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10.ねーちゃんとの距離(3)

鏡の中の男は―――ひどい風体だった。

伸びかけた茶色い猫っ毛は、あちこち寝癖で跳ねて変な形に右側だけ膨らんでいる。密度と色素が薄い無精髭は中途半端でみっともない。


「あちゃー……ひどいな……」


俺は髪の毛をさっと濡らして、櫛で梳かした。濡らせばすぐ癖が取れる髪質で良かった。

ちょっと長めで軟派っぽいけど、仕方が無い。心許ない薄茶色の髭を剃ると―――見慣れた顔が現れた。


ジーパンとギンガムチェックのシャツの上に、財布とスマホだけ放り込んだ斜め掛けの黒いボディバックを背負って玄関へ走った。




夢じゃないよね。

待っていて……くれるよね。




気が急いて家の中なのに早足になる。

心臓がドキドキしている。

それとも、ワクワクしているのか?


果たして、玄関にはニコリともしない無表情のねーちゃんがいた。

俺は安堵の息を吐いた。




夢じゃなかった……!




「行こうか」


ねーちゃんの声掛けに、俺は返事もせずただ頷いた。

声を出せば震えてしまいそうだったから。







ねーちゃんが本を選び終わるのを待つ間窓際のソファ席に座り、モグリの医者が大金を貰って奇跡的な手術をするという……図書館で閲覧できるくらい有名な古い漫画を読んで時間を潰した。


「お待たせー」


暫くして現れた彼女はヨロヨロとよろけていた。

貸出上限目一杯、10冊の本を詰め込んだ重そうなトートバッグが重しのようになっていて、ねーちゃんの小柄な体がゆらゆらと揺れている。


俺はその様子を見てクスリと笑った。




無茶だなあ。持てる範囲で借りれば良いのに。




無言でバッグを奪うと重さの偏りが無くなった華奢な体が、反動で少し傾ぐ。


「……ありがとう」


お礼を言われて、ふわふわした気持ちになった。


とても、嬉しかった。


何か言おうかと思ったけど、言葉は出てこなかった。

恥ずかしいし、懐かしい。くすぐったい気持ちを持て余しながら、そっぽを向いて出入口へ向かった。後ろからねーちゃんが歩いて来る気配に胸がぬくもった。




帰り道もほとんど、2人の間に会話は無かったのだけれど。

むっつりと黙り込んだまま歩く俺の横を―――ねーちゃんが何でもないように歩いてくれたから。




その日俺は―――久しぶりに夢も見ずにぐっすりと眠った。







** ** **







雀がピチピチ街路樹の上で、挨拶をしている。


朝5時に起きて入念なストレッチの後、ランニング。

1週間サボっただけなのに、息が上がるのが早くて驚いた。

ミニバスを始めた小学生の頃からずっと欠かさず続けていた習慣を、初めて中断したのだ。だからこんなに体を重く感じる体験は―――俺にとって初めてと言っていい。




―――なまっちまってるなあ。




きっと筋肉だけでなく、脳みそも(なま)ってしまっていたんだ。

それは最近の事じゃない。

2年前から―――自分を窮屈な所に押し込めて、新しい情報を拒否して目を瞑っていたようなものだ。


すごく簡単で、当たり前の事だった。


まるでカゴメカゴメで後ろの正面を見ないよう、頑なにぎゅっと目を瞑ってしゃがみ込んでいるみたいに。

怖がって意固地な考えに捕らわれて、目を塞いでいたんだ。

振り返ればすぐ―――わかったのに。


後ろの正面で……ねーちゃんは温かい目で俺の背中を見守ってくれていた。

何か得体の知れない迷路に俺が自ら嵌り込んでいるのを、それとなく感じていたと思う。だけどその悩み事ごと―――俺を放って置いてくれた。


まるで関心が無かったっていうのと意味合いが違う事は―――その優しい声音で、その温かい瞳で、俺に返答する一言、二言を聞いただけで―――瞬時に理解できた。

台詞だけ聞けばかなり素っ気無いものなのに。

少なくとも彼女は―――以前と変わらず俺を大事に思ってくれている。

それだけで―――特に信望したことも無い神様に感謝したくなったぐらいだ。


自分勝手な都合で彼女を避けていた俺は―――責めたり、怒られたり、呆れられたりしてねーちゃんに見捨てられる事を……1番恐れていたのだ。

―――それを今日、自覚した。




俺はまだ、ねーちゃんを諦める事はできない。


自分から動こうとせず、現状を嘆いて愚痴ばっかり言っていた。

バスケに当て嵌めて考えてみれば―――すごく単純な事なのに。

チームにそんな奴いたら、すぐレギュラーから外されてしまう。


諦めるのは―――彼女に自分を意識して貰うよう努力して、工夫して、そして正直に思いを打ち明けて―――それからだ。


もっとギリギリまで足掻いてみよう。

それでも駄目だったら―――泣いてヤサグレて鷹村に盛大に絡んで愚痴って、どうしても気まずくなったら家を出ちゃえば良い。遠い大学に行くとか、いっそアメリカに修行に行っちゃうとか。


それもしない内に、逃げちゃったら―――それこそ、忘れる事なんて出来る筈が無い。







** ** **







翌日の日曜日、俺は真剣に告白してくれた彼女に正直に伝えた。


学校の近くの公園のベンチ。

日差しは夏そのものの明るさなのに、木陰に渡る風が時々涼しく感じるのは―――そろそろ季節が移り変わろうとしているからなのか。


「好きな人がいるんだ。だから、結城とは付き合えない」

「そっか―――私の知っている人?」


俺は言い淀んだ。

それをどう受け取ったのか判らないが、慌てて結城は首を振った。


「あ、やっぱいい!!受験前にいろいろ考えちゃうの、嫌だから……」


眉を八の字にして弱々しく笑う結城は、凛とした日頃の強かさの片鱗も伺えなかった。


結城も俺と一緒なのかな?外からは頼りがいのある姉御肌って思われているけど―――中味とのギャップに想い悩む日もあるのかもしれない。


皮肉だけど俺がねーちゃんに向き合おうと思えたのって、結城のお蔭でもある。

俺の日常を知っている人が俺を好きだと言ってくれた。

勇気を出して真摯に告白してくれた。


「ありがとう」

「―――え?」

「好きだって言って貰えて、嬉しかった」


そう口に出した時、恥ずかしくて彼女の目を見る事はできなかったけれど。正面から自分に向き合ってくれた人に、正直に感謝を伝えたかった。


「―――っ」


結城は息を呑みこんで、それからガバっと立ち上がった。


「私こそ―――試合終わるまで、返事を待ってくれてありがとう。……もう、行くね?」


そう言ってから少し目を泳がせて。彼女は小さい声で囁いた。


「―――最後に握手して貰っても……良いかな?」


俺も目を泳がせて言葉に詰まる。

だけど恥ずかしい気持ちは、結城本人の方がずっと強い筈だ。

意を決して、俺は頷いた。


「うん」


立ち上がって彼女の正面に立ち、今度こそ照れずに顔を合わせて手を握った。


膝を屈めなくても見つめ合える。きっと結城と付き合う方が障害も無く、いろいろスムーズに進むのだろう―――不謹慎にも俺は、何だかんだとスムーズに行かない想い人の事を思い浮かべて、笑ってしまった。


「じゃ……受験頑張ろうね」

「うん、結城も」


俺は初めて、告白してくれた相手の気持ちをキチンと受け止めて返事をした。

好きな相手に本気で向かい合おうと―――その時自分も決意を固めたのだ。







夢から醒めたように、俺の気持ちに掛かっていたもやがすっきりと晴れた。

俺が抱いていたねーちゃんに対する葛藤が、消えた。


制御しきれない欲望や、どうしようもないもどかしさは、姉を慕う家族の情と男としての恋情と混在して―――自分の中に今も確かに存在する。

だけどその事に戸惑ったり、それを消し去らなければと焦って、目の前の相手を見失ってはいけないのだ。

格好悪い自分も弱い自分も認めて―――その上で自分がどうするべきなのか考える。

そう思うと少し、自分自身をコントロールできる自信が湧いて来るような気がした。


この気持ちを……汚い部分も含めて捨てなくていい。


ねーちゃんが今の俺を受け入れてくれている。それだけで俺はそう考える事ができるようになった。

結城が本気で告白してくれた事、嬉しかった。

だから俺が告白したとしたら、もしかしたらねーちゃんも嬉しいと思ってくれるかもしれない。

客観的に、そういう可能性にも目が向く様になった。




―――やっぱり、かーちゃんが言う通り―――『思春期』ってヤツだったのかな?




自分の気持ちを持て余すあまり、反動でおかしくなってしまった。汚れた衝動を―――自分の邪な本心を彼女に見せて、軽蔑され嫌われる事が何より怖かった。


俺は、ねーちゃんを女の人として好きだ。

ずっと、好きだった。

中学校に入った時、それを自覚したけれども―――本当は初めて彼女に会った時から、好きだったのかもしれない。


それは―――その気持ちだけは、ねーちゃんが俺に対してどういう気持ちを持っていようと……大事にしていい。


例え彼女が俺を男として見る事ができない―――そういう結果になったとしても。

きっと、家族として俺を大事に思ってくれる気持ちは変わらないだろう。

それを確信する事ができたから。


怖がっていた小学生が―――俺の中でホッと、胸を撫で下ろしたのを感じた。




だから、俺は。

これから、努力しようと思う。


まずは―――以前と同じくらい、彼女に近い存在に戻らなければ。



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