもたれ掛かったまま―――茫然としている。


ドカドカとリビングに踏み込んできたのは、かーちゃんだった。


「ただいまー!」

「おかえり……」

「……おかえり」


かーちゃんは地方で起こったトラブルを解消するために、急遽出張に出る事になったらしい。着替えなどを取りに帰ったそうだ。必要な物を鞄に詰めてすぐ出発するという。

とーちゃんも今日から4日間工事現場の進行状況をチェックするため旭川と稚内に発ち、そのまま留守にするとの事だった。


「2人とも仲良くね~何かあったら、メールして!」


そう言い残すと、返って来た時と同じようにバタバタと飛び出して行った。


小さな竜巻が起こったみたいに、かーちゃんはその空間に充満していた重苦しい空気を攫って行ってしまった。




頭が冷えた。




俺は―――何て事を……しようとしていたのか。


「俺……もう寝る」


情けない事にねーちゃんの顔を視界に入れる事が出来ない。

俯いたまま―――絞り出すように言うのが、精一杯だった。


ねーちゃんは既に身を起こしていたが―――ボンヤリとした口調で、俺に問いかけた。


「え、と……薬とか呑む?」


一連の俺の行動を具合が悪いが故の事だと勘違いしているのか……?




不自然だろ。

どう考えても。




俺は、自分に舌打ちした。


「……いい。寝れば治る」


これ以上この話題を引き延ばしたくない。


そうジェスチャーで示すように振り返らずにリビングを出て、その扉を後ろ手に閉じた。



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