第漆話 水濡
1
白く棚引く蜘蛛の糸、不可思議誘う黄と黒の、斑模様の妖かしに。
数多の男の奪われて、命を賭してわずかな頂。
おいでおいでと艶かしく、色ある声に逆らうは、並の人には不可にして。
ゆえに、
三瀬ほとりは、その身一つ、闇夜の映える白装束の、裾の先より赤と青。次第に染まり侵されて。
瞳の奥にも赤と青。
ゆらりゆらりと、揺れている。
月隠の闇の中、高き滝の水しぶき、その長く黒い髪さえも、水に濡れて肌につく。
滝の奥には黄と黒の、闇の中にも輝きて、伸びる八つの触手の大きく、三瀬ほとりを覆うほど。
白く棚引く蜘蛛の糸。
三瀬ほとりは包まれて。
快楽の果てに何を待つ。
何を待って、泣いている。
「いきなさい、いきなさい」
わずかに動く口元の、ただその音をのみつむぎ出し、蜘蛛の糸は、動きを止める。
「少女が何を泣いている?」
「いきなさい、いきなさい」
「わたくしに、そのような言は通じぬよ」
「もしも親愛なる人が、わたしを裏切っているのなら、わたしはどうすればいい?」
「わたくしに聞くは愚かなこと」
「わたしの罪は黒く上塗りされる」
「ここに来たのは、少女が答えをすでに考えてのこと」
「ええ、その通り。お前の力がわたしは欲しい」
白く棚引く蜘蛛の糸。
女郎蜘蛛の黄と黒の。
斑模様が滝の裏、妖しく、艶かしく、ゆれている。
2
ええ、わたくしはただ遠くからその殿方を見ていることさえも、許される身分ではありませんでした。その差は千由旬も万由旬も。いいえいいえ、そんな物理的な距離を越えるほどに、殿方とわたくしの間には、硬く厚い壁がございました。
女の独白は続く。
そうでしょう、そうでしょうとも。殿方はこの国を治める人なのですもの。わたくしのような醜く、小さいもののことなどにいちいちと考えを巡らせてはならない人なのですもの。
でも、それでも、わたくしは、せめて見続けることを続けたいと思いましたわ。
なんとも罪深いことなのかしら。ええ、分かっています、分かっていますとも。愚かで、賢しいことですわ。それがもしも、殿方の脇に控えるものの耳に入ろうものならば、わたくしは捕らえられることでしょうとも、いいえ、それではすまないことくらい分かっております。おそらくは何もためらうことなく、わたくしは殺されてしまうでしょうとも。
命を賭した恋。
だなんて、そんな甘いものではなかったけれど。
でも、そんな甘い海に溺れてしまえるのなら、わたくしはこの身を、ええ、その大海原に喜んで捧げるでしょうとも。
岩肌の地べたに薄く敷かれた白絹に正座し、女は少し俯き加減のまま、視線だけを上げる。わずかな光に艶やかな長い黒髪が輝く。自然と波打った髪先は腰ほどのところで、着物の帯に触れている。
ですから、その様な時が訪れたと、もちろん間違いでしたわ、わたくしの、訪れたと思われたその時に、わたくしは抗うこともできずに、この身を捧げてしまったのですもの。あれは、そう、ここから程近い小山の中腹にある垂水のところでしたわ。きっと夕涼みに殿方は訪れたのね、それとも気まぐれだったのかしら、いくらか殿方と言葉を交わしましたが、そのほとんどは忘れてしまいましたもの。
でも、お供の人を誰も従えていませんでしたから、何か、事情があったのは確かなことでしょうよ。
ほんとうに、わたくしとしては、ええ、ええ、本当に勇気のいることでしたわ。どう声をかけたらよいかしら、て。
そう、逡巡して、どれほどのときをただ近くで殿方を見つめることに費やしたことかしら。きっと、わたくしのお尻から、恥ずかしいわ、何万もの糸が垂れていたことでしょうとも、垂水に任せて。
「おい、そこのもの」
それがわたくしに発せられたものだなんて、どうしてそんなことがありえるの? ええ、ですから、わたくしに抗うすべはなかったのですわ。
「近う」
腕を組み、殿方はわたくしをまっすぐ見ておりましたわ。それだけで、わたくしの心は躍るように、身体は熱く。そこが垂水でなかったとしたら、きっとわたくしはそのまま燃えてしまったでしょうとも。
何と答えたかしら。それとも何も答えることなく、ただ殿方の近くへと歩み寄っただけだったかしら。
次にはその太くたくましい腕に抱かれておりましたわ。この卑しくも醜いわたくしを、殿方が抱いていたのですよ。わたくしの小さな心は、それだけで破裂してしまいそうでした。ええ、だって、何度そんな瞬間を夢見たかしら。
甘い夢だと分かっていたから、叶わないことも知っていたのに。
それが、どうして、こんなことになってしまったのでしょう。
女がふと、言葉を止める。さっと顔を上げ、前髪の陰に隠れては現れる瞳は、真鍮のように潤んでいる。けれど、少しして、その瞳からはその真鍮がそのまま落ちてしまったかのような、大きな雫が一筋。
ああ、すいません、続けますから、もう少し、わたくしの話にお付き合いくださいまし。ええ、海はどこまでも深く、どちらに泳いでも果てなどないようでした。ただ、あの人の胸の中に、わたくしはこの身をすべてを預けてしまっていたのですから。
「ああ、お前はなんと香しく、美しいのだ」
そんな甘い言葉を耳元で殿方は囁きましたわ。
「お前はただ一人だというのに、まるで四人を相手にしているかのようだ。八つの手に絡みつかれているようで、飽きることがない」
わたくしと殿方はちょうどこのような、垂水に隠れた洞穴の奥におりました。それがどれほど続いたことでしょう。百日と千日と、いいえ、それはありえないことですわ。殿方が動かなくなるのに、それほどのときなど必要ないでしょうから。
わずか一日のできごとでした。殿方はわたくしの腕の中で、その美しかった顔を過去のものとしてしまいました。すっかり痩せて、ああ、ああ、なんとわたくしの愚かなことなのでしょう。殿方の精すべてを奪ってしまうなんて。
逃げました。
我に帰ったその次にはわたくしは逃げておりました。ただただ、恐くて、何と言うことをしてしまったのだろうと。ええ、何も持たず、長く親しんだわたくしの寝床を捨てて。逃げました。
それからこの国が、ええ、戦乱の時代へと移り変わったと知ったのは、ここへ来てからのことです。わたくしは、ここに座り、見ていました。
殿方の失われた国は滅び、そちこちで、争いが起きるようになりました。わたくしは、なんと取り返しのつかないことをしてしまったのでしょう。
でも、きっと分かってくれるでしょう? 命を賭した甘い恋だったのですから。ただ、わたくしはこの身を捧げただけだったのに。
しばらく女は、声を立てることなく泣いていた。それが終わると、その口元が怪しく緩む。
作り話?
どうかしら、どう思おうが、それはわたくしにはせんなきこと。わたくしにとって、それがただ一度のことだったわ。
疑っているのでしょう。
だから、あなたはここに来たのですからね。わたくしにはあなたがここに来ることは分かっていましたわ。だって、見ていたのですから。
そんなに恐がらなくてもいいのよ、快楽は素敵なものよ。
冗談。
そんなつもりはないわ。わたくしは二度と、同じことを繰り返さないと誓ったのですから。わたくしはわたくしの身に危険が及ぶことがなければ、決して人を襲うことをしないわ。そんな誘いにものらない。あのような顔を二度と見たくないもの。
本当に、本当に。
それであなたには、わたくしがどう映っているかしら。
女に見える?
それとも蜘蛛に見える?
3
秋去り姫の機織の、かたんかたんと、律動的に。三瀬ほとりはその音に、その動きに瞳を逸らすことなく。
かたんかたんと、その音に、右手の左手の絡まるように流れるように。やがては布の形となり。
たんと眠りや、幼い子。
まだまだ眠りや、幼い子。
音になっていないが、機織に合わせるように、秋去り姫の口が動く。
日は高く、月は高く。
お前はただの眠り子の。
闇夜の申し子。
三瀬に流離う渡し舟にただ座り。
三瀬ほとりは立ち上がり、縁側に移った。庭には朔と玉が、互いの間合いを保ち、向かい合っている。
朔は僧のいでたちで、仁王に立ち、腕を組み。
玉は隠すことない九つ尾を逆立たせ、頭にも大きな耳が。
二人は三瀬ほとりに気がついたのか、同時に縁側を向く。それから玉が跳ねるように三瀬ほとりの側に駆け寄ってくる。
「ようやっと起きたな」
「玉よ、お前は強い。お前の妖気はこの世界にあっても際立つほどだ」
「そうさ。年季が違うよ、わたしは」
「うむ。お前には苦労をかけるな」
「そんなことないよ。ほとりちゃんのおかげで、わたしは今ここにあるんだし。だから、わたしたちは駒でいいんだよ」
「すまんな」
後ろで、朔は満足そうに頷く。
「それで、玉よ。お前が生きてきた中で、お前ほどに強い妖気を持ったものを他に知らないか?」
「わたしほどに? 妖気はないけど、朔は強いなぁ」
顎に手を当てて、玉は思い出す。
「けど、それなら一人おる。浄蓮の絡新婦だな」
「女郎蜘蛛、か」
「あれは一級品だ」
三瀬ほとりは、再び部屋に戻り、布団に入った。
4
浄蓮の周りから、次第に噂は広まっていった。そこに、男を喰う妖怪が棲む、と。それは、女の姿をしているが、実は違う。見るも気持ちの悪い斑の蜘蛛。それが、妖怪となり、男の精を吸うことで、もう何千年も生きている、と。
先帝の見るもおぞましい死に姿が、その滝壺の奥で発見された。先日まで生きていたとは思えないほどに、細く、枯れ果てた姿であった、と、噂される。
吉備手利尊は、その噂を調べるべく、今浄蓮の滝の近くに来ていた。背にはいくらかの矢を持ち、両手に大きな弓をすでに構え。
ひゅぅと息を吐き、その番えた矢をまっすぐに滝へと向ける。
ただ聞こえるのは瀑布となり、水がそれぞれに打ちかう音。そして少しはなれたところでなく、鳥の声。
そのすべての音を遮断するように、吉備は意識を高め、滝を睨む。
「止めておけ」
その忠告が彼の耳に届くのに、一時以上を必要としただろうか。滝から何者かが現れる気配もなく、意識を弱めたときに、ようやく彼は背後に気配を感じた。振り返りながら退くと、三人がそこにいる。
一人は白装束を着た少女の姿。黒い髪が姫のように眉の上で切りそろえられ、長い後ろ髪はわずかな風に揺れている。
一人は僧のようないでたちで、上半身には何も身にまとわずに、そのたくましい腕をしっかりと組んでいる。
一人は異国の大人の女性、金色に輝く髪が低くなり始めた日の光を照り返し、狐のような瞳でこちらを見ている。
「止めておけ」
中央に立つ、もっとも幼いと思われる少女が彼をまっすぐに見つめ、そう告げる。
「止めておけ? 俺が、何を?」
「言わずとも分かる。お前では手に負えぬ相手だ、命を粗末にするべきではない」
「では、あそこに妖怪がいるという噂を、お前も聞きつけたというわけだ。金のなる木、それを人に譲るほど俺は優しくない」
「あれは可愛そうな蜘蛛よ。されど、もしもあれの命を狙うというのであれば、お前を生かしておくほどあれは優しくない。それはお前が今言った優しさとは、まるで違う話」
「嬢ちゃんよ、命を粗末にするなとは、それはこちらが言うべき言葉ではないかな」
「試すか?」
そのときにはすでに、少女の左右にあった二人の姿はなく、彼はすでに後ろに回られていたことにも気づいておらず。弓の弦に矢を番えると、まっすぐに少女へと向ける。
「けしかけたのはそっちだ。あの世で後悔するんだな」
「残念だ。あの世など、存在しないのだよ」
びんと音が鳴り、矢がまっすぐに少女を貫く。いや、貫くほどの矢ではないにもかかわらず、矢は少女の背後にあった木に刺さる。
彼の両手を僧の男が、彼の武器を異国の女が抑える。そして正面からは、今射られたはずの少女が何事もなく、歩み寄ってくる。
「は、ははは、何の冗談だ。すでに妖怪にとらわれていたなんてな、この妖怪どもめ」
「それは正しい判断だ。だが、すべての妖怪が人間に仇なしているのではない」
少女は続ける。
「少なくとも、わたしは違う。それに、この二人も違うし、お前が今狙っている蜘蛛も違う。だからどうか、あの蜘蛛のことを忘れて欲しい。そうすれば、お前の命も助けてやるとも」
この状況で否定ができるはずもなく。ただ、彼は分かった、と頷く。けれど、戒めはとかれることなく。少女は目配せを二人に送ると、ただ一人滝壺へ、その身を投じる。
「お、おい、いいのかよ」
「心配ない」
僧の男がただ答える。
やがて少女は滝へと消える。
いい加減、抵抗をしないと何度も誓言を立て、ようやく吉備はその身を放たれた。けれど、その場からいなくなることはできず、二人の妖怪と一緒に滝の側に座る。
「お前ら、一体何なんだよ」
「俺の名は朔、そう呼ばれている」
「わたしは玉。そうねぇ、昔は名の知られた妖怪だったけど、今はどうかしら」
「どうちらも知らない名だな」
「俺は妖怪ではない。元は人間だ。それはお嬢さまも同じこと。本当の妖怪は玉だけだ」
「失礼ねぇ。ああ、だけど心配しないで。わたしは少なくとも人間の敵ではないから」
「へえへえ、それは、すごいことだ」
「信じる、信じぬは勝手だ」
「信じろと言われてもね」
「この耳が見えるかしら」
玉と名乗った女の、金色に輝く髪の間から、ぴょんと狐のような耳が跳ねる。
「これが証拠になるなら、だけど」
「ほら、戻ってきたぞ」
朔の言葉に、滝を見ると、そこから先ほどの少女が濡れた白装束そのままに歩いてくる。その後ろには、大人の、えもいわれぬ程魅力てきな女が続いている。
「あれが、妖怪?」
「絡新婦」
ゆっくりと少女は彼らの元に歩み寄り、そして彼だけをただ見つめて言う。
「いきなさい」
その声に逆らえるはずもなく、彼はその場を後にした。
5
みとせ、ふたとせ、ひととせと、ゆるり数えてなんとせか。花の弁を浮かべては、ゆるりゆるりと放れゆく。
小船に黒く渡し守、闇夜に伸びた八角の樫の木を河につきさして、ゆるりゆるりと揺れている。
綾衣薄衣美しく、花を手折る指の細く、黒の髪は闇に溶け、まだいとけない口元の、ぽそりぽそりと音の鳴る。
すらと伸びたまつげの下に、赤と青の交じりたる瞳は細く閉じられて、もちのように膨れたる頬は桃に色づいて。
少女は何を謡っている。
何を謡って、泣いている。
儚い少女の座り姿に、渡し守、自然と涙が浮かびきて、耳を澄ませば小さな声で、少女が繰り返し、音を吐く。
いきなさい、
いきなさい。
河の真中に揺れている小舟の姿儚くて、月隠の暗き闇夜には、離れた岸辺に見えるものなし。
いきなさい、
いきなさい。
少女の目には、赤と青の涙、涙。