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月隠の詩  作者: なつ
9/13

第撥話 秋去


  1


 みとせ、ふたとせ、ひととせと、ゆるり揺られて何と瀬か。何と瀬重ねて、幾百と、幾千と、変わることなき、三瀬の河。

 億の光の彷徨いて、三瀬の河に溢れゆく。

 さっと川面に手を伸べて、浮かべる静かな彼岸花。光は集い従いて、やがてはただただ一筋の。

 やがては光の失われ。

 月隠の夜に見えるものなし。

 渡し守、静かに舟を揺らし続け、彼岸へ彼岸へ進みゆく。

 そこに座るは白装束の、黒髪の闇に解け、わずかに浮かぶ紅の頬の、いとけなく。

「いきなさい、いきなさい」

 少女はただただ繰り返す。

「いきなさい、いきなさい」

 やがて少女の声は消え、

 少女の姿も闇に消え、

 残るは三瀬の河に流離う渡し舟。

 ゆらり、ゆらりと揺れている。



  2


「ねえ、どうしていけないの?」

 少女の、まだ小さく少し力を入れれば折れてしまうのではないか、というほどの手が母の着物の裾を握る。

「いけないものはいけない。それがお天道さまと交わした約束だから」

「でも、あたしは、そんなの我慢できないよぅ」

「わがままはいけないよ、お前はただ自分のことをなしていればいいんだ。それに、お天道様は優しいお方、お前にも機会を与えてくれておるだろう」

「そんなの待てないわ」

 少女の願いなど、母に通じるはずもなく。ただ母に与えられた機織の前で、少女はひたすらに機を織ることしかできず。

 綾衣薄衣美しく、時を経ずして、白装束の現れて。

「お前の織る機は本当に美しいね」

 母は少女の頭を優しく叩く。


 三瀬ほとりは、その少女の脇に立ち、その少女が織り上げた白装束が、まさに自分が着ているものと瓜二つなのに気がつく。

「これが秋去り姫?」

「そうです、お嬢さま」

 三瀬ほとりの後ろには、坊主の朔が腕を組み立ち、その左右には玉と蜘蛛。一人は狐のような大きな耳と、九つの尾を持ち。一人はただ大人の色香を振りまく女性の姿をしており。

「わたしがここに呼ばれた、ということは、わたしは彼女に告げなければならないの?」

「彼女は儚い。見ていられないほどに」

 蜘蛛の口から、それだけで心奪われそうな音が紡ぎだされる。

「でも、わたしが告げたところで結末は変わらない」

「そのようなことを」

「ええ、分かっています。そのときまで、あと少し、様子を伺いましょう」


 秋去り姫は、その白装束を両手で覆うように持ち、家を飛び出した。空に上る日はすでに西に傾き、薄紅色に辺りを染めている。白装束もその光に優しく赤く色づいている。

 息も絶え絶えに秋去り姫は、急流激しい河原に来た。小さな砂利が広がり、朝方であればそこで衣類を洗っているものもあろうに、だが、この時間には彼女の他誰の姿も見えなかった。

 対岸は恐ろしいほどに小さく見え、遠くに、けれども同じような広場が広がっている。彼女は白装束を愛おしそうに抱きしめながら、その対岸を見つめる。

 それから対岸に、ほぼ彼女の正面に、同じように立つ人物を見つける。

 愛しい人。

 秋去り姫は、白装束を掲げると、それを空に投げた。

 瞬間、

 白装束が形を変える。

 それは真っ白な、まさに白鳥のように。

 両の足で彼女を支えると、白鳥はその急流の上を悠々と飛んでいく。そして秋去り姫は、対岸に待つ殿方の元へと降り立った。

「ああ、姫、俺のために、このような危険を冒して」

「いいえ、いいえ、すべてあたしのためですもの、あなた様がそのように病む必要はありませんわ。だって、すべてあたしの我が侭なんですもの」

 ああ、姫、と男は再び繰り返すまもなく、秋去り姫を抱きしめた。彼女もそれに応じ、小さな腕を相手の背へ回す。

 ゆうくりと、朱の空は闇に沈んでいく。それに合わせるように、二人の姿も闇へと溶ける、溶ける。


 闇に溶けた世界は、秋去り姫でさえも気がつかないほどに、黒く、醜く。三瀬ほとりは、それが異様なことだと気がついていたが、まだそのときではないと、自らを戒め。けれど、彼女は、その闇が、秋去り姫の白い肌をすでに覆い尽くしていることに恐怖を感じていた。

 これはただならぬこと、と、彼女は左右に目配せをする。

 が、朔も玉も蜘蛛も、まるで時を失ってしまったかのように、止まっている。

 闇の中、彼女は秋去り姫のすぐ後ろに立った。すでに何も身にまとっていない秋去り姫の、彼女と同じほどの体つきの、その背にまとわりつく闇には目がある。

 否。

 目があるのではない。だが、明らかにそれは意思をもち、彼女を睨んでいた。

「お前は何だ」

「……」

「それに用があるのは私だ。お前のような存在は必要ない」

「……罪びとか。これに用があるのは俺だ。罪に穢れたお前には用のないこと」

「彼女から離れなさい」

「彼女は禁を犯している。それを見逃すほど俺も優しくはない。犯した禁は償わなければならない。それはお前がよく知っていることだろう」

「ええ、知っているわ」

「ならば引け」

「けれど、それをお前にゆずるほど私も優しくない」

「俺とお前は似ている。けれど、俺は罪びとではない。オムニプレゼント。どこにでもあり、どこにもない」

「離れなさい」

「お前よりも遥かに強い」

「三度目、離れなさい」

 すうぅっと、秋去り姫の背中からその闇が消えていく。三瀬ほとりは、己の身体から汗が、とめどなく出ているのに気がつく。

 今のが何だったのか分からない。けれど、遥かに強い存在だということは確かなようだ。

「お嬢様」

 彼女の周りに、三人が膝をつく。それを両手で押さえると、彼女は前で動く二人の、秋去り姫の頭の上に手をかざして囁いた。

「いきなさい」

 その言葉と同時に、秋去り姫の口から、柔らかな官能の吐息があがる。



  3


 かたりかたりと秋去り姫の、機織の、止まることは果てしなく。ただ繰り返されるは無限の営み。

 縁側に座る三瀬ほとりの、胸にくすぶる思いの複雑で。

 罪に穢れた三瀬ほとりの、何のために、ここにあるのか。

 この務めの果ての果てに、何が待つのか、何もないのか。

 何もないことを、三瀬ほとりは知っている。

 白装束の、いつしか染まりゆく裾の、赤と青の艶やかに。

 秋去り姫が、三瀬ほとりをここへ導いた。

 けれど、秋去り姫を導いたのは、三瀬ほとり?

「次の、新月が、時の果てと」

 庭には僧のいでたちの朔と、九尾の狐が玉とが、互いの間合いに立ち、その技を磨いている。少し離れたところには色香漂う大人の女、女郎蜘蛛。

「私は、罪を、また犯そうとしているのかしら」

 たとえその通りだとしても、三瀬ほとりはもはや止まることなどできない。秋去り姫の、なぜ彼女をこの地へ寄越したのか、そして、彼女の務めの先々にかげる影。

 かたりかたりと、

 音の紡ぐ。

 罪に汚れた三瀬の川、

 その先には、

 何もない。



  4


 牢につながれた少女の、両の手は幾重にも巻かれた綱の、少女細い腕はきつくきつく締め上げられ。それ以外に少女は何も身に着けることなく。けれど、その元は白かったのであろう肌は薄汚れ。それが垢による汚れなのか、痣によるものなのか、判別などできないほどに。

 その少女の瞳には、それでもまだ光を失うことなく。これも後、半日も耐えれば放たれることを知っているから。三百と、六十四の日を、一度として数え誤ることなく、この生き地獄を過ごした。

 少女の瞳の奥にある光の、さらに奥にくすぶるのは、憎しみの炎であろうか。それとも、それでもなおあの人を愛するがための希望の炎であろうか。

「……」

 人の声が聞こえる。この牢の入り口で、小さな喧騒と共に、誰かが入ってくる。少女の目が捉えたのは育ての母の、憎しみに満ちた姿。その手には九つに割れた鞭を持ち。

「さあて、お前はよくがんばったと思うよ」

 母は、つながれた少女の耳元に囁く。

「耐えて耐えて、ほら、あと少しで一年だ」

「……」

 少女の口は動けど、それは音にならない。

「お天道さまにそう誓ったのだからねぇ。うん、本当に立派なことだったろうよねぇ」

 次の瞬間に鞭が少女の身体を打つ。

「そんな世迷言を信じて、耐えてきたのだから」

 二たび、三たびと、鞭が空を切り、少女の肌を打つ。そのたびに、少女の口からは、低い音がこぼれる。少女の意思とは関係のなく、ただ、空気の漏れ出る音。

「その瞳は、まだ信じてるようだ」

「……」

「明日にはここから出られるなんて、嘘だよ」

 少女の瞳が大きく開かれ、奥の炎が大きく揺れる。

 牢の、少女と母しか他にない小さな空間で、その炎は実を帯び、次の瞬間には、母を燃やしていた。

 その炎はまるで少女の意思に呼応するように、少女の手を縛っていた幾重にも巻かれた綱さえも燃やし尽くす。

「……」

 少女の口は、う、そ、と動く。

 それに合わせるように、少女の周りを炎が一層包み込む。異常に気がついた牢兵だろうか、近づこうとするが、そのようなこと出来るはずもなく。

「あ、ああぁあ、あああぁぁ」

 その叫び声の、まるでこの世界を覆うほどの大きさで。


 三瀬ほとりは、少女を抱きしめていた。

 少女がそれに気がつくのには、さらに多くの時間を費やした。そのまま牢を破り、天然の洞窟をくりぬいたのであろうか、そこを抜け、小さな村の外れの、開けた空間に来るまで。それまでには、少女から立ち上る炎が、周りの木々を焼き、村の大半を焼き払い。

「いいのよ」

 ほとりは少女にただそう囁く。

 少女の身体は宙に浮いた。

 否。

 少女の身体はまだその開けたところにあり、そこに倒れていた。すでに肉体から離れた存在をほとりは抱きしめていた。

「あたしは、あたしは、ただ」

「ええ、知っているわ。お前はただ牛宿を愛しただけなんですもの。純粋なお前は何も知らなかった。それがいけないことだ何て分かるほど大人じゃなかった。それに、もしそれが分かったとしても、何も変わらない。それでもお前はただ愛し続けたでしょう」

「ええ、ええ」

「お前の罪は、今もなお愛し、そのために他を憎んでしまったこと」

「ええ、ええ」

「もしもお前が、その罪を償いたいというのなら、私ならそれを科すことができる」

「いきなさい?」

「そう、三瀬の河を漂う魂を導き続ける。お前ならどんな苦痛だって耐えることができる。耐えてゆけば、牛宿にまた会えるかもしれない」

「本当に?」

「かもしれない」

「分かった」

 その瞬間、少女とほとりの姿はそこから消えた。残ったのは、ただ黒くただれた、世界だけ。



  5


 みとせ、ふたとせ、ひととせと、ゆるり数えてなんとせか。花の弁を浮かべては、ゆるりゆるりと放れゆく。

 小船に黒く渡し守、闇夜に伸びた八角の樫の木を河につきさして、ゆるりゆるりと揺れている。

 綾衣薄衣美しく、花を手折る指の細く、黒の髪は闇に溶け、まだいとけない口元の、ぽそりぽそりと音の鳴る。

 すらと伸びたまつげの下に、赤と青の交じりたる瞳は細く閉じられて、もちのように膨れたる頬は桃に色づいて。

 少女は何を謡っている。

 何を謡って、泣いている。

 儚い少女の座り姿に、渡し守、自然と涙が浮かびきて、耳を澄ませば小さな声で、少女が繰り返し、音を吐く。

 いきなさい、

 いきなさい。

 河の真中に揺れている小舟の姿儚くて、月隠の暗き闇夜には、離れた岸辺に見えるものなし。

 いきなさい、

 いきなさい。

 少女の目には、赤と青の涙、涙。



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