3.ねーちゃんの王子様
鴻池を何とか追い返して、俺は3年生のねーちゃんの教室へと急いだ。
俺達の家は学校から10分ほどの距離。
部活終わるの待ってもらって一緒に帰ろうって誘ったって、ねーちゃんは家でまったりするのが好きだから、面倒くさがると思う。
でも、生来の甘いモノ好きを熟知している俺には、切り札がある。
「甘い物を奢る」と言えば、ねーちゃんは一も二も無く付いてくる筈。
祝!初、寄り道デート!!―――なんちゃって!
心の中では盛大にスキップをしながら、実際は急ぎ足で3年の教室へ向かう。
少し古い校舎の入口は俺には低すぎる。額をぶつけないように慎重に、鴨居に手を掛けてひょいっと教室の中を見ると、脇に立っていた女子生徒がぎょっとした様子で振り向いた。
髪の毛は染めているのか、栗色で綺麗に巻かれている。うっすら化粧をしているみたい。
やっぱり1年生の教室とは違う。男子生徒は大人に近い体格の人が多いし、女子生徒も何だか色気がある…というか、女子大生か?というスタイルやオシャレをしている者もちらほら、いる。進学校だから「勉強さえしてくれれば構わない」と、逆に服装の規定をうるさく言われないようだ。
しかし俺としては、普段すっぴんのねーちゃんの静脈が透けて見えそうな白い肌やサラサラの黒髪ばかり愛でているから、染めた髪や化粧は余り好ましく感じられない。
ほんのりと香る香水…?の科学的な匂いも神経をザラリと逆撫でする。
ねーちゃんは石鹸の美味しそうな香りがするから、どうしても引き比べてしまう。
…まあこの先輩にしても、初対面の俺が自分の事をどう思おうが知ったこっちゃ無いっていうか、余計なお世話だと思うけど。
教室をぐるりと見渡すが、ねーちゃんは居なかった。
仕方無く入口横に立っているオシャレ番長(勝手に命名)に尋ねようと、そちらに目を移した。
オシャレ番長は俺の身長に呆気にとられていたのか、ぼうっと俺の事を見ていた。そして目が合うと、ビクッと体を震わせた。…そんなコワイ?
「あの…」
「は、はい…」
何故か彼女の顔が紅潮して、見る見るウチに赤くなってくる。瞳もなんだかウルウルして涙目になってきた。
「このクラスの、森 晶…さんって、何処にいますか?」
「森、さん?ああ、あの小さい……えーと…」
彼女は、思案気に隣の女子生徒に視線を移した。隣にいた髪を右下でひとつに括って髪飾りで留めている女子生徒も、少し考える仕草をしてから返事をした。
「森さん、さっき部活の事で先生に呼ばれてたよ。部室じゃない…?」
「ありがとうございます」
そうとわかれば、善は急げ。
簡単に頭を下げて踵を返そうとすると、呼び止められた。
「あの、森さんになんか用事ですか…?」
俺は1年生だから、敬語はいらないんだけど…
実際、敬語を使われる事が多い。体格が良すぎて年下と認識されなかったり、年下とわかってもどうしても年下扱いに違和感が生じるらしい―――と俺の疑問に以前、地崎が考察を付けてくれたっけ。
『弟』だって言えば話は早いんだろうけど。
なんか、自分のこと『弟』って言いたくない。
「ちょっと…」
と、適当に誤魔化して逃げて来てしまった。
ああ~もう!
いつか『弟』じゃない名称で、名乗りたいなぁ…。
大昔、幼稚園の先生に読んでもらった童話。
『いばら姫』だったかな。
確か呪いで作られた、王城に幾重にも張り巡らされた茨の中で眠り続けるお姫様の話だったよね。
小4の頃とーちゃんがかーちゃんと再婚して、ねーちゃんに出会った。
ねーちゃんを見たとき「お姫様みたい」って思ったんだ。大きくて吸い込まれそうな瞳、長い髪は艶々のサラサラ。ふんわり笑った笑顔に目が釘付けになった。
『あまり同級生とお話しない』って言っていたねーちゃんが、家で本を読んでまったりしているのを見て、茨の中でぬくぬくと眠っている『いばら姫』みたいだって思ったんだ。
ねーちゃんの場合は悪い魔法使いが掛けた呪いの所為では無く、自分で作った『いばら』の中にいるのかもしれないけれど。
でもいばらで時を止めたのは、お姫様には悪い事では無かったかもしれない。
だって王子様が迎えに来るまで、お姫様はずっと夢を見続けて彼を待っていたのだから。
願わくば、そのいばらの城からねーちゃんを連れ出すのは、自分でありたい。
なんだか、強くそう思ったのを覚えている。
今では他の人間に連れて行かれるぐらいなら、いっそ、茨の中にずっと閉じ込めて置きたい…というアブナイ考えが浮かぶ事もある。
これって、独占欲なのかな?
こんなこと口に出したら、ねーちゃんに嫌われるかも。
でもねーちゃんに素っ気ない態度を取られた時、俺が彼女の事を思っているほど、ねーちゃんは俺に関心無いのかな……って感じる時、そんな危険思想が心の水面にひょいっと浮かびあがるのはどうしようもない。
これじゃ、王子様じゃなくて、俺が『いばら』だ。
親しい人間がいない分、ねーちゃんは家族を大事にしている。
『可愛い弟』と大事にされているとは、思う。
彼女の率直過ぎる物言いで傷つけられる事はよくあるけれど、それは俺が元気な時だけ。
試合でミスって落ち込んだ時、俺のエネルギーがゼロとかマイナスになっている時には、俺が大好きなハンバーグを作ってくれたり美味しいお菓子を勧めてくれたり、ココア入れてくれたり、そこ褒めるトコかな??…っていう微妙な俺の特徴を褒めてくれたり、ねーちゃんは心を尽くして励ましてくれた。
それで俺はいつも通りの自分を取り戻して、またバスケに集中できるんだ。
何だか思い出せば出すほど、自分はどうも『王子様』には程遠いって気付かされる。
どっちかっていうと俺を助けてくれるのは、いつもねーちゃんだ。
これじゃあ『可愛い弟』の立ち位置から、いつまで経っても抜け出せる気がしない。
** ** **
旧校舎の古く黒光りする廊下に、少し傾いた光が差し込んでいる。
幾重もの光のカーテンの向こうに、ほっそりとした小柄なシルエットがあった。
体に合わない大きな荷物を抱えて、若干ふらつきながら地学室の扉を目指している。
あ、また。
ねーちゃんは見た目の繊細さに似つかわしく無い、粗忽者だ。
面倒くさがりとも言う。
荷物を一旦置いてから、扉を開ければいいのに。
なんでそんな簡単な事をすっ飛ばそうとして更なる面倒事を背負ったりするのか、理解に苦しむ事がある。
よく脱いだ上着を適当にソファに置き放しにして、後で片づけた方が合理的なんだとか言い訳しつつそのまま忘れたりする。すぐ掛けるなり、洗濯籠に持って行くなりすればいいと思う。
俺は放って置けなくて、いろいろと手を出してしまう。
またそんな時、俺が居ないとねーちゃんは駄目だな~などと優越感を感じるのが、気持ち良い。
…そんな密やかな歓びに浸ってしまう自分がいる事も、確かに否定できないが。
今日も彼女は扉を乱暴に開けようとして、徒労している。
やはり、放っては置けない。
というか内心、壺に嵌って動けなくなった黒い子猫を眺めるような気持ちで「うぷぷ」と吹き出しそうになりながら、扉の彼女の頭の遙か上の方を手で押しやってあげた。
いきなり消えた扉の反発力に、肩すかしを喰らったように体を傾がせたねーちゃんを、ニヤニヤと見下ろす。
あー可愛い。
なんて可愛いんだろう。
人の気配に気付いて僅かに身を固くし、振り向いたねーちゃんの緊張が一瞬で綻んだ。
その様子を見て、俺は至福を感じる。
「清美かぁ」
「床に降ろしたほうが、早いのに」
つい、嬉しくなっていつもの小言を言ってしまう。
これは、マーキング。
俺はねーちゃんのコトわかってるよっていうシルシを、ねーちゃんの習慣に刻み込む為の。
反発心で少し口を引き結んだねーちゃんに今日の要件を伝えようとした時、背後から男子生徒の声が聞こえた。
「遅くなって、ごめん」
「おーじ」
おーじ?
……『王子様』?
ねーちゃんの親し気な声のトーンにギクリとする。
「大丈夫?重かったっしょ?」
その『おーじ』という奴は、気障な仕草でねーちゃんが抱えていた望遠鏡を受け取った。かと思うとそれを部屋の中に速やかに運び込み、すぐに戻って来て何故か俺とねーちゃんの間に立ちはだかった。
まるで、ねーちゃんを背に庇うように。
はあ?!
俺は不快感に盛大に眉を顰めた。
一方『おーじ』も真剣な顔で俺の顔に視線を当てたまま、背後に庇ったねーちゃんに尋ねた。
「誰?」
誰って―――お前が『誰』だよ!
「おとうと」
「えっ?弟?!」
鳩が豆鉄砲を喰らった。という表現が似つかわしいくらい、目を見開いた『おーじ』とか言う奴が不躾に俺の体を下から上まで見上げた。
ぱちり、と視線がかち合う。
バスケ部にはいないような、線の細い奴だ。
背は低いという程ではない。だけど目が大きくて女子と見間違うかもしれないというぐらい整った顔立ちをしていた。
『おーじ』というのは『王子様みたい』と言う意味の仇名なのか?
「そっか。君が森の弟なんだ―――よろしく!デカいねー・・・確か一年生だっけ?」
唐突に『おーじ』という奴は、相好を崩した。
余裕を取り戻した態度に、戦力外と強調されてるようで何だか苛々する。
…しかしおそらくこいつは、ねーちゃんと同じ地学部の部員だと思う。
ねーちゃんの立場もあるだろうし、何とか堪えて返事だけは返した。
** ** **
紆余曲折はあったが、なんとかねーちゃんと一緒に帰る約束を取り付けた俺は、弾む足取りで自分の教室へ戻った。
けれども、次第に心の端にそっと忍び寄る暗い影を払う事が出来なくなってくる。
ねーちゃんの周りの人間関係は、中学時代と様変わりしているようだ。
ねーちゃんが、あんなに緊張せずに話せる相手がいるなんて。
しかも、それが男子生徒。
仇名呼びだし…。
人見知りが改善している、というのは喜ばしい事だと思う。
思うけれども―――
心の隅に陣取った重苦しい不安の正体を、良く見直さないようにしてそっと蓋をする。
とりあえず、今日の寄り道を楽しもう。
そのためには、先ずは部活を頑張る。
おっし。
バッシュの紐をきつく締めて、気持ちを切り替えた。