◆ 弟との距離 <晶>
清美の姉 晶視点です
弟が思春期を脱したようだ。
「ねーちゃん、英語の参考書どんなのがおススメ?」
受験勉強の相談をよく受けるようになった。
そして最近土日は大抵一緒だ。今日も2人で本屋に行って、その後図書館で勉強する予定になっている。清美が詰まった時に手助けするのが私の役目。合間に本を読んだり、来年の受験に向けて勉強をしてみたり。図書館は私のホームグラウンドなので時間が余ると言う事は無い。
実は今日王子に、彼方と一緒に久し振りに天文台に行かないかと誘われていたのだけど―――めいっぱい部活に集中してきて勉強に手が回らなかった清美が、懸命に受験勉強をしている様子を見て放って行く気にはどうしてもなれなかった。
それにずっと構いたかった弟と、また一緒に居られるのは単純に嬉しい。
避けられていた期間は―――正直すっごく寂しかったから。
清美にお願いされるとやっぱり、弱い。なんでも聞いてあげたくなってしまう。
「私の高校?」
「うん。バスケ部が強いよね。近いし」
「そうなの?」
「……知らなかった?」
清美は私が通っている高校を受験するという。実は公立校としてはバスケ部の強豪校であるらしい。清美が参加していないバスケの試合に興味が無いから気が付かなかった。
へーそうなんだ。
「私立とか、行かないの?そっちの方が集中できるよね」
「お金かかるし……ねーちゃんと一緒の学校に行きたいんだ」
「ええ?そ、そうなの?へ―……」
なんだ、なんだ。
久し振りにシスコンっぽい甘えた台詞が清美の口から飛び出して来たから、ちょっとドキリとした。私達は2年前まで―――かなり仲の良い姉弟だったと思う。シスコン、ブラコンってお互い認識していたくらい。
だけど清美が思春期に突入し、口も聞かない目も合わせないって生活が続いて。
それがついこの間。
中3の夏休みを最後に清美が部活を引退した翌週の土曜日に……家の廊下でバッタリ顔を合わせたのだ。
その日清美が私の図書館行きに付き合うと言い出し―――徐々に向こうから話掛けてくれるようになった。
元のように懐いてくれるのは大変嬉しい。
けれども成長した清美は、以前よりハッキリと私に対する好意を示す様になっていた。
―――心境の変化?大人になって、素直になった?
だけどこうやってはっきり好意を伝えられると―――少し戸惑ってしまう。
だって清美は2年間で、昔の清美と別人になってしまった。
まず、声が違う。
見た目の可愛さによく合っていたアルトが、バス寄りのテノールくらい低くなってしまっていた。清美は声変わり中に私と全くと言って良いほど口をきかなかったので、正直これが一番驚いた。
そして前より、ずうっと……でかい。
家でダイニングに座っていたり、自分の部屋へ入る背中を見掛けたり、練習試合をこっそり観戦していたから凄く背丈が伸びたっていう事実は知っていた。
知っていたけど―――実際目の前に立たれた時は、威圧感に一瞬絶句してしまった。
うっかり立ったまま話し続けると首の後ろが痛くなるくらい、身長差がある。
そして厳しい練習の成果か、昔よりがっちりして筋肉質で―――近くで見ると体がすっかり大人の男の人みたいになっているって事を実感し過ぎてしまい―――分かっているのに「え?これ本当に清美?」と……疑いの気持ちが湧いて来る事がある。
―――髭なんか、生えちゃってるし。
あからさまに驚いた顔をしたら、清美が悲しむような気がして……私は動じていない振りを装った。普段から表情がある方じゃないから、大した違いは無かったかもしれないけれど。
(私の可愛い清美に髭が……!)
と内心弟の成長に衝撃を受けていたのだけれど―――「髭くらい剃ったら?」と平静なふりをするくらいしか、思い浮かばなかった。うん。今でもこの対応が正解なのか間違いなのか良く判らないや。
かろうじて残っているあの頃の清美との共通点―――薄い色の瞳と話し方、ちょっとした仕草や癖、笑いのツボなんかで―――本人だと実感できるけれど。
童顔で小柄な自分よりすっかり大人な外見に育ってしまった清美に、ジーッと真顔で見られたリすると―――何となく落ち着かない気分になってしまうのは……もうこれは慣れるまで我慢するしか無いのだろうなぁ……。
中央図書館の2階には読書室があって、勉強は大抵ここでする。
涼しいし利用している人達は皆勉強に集中していて―――静かで使い勝手が良い。
清美の隣に陣取って、選んだ本や雑誌を読む。
「ねーちゃん、ここさ……」
「うん?あー、これはね……」
そして時折、清美の質問に答える。
気が付くと入って来た高校生くらいの女の子2人組が、ちらちら清美を見ながらすぐ脇を通り過ぎていく。図書館で勉強しているとこういう事がよくある。
白い肌、茶色い髪。整った鼻梁に少し綺麗な眉の下に少し目が奥まった精悍な目元―――、一般的な日本人と異なっているのは一目で明らかだ。集団の中にいれば余計に浮きだって目を引くのだろう。
ましてや際立った長身と鍛えられたしなやかな筋肉に包まれたバランスの良い体は―――物凄く目立つ。
純和風で性格も見た目も地味な私は、ついでにチラリと見比べられて複雑な気持ちになる。小さくて地味な隣のアレは、なんだろう?と思われているかもしれない。
卑屈ですか?実際以前そう囁かれた事があるので、被害妄想とも言い切れないのですよ~いいんです。清美の良さを分かって貰えれば、おねーちゃんは引立て役でも。
え?『ブラコン』?
その通りです。否定しません。
頃合いを見て休憩しようと言う事になり、1階のアトリウムへ向かう。
ここにはテイクアウトが出来るカフェがあって、ちょっとしたお菓子や飲み物を買えるのだ。福祉目的で経営しているのだけどカフェ自体は木目調でシンプルな作りだし、クッキーやテイクアウトのアンパンは中々どうして結構美味しい。だから休憩のときついつい利用してしまう。
清美が私をベンチに座らせて、軽食とコーヒーを買いにレジへ向かう。
「ねーちゃんはコーヒーを零すから、俺が行く」とのこと。
「いや蓋も付いてるし、さすがにそれは無いよ!」と、以前無理矢理お使い係を買って出たら―――本当に零してしまった。それ以来、清美は私にお使いをさせてくれない。
少し混んでいるらしい。列に並ぶ清美を認めて、それから私はボンヤリとアトリウムの横にある展示室の入口に目を移した。
縄文土器?ふーん、面白そう……。
「あの、鈴木さんですよね?」
「え?」
振り向くと、見覚えの無いお洒落男子が私に話し掛けていた。グレーのVネックにさり気ない革紐のペンダント。やや毛先の茶色いパーマっ気のある髪を丁寧にスタイリングしていた。
私基準ではアクセサリーを付けているだけで『お洒落男子』認定だ。柔和な垂れ目の端正と言える顔立ちだった。
「いえ、違います」
「またあ、久し振りだね」
「あの、『鈴木』じゃありません」
「え?そう?じゃあ名前なんて言うの?」
「森です」
「森さん!そうだ、森さんだった。覚えてない?俺のコト」
私はまじまじとその人の顔を見た。しかし全く見覚えが無い。
けれども元々周囲に興味が無かったので、学校の他のクラスの人を覚えていない。もしかして違うクラスか、学年の人だろうか。
「すいません、思い出せなくて……申し訳ありません」
その人は笑って木製ベンチの私の横に腰掛けた。すごく自然に。
やっぱり知り合いなのだろうか?
「いいよ。そのかわり思い出せ無かったお詫びに、これからご飯付き合ってくれない?」
「あの……連れがいるので」
「お友達?お友達と一緒でも良いよ。俺も友達呼んでもいいし」
「ええと」
うーん、仮に清美が「行っても良い」って返事をしたとしても、人見知りの私がほぼ初対面の男の人と一緒に食事なんて、あり得ない。
何だか急に積極的になった相手にどう断ったものか悩んでいると、ニュッとコーヒーが目の前に差し出された。
私達は大きな体の陰に入っていた。清美の不機嫌そうな表情も相まって、かなり威圧感がある。
「座りたいんだけど……どいてくれない?」
かなり冷たい声だ。
そんなに勝手に椅子が占領されていたのが、気に食わないのか。
席取り用に荷物、置いておけば良かった。
「……ああ『連れ』って、男だったんだ」
その人はクスッと笑って立ち上がった。
「いや、男って言うかおとう……」
「うん。だから、別をあたって」
清美の言い方はトゲトゲしさを隠しもしないもので、私は少しハラハラした。しかし相手の人は別段怒った様子も無く手を振って去って行った。
空いたベンチの隣に腰を下ろした清美がアンパンを袋から取り出して、私に渡してくれる。
「ありがと―――あの…あの人『鈴木さん』って人と勘違いして話しかけて来て……というか私は覚えてないけど、多分知り合いか何からしくって……話し掛けてきただけだよ?」
恐る恐る言い訳というか……見覚えの無いあの人のフォローをしてしまう。多分、清美の纏う黒いオーラにちょっと尻込みしていたのかもしれない。
清美はその人が立ち去った方向を睨みながら、鋭い声で言い放った。
「『ナンパ』だって。知り合いを装って、話し掛けて来ただけだよ―――駄目だよ。ああいうの、相手しちゃ」
「ここ、図書館だよ?本を借りに来る人がナンパなんかしないって。それに断ったし」
「断り切れて無かった。もー、ホントに……不用心なんだから」
清美はそう言って焼きカレーパンを頬張った。私もとりあえず、コーヒーを一口飲んでアンパンの包装を開いた。
「清美の考え過ぎだと思う。過保護」
パクリと咬みつく。
あ、美味しい。
「ねーちゃん、変なとこで鈍すぎ」
「……清美って『シスコン』」
「……姉が好きで何が悪い」
あ。開き直った……!
唸るように発せられた低い声にこれ以上絡むと拙いような予感がして……私は押し黙った。
……悪くは無いけど。
と言うか嬉しいけど。
「さ、続きやろ」
食べ終わった清美は先刻の不機嫌が嘘のように、サッパリと笑っていた。




