8.ねーちゃんに告白
「せーふっ!」
青信号が終わる直前に横断歩道を渡り終え、嬉しくなる。
思わず全開の笑顔で振り向くと、ねーちゃんが仄かに口元を綻ばせていた。
気まずい質問を躱す為に、信号がチカチカ光り始めたタイミングで強引に飛び込んだのだ。けれども信号を渡り切るその行為自体を、もう楽しんでしまっていた。
そんな俺を見る彼女の微笑みは……まるで保護者が子供を見守るような優しい物で。童顔のねーちゃんのそんな大人びた視線を見ると、こそばゆい様なジリジリするような、不思議な感情が湧き上がって来る。
繋いだ手から伝わって来る、フニフニとした感触に神経が集中してしまう。
わあ……マシュマロ?それとも、ビーズクッション?
とにかく何だか柔らかい。
心が躍る。嬉しさで自然と鼻歌を歌っていた。
歌のリズムに合わせて繋いだ手をブラブラさせる。
ねーちゃんはされるがままに、俺に手を預けていた。
彼女と手を繋ぐのは久しぶりだ。もしかして―――俺が小学生だった時以来……?!
途端に俺は有頂天になる。
スゴイ。俺本当に高校生になったんだ。
中学生の俺には逆立ちしても出来なかった事が―――すんなりと行動に移せている……!
ゲンキンかもしれないが、こんな時は「弟で良かった……!」って思ってしまう。
フフフ……きっと王子には、こんなにスムーズに手は握れまい。
……握れ……ないよね……?
まあとにかくだからこそ、今日は迎えに来て良かった。
……寝不足で夏休み練習の休憩中、居眠りしてしまうかもしれないけれど。王子が彼女を送る機会を潰したし(どさくさに紛れてねーちゃんの手を握ろうとするかも!……俺みたいに……)、お陰でこの柔らかい小さな手を久しぶりに握る機会を得る事が出来たんだ。
ちらりとねーちゃんを見る。
その表情には何の焦りも、羞恥も滲んでいない。通常運転の無表情だ。
まるで警戒心の無いその表情に、体の中心がウズウズする。
サラサラした髪に、手を突っ込んで梳かしたい。
血管が透ける白い首筋に触れて、そっと息を吹きかけたらどんな顔をするかな?
黒くて大きい、零れそうな瞳が驚きに見開かれるのだろうか?
遠慮ない正直な言葉を紡ぐ唇。それを食べたら―――怒って俺を詰るのかな?
それともそっと……震えながら温かい吐息を零すのだろうか。
……あー、もっとねーちゃんに触りたい。
中1の夏休み、初めて自分がねーちゃんを異性として意識しているのだと悟った。それからまる2年―――必要最低限の接触以外せず彼女を避け続けた。口もほとんど聞かず、視界に彼女を入れず、彼女の視界に入らないよう逃げていた。
彼女は今、その時の事をどう思っているのだろう……?
かーちゃんと話していたように、年頃の『弟』の単なる『思春期』と受け取って、穏やかに見守っていただけなのだろうか。
失礼な態度を取り続けた俺の事情について、ねーちゃんは何も言わないし、聞かない。
なのに、ねーちゃんは……何事も無かったように、普通に接してくれる。
優し過ぎず、厳し過ぎず。
俺はいつだって―――小さな彼女の大きな心に守られて来たんだ。何も説明せず、謝らず、みっとも無い言い訳さえも口にしなかったのに。
「俺さ」
俺は手を繋いだまま、言葉を慎重に選びつつ話し始める。
「中学に入った頃……背が伸び出して声変わり始まってさ。なんかねーちゃんと話すの、恥ずかしくなっちゃった時期があったんだよね」
自分を隠していたってしょうがない。
―――恰好つけたって……拗れるだけだ。
ひと気の無い早朝の道には、不思議な解放感があった。
いつもの道なのに、違う空間にいるみたいに感じる。
俺はそろそろ正直にならなければいけない。
自分の心を隠したままでは―――手を繋いでも安心しかされない『弟』から何時までも抜け出す事は出来ないだろう。
ただ王子の存在に焦っているだけ……なのかも……?
『弟』のまま……近くに居られる機会が増えた。それだけでも「スゴイ進歩だ」って思っていたのに。それだけじゃ―――満足できなくなって来ている。
俺が気を許せる『弟』でいる間に、いつの間にか誰かに―――王子に大事な居場所を奪われるのでは無いか―――そんな焦りにジリジリと煽られて落ち着かない。
焦りで行動する事が……良い結果を生む訳ないって、十分理解しているのに……。
俺は乾いた笑いを漏らした。
「ねーちゃんは受験で忙しいし俺もバスケ上手くなりたくて必死だったから、実際話す機会自体減っちゃってたんだけどさ。会ってない間の事なんかも、ねーちゃんと話したかったのに、いざ顔を合わすとなんか恥ずかしくて……俺、変な声してないかな?とか、汗臭くないかな?とか―――今考えると、しょーもない事なんだけど、気になっちゃって」
「全然、そんな風に感じた事無いよ?」
ねーちゃんはキョトンとして、俺を見上げた。
「……清美がそんな風に考えているなんて全然知らなかった。母さんが『清美は思春期だ』って言うから、そうなのかと……いつも家では食べてるか、疲れて爆睡してるかのどちらかだったしね―――確かに中2くらいまでの清美って私、食べてるとこか寝顔しか見てないかも」
今となっては本当に「何やってんだ、俺」って思う。
あまつさえ、狸寝入りなんかしちゃってさ……。結果放置されて、寂しくふて寝しただけだった。
「それはさ……えっと、うっすら起きてる時もあったんだけど……なんか寝たふりしちゃってて」
「そうだったの?」
流石に『狸入り』は黙っておけば良かったか……。
目を丸くするねーちゃんの視線から顔を逸らす。
顔が熱い。恥ずかし過ぎる……。
「……ねーちゃん、俺の寝顔、偶にスマホで撮ってたろ」
恥ずかしさの余り矛先を変えた。
案の定ねーちゃんがギクリとしてくれたので、ホッとする。
「あはは……だって清美とあんまし接点無くて、ちょっと寂しかったから。無邪気な寝姿を写真に納めて、ほこっとしたかったっていうか―――起きているなら言ってよー恥ずかしいなぁ、もう……」
そして最後は自嘲的に声音を落として呟いた。
「―――私、友達少ないしね……」
ねーちゃんは人見知りで、人付き合いをあまりしていなかった。
……つまりは俺ぐらいしかコミュニケーションを取る相手がいなかったから、寂しかったのだと言っているのだ。
胸に甘やかな満足感がじんわりと広がった。
嬉しい。でも……。
今は俺以外にも―――親しく話す『友達』がいて……俺の傍以外にも『居場所』があるんじゃないの……?
悔しさに、首を傾げて彼女を見やる。
つまり俺は拗ねているのだ。自業自得だと判っているのに。
「おーじとかと仲良いじゃん」
「それは努力したから。これでも人見知り治そうと日々頑張ってたんだよ、密かに。でも結局今親しいのって実際、地学部員くらいなんだけど」
歩道橋を昇る階段を、手を繋いだまま2人で登り始める。
照れたようにはにかむねーちゃんをチラリと一瞥し、俺はそっと溜息を着いた。
分かってる―――自業自得だ。
それまでねーちゃんの主な話し相手は俺だった。
俺が逃げたから。
外へ人間関係を広げる、彼女の切っ掛けを作ったのは紛れも無く俺だ。俺がねーちゃんを避けたから……。
「俺、後悔してたんだ」
階段を上り切り、歩道橋の真ん中で俺は立ち止まって欄干に背を預けた。手を繋いだままだから、当然ねーちゃんも立ち止まり―――俺に向き合う形になる。
「もっとねーちゃんと一緒に居たいし、話したかったって。今日迎えに来たのは、俺がしたくてやってる事なんだ。だから、本当にねーちゃんは『俺の迷惑』とか気にしなくて良い。高校も俺の以前の成績だとバスケできるの、ホントは私立しか選べなかったけど……ねーちゃんと少しでも多く一緒に居たくて、受験、頑張ったんだ」
繋いだ左手から―――少し冷たい彼女の右手に体温が伝わって行く。
その温度と一緒に。この胸を締め付けるような思いが……伝わってくれはしないだろうか。
びゅんっ
歩道橋の下を通り過ぎるトラックが起こした風切り音に、心細げに彷徨っていたねーちゃんの視点が定まった。厚い睫毛に縁取られた、宝物のような黒曜石の双眸が輝きを取り戻し、ひたと俺の瞳を捉える。
瞳が少し潤んで……彼女の頬が、微かに朱が差したように上気し始めた。
そのあまりの美しさに、息を呑む。
引き込まれるように―――目が離せない。
「そ、そっか……」
ねーちゃんは睫毛を震わせ、心許無い声で絞り出すように応えた。
俺が探るように、ジィッとその瞳の奥を見つめると、居心地悪そうに彼女は目を逸らした。
「き、清美ったら、体ばっかり大きくなっても、言う事がまだまだ子供ダヨネー……アハハ」
台本を読むような棒読みで早口にそう言うと、ねーちゃんの小さな手が俺の手の中からスルリと逃げ出した。
ねーちゃんの真意がわからず、暫し茫然としてしまう。
『子供』
そう、念を押されてしまった。
自分の掌をじっと見つめながら……ゆっくりと開く。
逃げてしまった彼女の手の形を記憶から呼び起こすように。
俺は視線でその空間をなぞった。
「……ねえ、帰ろっか。眠くなりそう」
掌を見ていた視線を、声の主に向けた。
「……清美?」
名前を呼ばれて我に還る。
そこには少し不安げに、俺の顔を覗き込むねーちゃんがいた。
ねーちゃんにはまだ……俺が頼りないままの小学生に見えているのかな?
ふっと、俺は自嘲気味に自分を嗤った。
止めよう。自分勝手に落ち込んでも仕方が無い―――俺は、不安を振り切るように欄干から、腰を離す。
そして俺を見上げるねーちゃんを、落ち着かせるように微笑んだ。
ねーちゃん、心配はいらない。
俺はもうこんなに大きいんだよ。
ねーちゃんに気遣って貰う必要が無いほど―――大きくなった。
ねーちゃんを軽く抱え上げる事もできる。
そして、その手を掴んで体の自由を奪う事もできるんだ。
だから、本当にもう―――俺を心配する必要は無いんだ。
もう俺は―――ねーちゃんに守って貰わなきゃならない『子供』ではないのだから。