×したいほど愛してる
昔に書いたお話を、書き直したものです。
プロローグ・邂逅
十七の誕生日を迎えた少女は、最低の気分で目を覚ました。
「あと、一年か」
カレンダーをにらんでいまいましげに呟いて、のろのろと古いベットを出る。長く艶やかな赤毛をおざなりに結わいつけ、荒い足取りで階下へ下りた。
「顔洗ってくるね」
と両親に言い置いて、家の裏手の川へ出る。途中、村の知り合いの男たちとすれ違った。
「よう、琥珀姫! 今日誕生日だっけ? おめでとう!」
少女がきつく相手をねめつける。おお恐、と大げさに震えてみせた村人たちが、こそこそと小声でぼやいた。
「ほんっと性格きついよな、カナは。池の主の許婚だからってお高くとまりやがって」
「顔は良いのにもったいないよな、本当」
カナと呼ばれた少女が怒りに頬を赤くして、裏の川へと足を早める。
気に入らない。
何もかも気に入らない。
何百年何千年と続く、この村のしきたりも。村を護るとされている、鏡池の蛇神様も。琥珀姫と呼ばれる私自身も。
「……気に入らないわ!」
カナは腹立ちまぎれに呟くと、音を立てて川の水で顔を洗った。勢いで鼻に水が入り、大きく咳きこんだ。
「ふえっふえっふけほっえほ……っ! あぁもう、最悪っ!」
毒づきながらハンドタオルで顔を拭き、もう一度手のひらで水をすくって水鏡を作る。のぞきこんだ少女の瞳は、綺麗な黄金色をしていた。春のあたたかな日差しをあてた、はちみつにも似た琥珀色。
ああ、この瞳。
この瞳の色さえ違えていたならば。
大きく息をつく少女の肩に、ぽん、と誰かの手が触れた。
(何……誰? さっきの男たちかしら?)
とっさにそう思い、盛大に眉をひそめて振り返ると、見慣れぬ青年が立っていた。
美しい白銀の髪に、透き通るくらい白い肌。
生き人形のごとく整った顔立ちの中で、何より印象的なのはその目だった。
光をたたえた琥珀のような、魔性めいた黄金の瞳。私と同じだわ、と少女は心中で呟いた。
青年は人懐っこい顔で微笑うと、ちょっと小首をかしげてみせた。
「初めまして。僕、マシロ=マシロウ=マシアという者です。北からずっと、旅をして来たんですが……この辺に宿屋はないかなあ?」
語尾がなれなれしげに砕けたのに、カナが不機嫌そうに眉根を寄せる。
「宿屋ですか? この村に宿屋は一軒しかありません。私の家なんですが」
つん、と肩をそびやかすカナの返事に、マシロはにっこり笑いかけた。
「そうなの? じゃあ丁度いいや」
何が良いのよ、もう。
むかむかしながら、でもお客じゃしようがないわ、と立ち上がったカナに、青年は黙ってすっと手を伸ばした。何が何だか分からずにきょとんとする少女に、マシロは不思議そうにまた小首をかしげてみせる。
「あれ? 手、つないでくれないの?」
当然のような口ぶりに、少女の頭に血が昇る。
「……こちらですわ!」
長いスカートをひるがえしてずんずん先に進む少女に、旅の青年が笑いながら後に続いた。宿の部屋に案内されたマシロは、書き物机に革の荷袋を下ろし、ふうっと長く息をついた。
「久しぶりだなあ」
「久しぶり? あなた、前にもここに来た事があって?」
訊かれたマシロが、悪戯っぽく微笑ってみせる。
宿屋にこんな綺麗な人が来たならば、私も覚えているはずだ。気を引くために適当に変な事を言ったんだろう、とカナは一人で納得した。
「申し遅れました、私、カナと申します。カナ・カナリ・カナリヤ。以後お見知りおきを」
形式ばった口調で自己紹介して、カナは旅人をうかがうように見つめてみせる。
「あのう、いつまでこの村にご滞在ですの?」
「そうだねえ、今まであせって旅してきたから、いい加減疲れちゃってさあ。しばらく羽根を休めたいんだ。長くて一年くらいかな?」
げ。
思わず声に出そうになって、カナがあわてて口を押さえる。旅人はおかしそうに口元に笑みを浮かべ、また小首をかしげてみせた。首をかしげるのがくせらしい。
気を取り直した少女が、押さえつけるような声音でマシロに告げる。
「となりは私の部屋ですけど、勝手に入って来ないでくださいね。鍵をかけておきますから、入ろうにも入れないでしょうけど」
「ふうん、残念だなあ」
軽く答えた旅人は、まつ毛の長い目をひょうきんに緩ませて切り返した。
「でも、僕の部屋にはいつでも遊びに来てくれて良いからね」
かあっと頬を染めた琥珀姫が、
「失礼します!」
と叫ぶように言い残し、思いきりドアを閉めて出ていった。
自分の部屋に引き上げたカナは、どきどきする胸を押さえて息をついた。
何よ、あいつ。
何であんなになれなれしいのよ!
荒くなった呼吸を整え、カナは鏡をのぞきこむ。旅人のそれと瓜二つの、光をあてた琥珀の目。不思議な瞳が、鏡に映った自分自身を映している。
「……そんな強引にせまられたって、私は予約済みなのよ」
カナは小声で呟いて、ゆっくりと丸い肩をすぼめた。
綺麗な黄金色の、琥珀の瞳。
その色の瞳を持つ娘は、十八の年を迎えたその日に、蛇の嫁にならねばならない。それがこの村のしきたりなのだ。
村のはずれの鏡池には、村を魔物から護ってくれる蛇神様が住んでいる。村を護るのと引き換えに、蛇神様は琥珀の瞳の娘を求めている。村内にそんな娘が生まれるたび、村人たちは『琥珀姫』と名づけられたその娘を、生贄に捧げねばならないのだ。
馬鹿らしい。
まったくもって、馬鹿らしい。
カナはそんなしきたりが嫌いだった。しきたりに従う村人も、そんな邪習を押しつける蛇神様も嫌いだった。そんな決まりに抗えない自分の事が、誰より何より嫌いだった。
前章・銀の針
マシロはずっと前からこの村に住んでいたように、するりと生活に溶けこんでいった。
近寄りがたいほど端麗な顔立ちと、その美しさに似合わぬくらい人なつっこい性格は、村人にも受けが良い。
カナの両親も彼を気に入り、
「ずっといてくれないかねえ」
と呟く始末だ。
「いやあ、良い奴だなあ、マシロは」
しみじみとこぼす父親につまらなそうな目を向けて、カナは
「そうかしら」
といまいましげに呟いた。
「私あの人、気に入らないわ」
「気に入らない? どうしてだ?」
心底不思議そうな口調で訊かれて、少女は視線を泳がせた。軽くくちびるを噛みしめて、吐き捨てるようにこう答える。
「だって、とても優しいし。話は上手いし、宿の手伝いはしてくれるし、宿代もちゃんと払ってくれるし……」
「何だ、そりゃあのろけか?」
ぐ、っと言葉に詰まったカナが、悔しそうに桃色のくちびるを噛みしめる。
「……悪口が悪口にならないのよ。全くの嘘は言えないもの」
楽しそうに笑った母が、
「じゃあ何で、そんなに気に入らないの?」
となだめるように問いかけた。
「だって、なれなれしいんだもの」
「なれなれしくされるのは、そんなに嫌か?」
父に訊かれた琥珀姫は、黙って微かに首を振る。
「……嫌じゃないわ。嫌じゃない自分が、嫌なのよ」
ややこしい謎解きのような言葉に、両親がそろって首をかしげる。カナは無理やり笑ってみせて、二階の自分の部屋へと戻っていった。
鏡に自分の瞳を映し、大きく息をつく。
そう、嫌なのは、自分。
どうせこの身は蛇のもの。生贄のカナに恋なんて出来るはずもないのに、マシロに恋心を抱いている自分が何より恨めしい。
「あんなに良い人なのが、いけないのよ」
となりの部屋にいるはずの旅人に八つ当たり、カナが潤んだ瞳をぐいと拭った。
「カナぁ? そこにいるぅ?」
ドアの向こうから間延びした声が聞こえてきて、少女はあわてて顔を上げた。
「いるわよ、入っても良くってよ!」
お許しを得た旅人が、にこにこしながら部屋へ入る。もう大分宿暮らしにも慣れた様子で、当然のようにカナのベットに腰を下ろす。
「あのね、マシロ。私がベットに坐る前に、勝手にそこに坐らないでよ」
「ごめん。坐っても良い?」
「……もう坐ってるでしょ」
仔犬をしつけるようなカナの言葉に、マシロが悪戯っぽく舌を出す。骨ばった大きな手で頬杖をつき、
「ねえ、また色んな話して」
と子供のようにせがんでみせた。
「色んな話ったって、私は村の事しか知らないわよ」
「それでも良いの。それで良いの。ねえ、話してよ」
あどけないほど穢れのない笑顔を見せて、旅人はおねだりする。ふと何かに気づいたそぶりで、ぽん、と手を打った。
「あ、そうだ、あの家の話して。村はずれの、鏡池の近くに建ってるぼろ家の話!」
「ぼろ家? ああ、魔女の家ね」
うなずいた少女の顔を見返して、旅人がひょい、と首をかしげた。
「『魔女の家』? あそこ、魔女が住んでるの?」
「本業は占い師らしいけど。皆は魔女って呼んでるわ」
興味深げにうなずいたマシロが、少年のように瞳を輝かせて問いかけた。
「その人、魔法は使えるの?」
「分からないわ。会った事もないし。皆『あいつはよそ者だ、怪しい奴だ、近づくな』って言ってるし……」
言いかけて言葉を取りこぼし、カナが琥珀の瞳をゆっくりと見開いた。
そうだ。あの『魔女』なら、あるいは。
少女が黙って立ち上がる。
あれ? という風に首をかしげた旅人に、
「ちょっと出かけてくるわ」
と言い残し、カナは家を出た。村はずれの魔女の家を目指し、琥珀の瞳をきらめかせて駆け出した。
そうだ! そうだ!
『よそ者』の彼女なら、もしかして私の望みを叶えてくれるかも!
魔女の家についた少女は、つたのひっ絡まったドアを無理やりこじ開けて中へ入った。
暗い。ほとんど何も見えない。黒いベールの向こうからわずかな明かりがほの見えて、カナはおっかなびっくりベールを引き上げた。
ベールの向こうに、フードつきの黒いマントをかぶった老婆が坐っていた。絵に描いたような『魔女』の図だ。
老婆は口の端を歪めてにやりと笑い、
「琥珀姫だね」
と呟いた。
「何の用だい、蛇神様の生贄姫」
カナはきゅ、っと口元を引き結ぶと、決意したように口を開いた。
「その蛇神様の事なのよ。彼を倒す方法はあるかしら?」
魔女は驚いたようにしわだらけの口をもぐもぐさせ、それからにたりと笑ってみせた。
「彼を倒したいのかい? それは、村人の総意かい?」
カナは静かに首を振り、熱のこもった声で答えた。
「いいえ。でも、どうしても納得がいかないの。彼に毎回琥珀の瞳の娘を捧げるならわしが。誰かが嘆くならわしなんて、おかしいと思わない? おばあさま」
「ならわしなんざ、大抵そういったもんだがねえ」
こともなげに返した魔女は、
「それに」
と続けて言葉を継いだ。
「蛇神様は、この村を護ってくださってるんだろう? もし神様を倒しちまったら、この村は誰が護ってくれるんだい?」
き、っと老婆をにらんだ少女は、むきになって言い返した。
「知らないわ、そんなの。大体蛇神様が村を護っているだなんて、誰が証明出来るのよ! 確かにこの村には魔物は少ないし、めったに襲っても来ないけど……それが蛇神様のおかげかなんて、誰にも分からないじゃない!」
めちゃくちゃな論理をぶちあげる少女の姿に、老婆はおかしそうに笑いを洩らす。くつくつと肩を揺らしてひとしきり笑い、ようやく顔を上げると、どこからか一本の針を取り出した。
「これをお使い」
あんぐりと口を開けた琥珀姫が、苛立たしげに肩を揺らし、咎めるような声を出す。
「……おばあさま、私をからかっておいでなの? そんな変哲もない針一本で、蛇神様を倒せるとでも……!」
「倒せるさ。これは特別な針だからね」
魔女は針をものものしげに差し上げると、思わせぶりに微笑んだ。
「これは聖剣の欠片から削り上げた、聖水をかけて祈祷した銀の針だ」
カナはいぶかしげに眉をひそめた。
そもそも魔女の口から『聖』という言葉が出る事自体、たまらなくうさんくさい。少女の冷ややかな目線を気にもせず、老婆は続けてこう言った。
「この針穴にお前さんの髪を一本結びつけて、蛇の体に刺してごらん。神様はひとたまりもなく死んじまう。ただし、」
魔女はいったん言葉を切り、念を押すようにこう告げた。
「本当の本当に心の底から『蛇神様を殺したい』と思いながら刺すんだよ。もし一すじでも迷いがあると、神様は死なないからね」
言いながら、魔女は琥珀姫へ針を差し出した。とっさに手を伸ばした少女から針を遠ざけ、老婆はからかうような口ぶりでこう告げる。
「嘘だと思うなら良いんだよ。一年後に蛇の嫁になるお姫様」
カナがあわてて口を開き、
「信じるわ」
と悲鳴のように言葉を撒いた。
「信じるわ、信じるから……!」
「さればお代をおくれ」
「……お代?」
そうだ、忘れていた。村の人から『魔女』と呼ばれるほど狡猾な人物が、ただで物をくれようはずもない。どうしよう、お金はあんまり持っていない。
あたふたとポケットを探る琥珀姫に、老婆はにんまり笑いかけた。
「その髪で良いよ」
「……髪?」
ぴた、と動きを止める少女の赤毛を、魔女が骨の浮いた木切れのような指で撫で上げる。
「ああ、この綺麗な髪を肩からばっさり切り落として、あたしにおくれ。それでお金の代わりにするよ」
魔女がにたにた笑いながら
「針の穴に通す髪は、一本残してあげるがね」
と親切ぶって呟いた。
カナはしばらくためらってから、黙って深くうなずいた。艶やかな赤い髪を後ろ手に縛り、渡されたはさみをそこへかざす。
ばつり……っ!
美しく伸びた己の赤毛を、思いきりよく切り捨てる。カナはさらさらと落ちかかる髪束を、魔女の前に差し出した。
納得したように微笑んだ魔女が、髪の毛を一本針穴に通して結わいつけ、ぽんと少女の手にのせる。カナは静かにおじぎをすると、崩れそうなドアをこじ開けて魔女の家を後にした。
「酔狂な事だ、あの男も」
ドアを無理やり閉める刹那、そんな言葉が聞こえた気がした。
何を思っての言の葉なのか。カナは少し不思議だったが、まあ良いわ、と小走りに家路を急いだ。
家に帰ると、両親にひどく驚かれた。
大事にしていた髪を切ってきた娘に、何かとり憑いたかとまで思ったらしい。わあわあ騒ぐ二人に
「気分を変えようと思ったの」
と苦しい言い訳を押し通して、二階の自分の部屋へ戻る。
部屋にはまだマシロが待っていた。ぐんと短くなったカナの髪を見て、旅人はぱちくりと琥珀の瞳をまたたいた。
「どうしたの、その髪?」
「……ちょっとした気分転換よ」
ごまかしながら書き物机の引き出しを開け、裁縫箱の針山を取り出す。
普通の針をまとめてすみに刺しておき、針山の真ん中に退治用の髪つきの針を突き刺した。髪を何重かに巻いて、間に挟まないように裁縫箱のふたを閉める。
マシロはあえてその事は訊ねようとせず、小さく呟いた。
「また、そうなるか」
「……ん? 何か言った、マシロ?」
振り向いた少女に、青年は微笑って首を振る。
「似合ってるよ、その髪も」
嬉しそうに微笑んで告げられ、カナの頬に血が昇る。
もしも、蛇神様を倒せたら。
この人と一緒になれるのかな、と夢のように考えた。
後章・血の誓い
穏やかな日々は過ぎてゆく。
マシロと出逢った、雪の解け残る春の日はもう遠い。
次の春が来ないように。時間が止まってしまえば良い、と願いながら、カナはマシロとの日々を過ごした。おとぎ話になぞらえて、自分の運命も口にした。
琥珀姫と蛇神様の話を聞いた旅人は、少し淋しげに微笑ってみせた。きっと他の村人たちから、もう噂は耳にしているのだろう。
「……どう思う? この話」
「どう、って……」
何か言いかけて口をつぐむ青年の手をとって、カナは綺麗な爪を撫でた。
気持ち良い感触だ。離したくない。
自分の中に初めて芽生えた独占欲を持て余しながら、少女がなおも問いかける。
「蛇神様は、ずいぶん横暴だと思わない?」
マシロが急に顔をそむけた。すん、と鼻を鳴らしてから少女の方に向き直り、
「そうかなあ」
と苦しげに微笑する。
「そうよ、琥珀の瞳の娘ばかり狙って食い散らかすなんて、横暴にもほどがあるわ。本当に村を護っているのかも怪しいもんだし、大体……」
矢継ぎ早に言いかけたカナが、ふと気がついて言葉を止める。
マシロが綺麗な琥珀の瞳を歪め、どこか泣き出しそうな、切なそうな目をしていた。
「やだ、ちょっと、何であんたがそんな顔……」
カナがあわててマシロの頬を両の手のひらで挟みこむ。ああ、と一人得心して、なぐさめるようにうなずいた。
「大丈夫よ、私は今までの琥珀姫とは違うんだから。みすみすこの身を蛇神様なんかにはやらないわ。とっておきの秘策があるの」
そういう事じゃ、ないんだけど。
息だけで呟いた旅人が、眉をひそめて微笑ってみせた。
マシロの言葉と微笑の意味が、琥珀姫には分からなかった。
十八回目の誕生日が訪れた。
朝早く目を覚ましたカナは、すっかり身支度を整えた後、マシロの部屋を訪れた。てっきりまだ寝ているものと思い、黙って扉を押し開ける。するとそこには意外な光景が広がっていた。
いつも寝坊なマシロが、もう起きている。きっちりと身支度を整え、革の荷袋の中を何やら点検しているようだ。
は、っと胸をつかれた少女が、顔を上げた青年へ問いかけた。
「……マシロ? もう発つの?」
「うん、そろそろ旅を再開しようと思ってさ。ちょうど一年経ったしね」
旅人の言葉に、少女は淋しげに微笑した。
ああ、そうか。この人と出逢って、もう一年が経つんだわ……。
胸の前で手を組んだカナは、思いきってマシロへ声をかけた。
「ねえ、マシロ。家を発つの、もう少しだけ待ってくれない?」
昨夜寝られなかったのか、目のふちにくまを作ったマシロが、首をかしげて問いかける。
「……どうして?」
「あなたに言いたい事があるの。でも今は言えないの。そうね、昼過ぎに鏡池に来てくれないかしら? 私そこで、」
少女はいったん言葉を切り、
「今まで言えなかった事をあなたに言うわ」
と告げて微笑んだ。
待っていて、マシロ。
私蛇神様を殺して、今度こそあなたに告白するわ。
胸の内で血なまぐさい誓いをあげて、琥珀姫が花のように微笑んだ。その表情は人とは思えぬほどに美しく、マシロが、思わずぞく、っと肩を震わせた。
カナは髪を結わいた針を手の中に隠し持ち、鏡池へ急いだ。
今までに味わった事のない緊張で、信じられないほどの汗が噴き出てくる。手の中でぬるぬるになった針を必死に持ち続け、何度か針を己が指に刺してしまった。
「……ほんのちょっと刺しただけでこんなに痛いんだもの、殺される蛇神様はさぞや痛いでしょうね……」
思わず知らず呟いて、はっと我に返りむちゃくちゃに首を振る。
いけない。
ほんの少しでも情をかけたら、もうそれで彼は殺せない。
非情にならなければ。無情にならなければ。
これから生まれてくる、幾人もの琥珀姫たちのためにも。
カナはふと立ち止まり、ぎゅ、っときつく目をつぶって誓い直した。鏡池までたどり着き、荒い息を吐いて池のほとりに佇んだ。水面を渡る涼しい風が、焼けそうに火照った肌を冷ましてゆく。
少女はぱくりと口を開け、あらん限りの声で水面に叫んだ。
「……蛇神様! 当代の琥珀姫、カナ・カナリ・カナリヤが参りました!」
声は大きく響いてにじんで、森の空気にかすんで消えた。
水の面に、さらさらと小さなしじまが走る。しじまは段々大きくなり、やがて中心にごぼごぼと水泡が立って、池の中から途方もなく大きな蛇が現われた。
美しい。
透き通るほど白い鱗は、一枚一枚が磨かれた螺鈿細工のようだ。水を浴びてきらきらと輝く様は、この世の物とは思われないほど素晴らしい。
「……すごい……」
カナは恐ろしさより、綺麗なものを見る感嘆の方が先に立ち、惚れ惚れとした目で蛇を見上げた。蛇も少女を見下ろした。その瞳は、カナと同じ、春の日差しを受けたはちみつのような琥珀の色をしていた。
少女は否応もなく、想い人の瞳を思い出す。
この瞳、マシロに似ている。私の目にも、良く似ている。
カナの胸の内に、むくむくと親愛と憐憫の情が沸き起こる。そんな少女の想いを知ってか知らずか、白く美しい大蛇は池のほとりにたどり着き、姫の身体を抱きしめるように甘く優しく巻きついた。
カナは驚いて思わず目をつぶる。再び目を開けた時には、少女は見知らぬ部屋の中にいた。
「……何? どこ? ここ……」
「池の底の、蛇神様のお城だよ」
耳元でした声に振り向くと、あの愛しいマシロが、水に濡れて微笑っていた。
ああ。ああ。
まさか、そんな。
「……あなたが、蛇神様だったの……?」
なかば呆然と呟く琥珀姫の問いかけに、マシロはあっさりうなずいた。
「そうだよ。いつ気づくかと思ってたけど、最後まで気づかなかったねえ」
カナは琥珀の瞳を苦しげに歪めて、手の内の針を握り直した。
マシロ。
今あなたを倒さないと、これから生まれる琥珀姫が悲しむの。
何人もの琥珀姫と、彼女たちの親や兄弟、友だち、それに、もしかしたら恋人だって、あなたのために悲しまなきゃならないの。
だから、ごめんね。
「……マシロ。新しい花嫁のために、誓いのキスを……」
甘えるような声音でねだられ、マシロが照れながらカナの頬に手をあてる。
近づいてきた赤いくちびるを寸前でかわし、カナがマシロの横腹に針を突き立てた。瞬間、小さな針が禍々《まがまが》しいほど底光りする銀の剣に変じて、マシロの身体を貫いた。
「……か……はっ、」
こぽりと血を吐いた蛇神が、カナを見つめて痛々しげに微笑する。
「……まだ、思い出さないの……?」
蛇の赤い血を頭から浴びて、カナが泣き出しそうにマシロを見上げる。マシロは死にそうな顔で微笑んで、花嫁についた己の血を拭ってやった。
「……君はね、何度も何度も生まれ変わって、何度でも僕のお嫁さんになるんだよ……」
今までだって、ずっと。
白蛇の化身は苦しげに言葉をこぼし、また真っ赤な血を吐いた。
カナは琥珀の目を見開いて、ぱくりと桃色のくちびるを開いた。頭の中に、今まで失っていた切れ切れの記憶が乱舞する。
(ヒィナ)
(キャラナ)
(メィカ)
(カシィ)……。
昔呼ばれた己の名を、記憶の中の蛇が呼ぶ。以前にここで過ごした記憶が幾重にもいくえにも重なって、カナは思わず夫にすがりついた。
そうだ、私は。
この人に魅かれて、何度も何度も生まれ変わって、何度でもこの人の妻になっていたんだ。
私は自ら望んで、琥珀姫に生まれていたのに……!
「……ごめんなさい」
カナが泣きながらマシロの身体を抱き起こす。細い腕の中で、夫の身体から見る間に力が抜けてゆく。
「ごめんなさい」
マシロの琥珀の瞳が霞み、光がこぼれるように急に彩度を下げてゆく。微笑んで目を閉じた蛇神の頬に、妻は今さら口づけた。
「……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……っ! っあぁ、あぁああぁ……っ!」
カナが身をふりしぼるように泣きながら、マシロの身体をかき抱いた。血に濡れた夫の赤いくちびるは、微かに笑みをたたえていた。
数時間がたった。
カナは細腕でマシロをベットまで引きずって寝床に横たえ、一心に神に願っていた。夫の腹から引き抜いた銀の剣は、もうただの針へと戻っている。
「……神様、かみさま。この人が助かるなら、私はもう生まれ変われなくなっても構いません。私の魂と引きかえに、マシロの命を助けてください……っ!!」
ぼろぼろに泣きながら祈る妻の横で、マシロは死んだように眠っている。ほとんど寝息を立てずに寝ているので、見守るカナは不安でしょうがない。
何度も手をマシロの口元へかざしては、少しほっとしてまた一心に祈り出す。
そんな事を繰り返しているうちに、蛇の化身はふいに琥珀の目を開けた。むくりと起き上がった夫に、カナが必死にすがりつく。
「あなた? 大丈夫、あなた?」
カナに微笑いかけたマシロは、くああ、と猫さながらに大きなあくびをしてみせた。
「ああぁ、良く寝た」
「…………は?」
のんきな言葉に固まった妻が、ふと夫の腹へ目を落とす。あれほど大きく開いていた剣の傷は、跡形もなく消えていた。
にんまり笑った蛇の化身が、
「びっくりした?」
と訊ねかけて悪戯っぽく小首をかしげる。
あんぐりと口を開いたカナが、
「……これは、どういう……?」
となかば呆気にとられて問いかけた。
くつくつ笑ったマシロが、謝る手つきで琥珀姫の頭を撫ぜる。
「大丈夫だよ、僕は君の手じゃ死なないの。だって君、本当に僕を殺そうと思ってないでしょう?」
そう言われて、カナは魔女の言葉を思い出す。
〈本当の本当に心の底から『蛇神様を殺したい』と思いながら刺すんだよ。もし一すじでも迷いがあると、神様は死なないからね〉
そうだ、確かに彼女はそう言った。
でもどうして、マシロがその事を知っているの?
訊ねるそぶりでカナがマシロを見つめると、白蛇の青年はばつが悪そうに微笑んだ。
「実はさ、毎回やってるんだよ、これ」
琥珀姫が大きな瞳をさらに大きく見開いた。申し訳なさそうに視線を泳がせ、マシロが頬をかく。
「毎回ね、君は僕の事忘れてて。必ず『後の世の琥珀姫たちのために』って、僕を倒そうとしてさ。でもやっぱり、どこかで覚えててくれるんだろうね。どうしても、君は僕を倒せないんだ」
ぽん、と自分の頭に手をあてて、マシロはやんちゃな少年のような笑顔を見せた。
「実は僕、魔女とも古い知り合いでさあ。まあこれは、人間で言うところの指輪交換の儀式みたいなもんだから」
軽く言い流す蛇神に、カナが苦しげに丸い肩を震わせた。
そんなの。そんなの。
じゃあ何で、どうして本当の事を言ってはくれないの。
ううん、それより何よりも。
「……馬鹿じゃない? 毎回こんな危ない事して、本当に死んだらどうするのよ……!」
涙に濡れた頬を歪めて問いかける妻に、ふと真顔になったマシロが、
「その時は、しょうがないよ」
と遠い目をして呟いた。
「君に本当に『死ねば良い』って思われた日にゃ、どの道生きてはいけないもの」
マシロは少しくぐもった声で答えて、微かに口元に笑みを浮かべた。
本気の声音だった。本気なのが分かるから、それが嬉しくて、恐ろしくて、でもやっぱり嬉しくて。
カナは涙でぐしゃぐしゃになった頬を緩めて微笑んだ。
照れくさそうに微笑いかえした夫の頬を、平手で思いきりぶん殴る。ぱあん、といういっそ小気味の良い音が、池の底に響き渡った。
エピローグ・魔女旅立つ
カナが池の底に嫁入りして、数か月が経った頃。
一人の美女が、池の城を訪ねてきた。
何の前触れもなしに城の魔法陣の上に現れた美女は、カナを見ると
「久しぶりだな」
と黒髪を揺らして笑ってみせた。気さくに挨拶された琥珀姫は、愛想笑いしながら内心で大きく首をかしげた。
久しぶり?
でも会った覚えはないわ、こんな人。こんな美人なら、いっぺん会えば忘れるはずもないけれど。
誰だろう、と考えこむカナの後ろから、マシロが美女に声をかけた。
「やあ、久しぶり。この間はどうも」
「全く、お前は本当に分からん趣味を持ってるな。おかげでこっちはまた材料探しだ」
誰だか分からない美女は、夫と交わすやりとりもまた理解不能だ。
趣味って何? 材料探しって?
もう我慢がならずに盛大に頭をひねり出す新妻に、マシロが笑って手のひらで美女を示してみせた。
「あれ? 誰か分かんない? あばら家の魔女だよ、カナ」
「……えぇえっ!?」
絵に描いたように取り乱すカナに、魔性の生き物二人がおかしそうに笑い出す。魔女はお姉さんが妹にするように、手を伸ばしてぐりぐりとカナの頭を撫でてやった。
「婚礼の日はびっくりしたろう。ごめんな。こいつ変な信念持っててさ、『奥さんが本当に僕を好きって分かるまでは、妻には出来ないよ』って言うからさ」
ああ、例の儀式の事か。
針と剣の一件を思い出し、カナがうんざりとうなずいた。魔女はぽんぽん、と軽くカナの頭を叩いて笑い、二人に告げた。
「で、また聖剣の欠片がなくなったんで、探しに行こうと思ってな。今日はその事を報告に来た」
「ああごめん、苦労かけるね」
軽い口調でねぎらうマシロを、魔女が横目でにらみつけた。
「本当にそう思ってるなら、変な儀式を終わりにしろ」
笑って首を振る白蛇の化身の頭をこづき、魔女が
「今度は聖剣の欠片のほかに、何ぞみやげを持ってくるから」
と言い残して去っていった。
残されたカナが、ふと思いついたように呟いた。
「綺麗な髪だったなあ。あんな綺麗な黒髪があるなら、私の髪なんていらないでしょうに」
妻の言葉に、マシロが思わず吹き出した。
「ごめん、それも僕の趣味。僕、ショートヘアーが好きなんだ」
カナがぎろ、っと夫をにらむ。
腹が立つ。手のひらで踊らされてるみたいで、何だか無性に腹が立つ!
半分本気でこぶしでとんとんしてくる新妻に、マシロがふと真剣な表情で問いかけた。
「ねえ、カナ。僕の事、愛してる?」
琥珀姫がふと動きを止めて、上目遣いに夫を見つめる。
マシロの、美しい瞳。光を浴びた琥珀の瞳。自分のそれと瓜二つな愛しい瞳に、己の姿が映っている。
(――殺したいほど)。
カナは声なしで答えを返し、夫の胸に噛みつくようにすがってみせた。
(了)
い、いかがだったでしょうか……。『蛇神』と『輪廻』というテーマ(モチーフ?)が好きで、今までに何個も書いてます。『×したいほど愛してる』は、その中で一番『甘い』話です。お読みくださった方の、お口に合うと嬉しいな……。