3:死神と思い出
誰にも手入れされず、いつしか荒れてしまった芝生の上を裸足で歩き、青く晴れ渡った空を見上げる。太陽は西へと落ち始め、そろそろ夕暮れが訪れるだろう。
男は身に纏った烏羽色のローブと首筋まで伸びた山吹色の髪を揺らし、五メートルほど先にある巨木を目指してゆっくりと歩く。右肩に担ぐ大鎌が、日光を浴びて鈍く輝いた。
やがて巨木の前に辿り着いた男は、緑黄色の目を細めて柔らかく微笑んだ。
「お待たせ」
そう言いながら、左手に提げていた木籠を木の根元に置いた。
大人二人が手を繋いで囲うよりも大きな幹に、空高く広がる枝。花が咲いていた時期は既に過ぎ、青々と茂った葉が風に揺らされてざわざわと音を立てる。鳥の巣も出来たのだろう、食事を求める雛の鳴き声も聞こえた。
大鎌を地面に置き、幹に背中を預けて座り込む。
「仕事が忙しくて、なかなか来れなかったんだ。前に来たのは四か月前だったっけ。あの時はまだ寒かったのに、今はもうずいぶんと温かいよ」
誰かに語り掛けりかけるような口調だが、それに対する返事はない。しかし、男は気にせずに言葉を続けた。
「そうだ、今日はアレを持ってきたんだよ」
男は置いたままだった木籠の中に手を突っ込み、瓶を取り出した。その中でとぷんと音を立てたのは、
「うん、君が好きだった葡萄酒だよ」
喜んでもらえるといいんだけど、と自信なさげに目を伏せ、瓶を地面に置く。もう一度籠に手を入れ、二人分のワイングラスとコルク抜きを取り出した。
ざあ、と音を立てた木を見上げ、男は安心したように微笑む。なんだか喜んでくれているような気がしたのだ。
ワインのコルクを抜こうと瓶に手を伸ばす。だが、
「あれ?」
そこに置いておいたはずのそれは、姿を消していた。
いったいどこに行ったのかと焦って立ち上がると同時に、ぷに、と何かが頬に柔らかく刺さった。
「そんなに焦ることないじゃん」
続いて軽やかな声が聞こえ、男は強張っていた表情を緩めて深く息をついた。
「やっほーボリス。元気してたぁ?」
「イェルダ……驚かすなよ」
瓶を片手にくすくすと笑う幼馴染に、脱力したボリスは再び地面に座り込んだ。
ごめんねー、と反省した様子のないまま、イェルダは赤銅色のローブが汚れるのも気にせずボリスの隣に座った。そして鋭く尖った左手の爪を瓶のコルクに突き刺すと、勢いよく引き抜いた。
「ほらほら、グラス出して。注いであげるから」
「こぼさない様にしろよ」
「分かってるってぇ」
まるで犬のように人懐こい笑みを浮かべたイェルダは、差し出された二つのグラスにワインを注いだ。透き通った赤色は、まるで血を薄めたようにも見えた。
思わず目が潤みそうになるボリスだが、そんなところを幼馴染に見られるわけにはいかない。馬鹿にされるのは目に見えているからだ。
乾杯はせず、各々勝手にワインを口に運ぶ。封が開いたままのグラスはイェルダの手に握られたままだ。
「年月の流れってのは早いよねぇ。昨日まで雪が降ってたと思ったのにぃ」
「それは大げさな表現だけど、流れが早いってのは同感かな」
小さく返答しながら、ボリスは沈んでいく夕陽を眺めた。
「オネルヴァが死んでから、もう百年近く経つんだから」
その名前を聞いた途端、今まで笑っていたイェルダも臙脂色の目を伏せた。その瞳は、ここにいない誰かの姿を映しているようにも見える。
「彼女だけだよ。今まで、僕らを友達として扱ってくれた人間は」
ボリスは木籠から一枚の写真を取り出す。白黒のそれは古ぼけ、今にも破れてしまいそうだ。
そこに映るのは、柔和な笑みを湛える初老の貴婦人。
「懐かしいねぇ。あなたたちも写りなさいって言ってくれたけど」
「死神である僕らは、写ることすら出来なかった」
でも、あなた達がここにいることは私が知っているわ。そう微笑み、まるで自分の子供にそうするように頬を撫でてくれた。その温もりは今でも覚えている。決して色あせない、大切な思い出だ。
イェルダは傍らに置いていた漆黒の草刈り鎌に触れ、目を閉じる。
「オネルヴァは、最期まで幸せだったかなあ」
死を迎える人間の魂を刈り取り、冥府へと導く使者としてオネルヴァの前に二人が現れたのは百数年も前だ。たいていの人間は自分たちを恐れるものだから、彼女が優しく触れてきたときには驚いたものだ。
彼女は若い頃に夫を亡くし、子供を儲けることもなかった。再婚もせず、たった一人で暮らしていた。気丈な人と評判だったらしいが、本当は寂しかったに違いない。
だからこそ、死の権化である死神さえも受け入れたのだ。
「幸せな人生だったって、言ってたよ」
夕暮れに染まる空を見上げ、ボリスは彼女の姿を思い浮かべる。
魂を刈り、冥府へ導くのはそれぞれ別の死神が負う役目だ。オネルヴァの場合、刈り取ったのはイェルダ、導いたのはボリスだ。
ボリスは彼女の後姿を思い浮かべ、投げかけられた言葉を思い出した。
「寂しい時も、辛い時もあったけど、最後に僕たちに会えて、とても嬉しかったって」
私が今日まで生きていたのは、あなたたちに会うためだったのかもしれないわね。
そう言って川の向こう岸へ渡って行ったオネルヴァは、姿が見えなくなるその時までずっと微笑んで手を振っていた。
オネルヴァの遺体は、自宅があった場所を更地にし、イェルダが葬った。その場所こそ、この木が生えているここなのだ。
「あたしねー、怖いんだぁ」
唐突に、イェルダがボリスの手に触れた。
「いつかオネルヴァの事、忘れちゃうんじゃないかってさぁ」
イェルダは滅多に不安を吐露しない。珍しいなと思いつつも、ボリスはその手を優しく握り返した。
「大丈夫。イェルダが忘れても、僕が忘れない。忘れちゃったら、思い出させてやるから」
「……おっとこらしぃー」
にしし、と笑うと、それに合わせて青磁色のボブカットが揺れる。今も昔も変わらない幼馴染に、ボリスは安心感を覚えた。
自分もイェルダも、彼女を忘れることは無いだろう。毎年彼女の命日に二人がここに訪れるのも、これから先変わることは無いはずだ。
二人は立ち上がり、ボリスは木籠から取り出したワインストッパーをイェルダが持つ瓶に入れた。それをそっと根元に置き、木に向かって頭を下げると、何も言わずに二人は別々に歩き出す。
それを見送るように、木は静かに葉を揺らした。
※専門学校在学中の課題「死」を加筆・修正したものです。




