9.ねーちゃんに宣戦布告
ねーちゃんが懸命に歩いている。
頬を紅潮させて、せかせかと歩いている。
そんなに急がなくても良いのに。
彼女がどんなに急ごうとも、俺の体感ではゆっくりとしか認識できない。だから普通に歩くのと、大して違うように思えない。
「ねーちゃん」
ふうふう息をしながら、ねーちゃんが顔を上げる。
「もう少しゆっくり歩いたら?そんなに違わないよ。急ぎ足にしても」
「うん?……なんか眠くって―――早く家に戻りたいの」
ふうん?
「じゃあ俺おぶってくから、背中で寝てなよ」
「……えっ」
ねーちゃんは、漫画みたいにビクッと肩を震わせて首を振った。
ブンブンっと風の音が聞こえそうなくらい。
「い……いいっ、いらないっ!」
すると首を振り過ぎたのか、ねーちゃんの足元がふらりと揺れた。
咄嗟に彼女の腕を掴み支える。
「あ、ありがと……」
「うん、気をつけて。大丈夫?」
「うん、だいじょぶ……」
もしかして意識してる?それとも、警戒してるの……?
俺の執着の強さを知って―――もしかして彼女は引いてしまったのだろうか。
「ねえ」
再び歩き出したねーちゃんに、上から声を掛ける。
「うん?」
「俺のコト嫌いになった?」
「……はあ?……何言ってるの?」
ねーちゃんは再度立ち止まり、キョトンとして俺を見上げた。
「だってねーちゃん、何か変だ」
俺は思い切って、尋ねた。
「俺がねーちゃんを追っかけて高校入ったって聞いて、引いちゃった?俺の事―――もしかして嫌になった……?」
今日彼女に告白した事は全て、これまで自分の中に仕舞い込んで表に出さなかった事だ。ねーちゃんに言えなかったのは―――ただ単に嫌われたく無かったから。
今更って気もするけれど、俺のあまりの『シスコン』振りに引かれてしまうのが怖かった。
「……嫌いになるワケないじゃん」
プイっと顔を逸らし、ねーちゃんはまた歩き出した。
少しホッとして、小走りでその小さな背中を追いかける。
「ねーちゃんの同級生の男子と比べたら……子供っぽいかな?」
それは俺が今―――、一番気になって仕方が無い#質問__こと__#。
ねーちゃんは振り向かなかった。
けれども正面を見たまま、優しい声でこう言ったのだ。
「同じ高校頑張って入ってくれたのは、嬉しいよ。清美が頑張ってるの見て来たんだよ?嬉しく無いわけないじゃない」
彼女の頬に、うっすらと朱が差すのが見えてドキリと胸が跳ねる。
「『子供』って言ったのは―――」
ねーちゃんは言い掛けて口を閉じた。それから気を取り直すように、クルリと俺を振り返り、立ち止まった。
「あのね、私分かってるよ。清美が私の事心配してくれてるって」
思わず俺は息を呑み込む。
「確かにちょっとうるさいなぁって思う時もあるけど……また甘えてくれるようになったのは、正直ちょっと嬉しいかな?だから『子供』の清美も―――ねーちゃんは結構、好きだな」
「ねーちゃん……」
『子供』と言われて嬉しい筈は無いのに。
『弟』だと念を押されているも同然なのに。
嬉しくて―――胸の奥が熱くなる。
だから思わず調子に乗ってしまった。
「―――じゃあ、可愛い弟の背中におぶさるくらい……いいんじゃない?」
「それは、やだ」
ねーちゃんは即座に反発した。
絆されても、言う事は言う。ねーちゃんらしい。
調子に乗り過ぎて今度こそ本当に怒らせたかも。
キッと俺を睨み付ける頬が、恥ずかしいのか真っ赤に染まる。
小さいねーちゃんが精一杯反抗的な態度を見せるのが―――震えを感じるほど可愛いと思う。
頬がイチゴ大福みたいだ。
とっても柔らかくて、美味しそう。
そして甘そう……。
そんな不埒な視線に1ミリも気付いて無いのだろう―――ねーちゃんは気だるげに首を一振りすると、
「うー眠い……早く帰ろ」
と言って踵を返し、また歩みを再開した。
しかし睡魔と闘っているためか、割とすぐに足元がおぼつかなくなって来る。
「……やっぱ、おぶさる?」
「やだ」
頑固なんだから。
まあ、俺も大概シツコイけど。
5分ほど歩くと児童公園が見えて来た。
そこには小さな子供用のバスケットゴールがあって、俺がシュートを入れる度ねーちゃんが「すごいっ」と大仰に褒めてくれたのを覚えている。
褒められたのが本当に嬉しくて、バスケが大好きになった。
ミニバスチームに入って、それ以来バスケばっかりやって来た。
試合を見に来てくれるねーちゃんにいい処を見せたくて、それこそ練習は一所懸命やった。だからすぐにチームに馴染めて、新参者の俺にもアッと言う間に居場所ができた。
ふらふらするねーちゃんの小さな背中を見ながら思う。
もっと、頼ってくれれば良いのに。
ねーちゃんに褒められて心を躍らせていたあの頃より、随分大きくなったんだよ。
もう子供用のバスケットゴールに手を触れるのに、ジャンプする必要さえ無いんだ。
ねーちゃんを背負うくらい―――何の造作も無い事なのに。
暫く2人、無言で歩いた。
俺はねーちゃんの後ろを、影よろしく付いて行く。
そうして家の玄関まで来て、ねーちゃんが鞄の中を探って鍵を出すのを後ろからジッと眺めていた。
「はー、眠い……」
本当に眠いんだな。息を吐く小さな肩を見て思う。
鞄の鍵を探る時下を向いた彼女の長い髪が2つに分かれて、細く白いうなじが覗いた。
すっかり明けた白い空。
朝の光に反射して、その白さが目に眩しい。
俺はゆっくりと手を伸ばす。
鍵を回してノブに掛けたその小さな手に、そっとそれを重ねた。
「何?」
ねーちゃんの声音に警戒の色は無い。
―――俺は問い掛けに応えず、吸い寄せられるようにその小さな体を包み込んだ。
自然に左手が、ねーちゃんの折れそうに細い腰に回る。
そんな危機的状況に陥っていると言うのに―――ねーちゃんの体に強張りは感じられない。
ホっとするのと同時に、心の中で小さく舌打ちしてしまう。
―――こんな状況でも緊張しないなんて、随分と信用されたもんだ。
「きよ……」
ねーちゃんが振り向こうとしたその時、俺に捧げられるように見えたその大福をどうしても、食べたくなった。
邪魔な髪の毛を掬い取り―――その頬を歯を立てないように咥えてみる。
「きよ……み……?」
突然の俺の強襲に驚き、今度こそちゃんと強張ったその体を―――軋まないギリギリの強さでしっかりと抱き竦める。
意外と、俺は冷静だったと思う。
ねーちゃんの体が火照って来てドクン、ドクンと脈打つ様子をじっくりと観察する余裕があったのだから。
その心地良い柔らかさと熱を堪能しながら―――俺は「さて、次はどうしよう」と考えた。
衝動のままに行動してしまったが、さて。
あ、そうだ。
これだけは、言っておこう。
ねーちゃんの小さな耳にフっと息を掛ける。ビクリと華奢な体が跳ねた。
ははっ、可愛いーなー。
怯える様子に何故か少し、優越感を感じてしまう。
「俺もう、子供じゃないから」
宣戦布告。
覚悟しとけよ、ねーちゃん。