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月隠の詩  作者: なつ
7/13

第陸話 衣通


  1


 白装束の袖の先にはさらに白く、月隠の夜の光にはまぶしいほどに、細く、細く。少し力をこめてしまえばすぐにでも、音を立てて折れてしまいそうな。

 腕の先にはちょんと、小さな手のひら。

 ほんの先は真闇。

 それでも三瀬の水面には、細い手が重なるように。

 さっと触れれば、わずかに揺れる。

 さっとあげれば、指先から静かに弾かれた水滴が、腕を伝い、袖の中へと。

 艶やかに。

 艶やかに。

 白と浮かぶ装束の、闇に溶ける黒髪が、渡し舟に合わせるようにゆらゆらと。そろえた前髪の下には大きな、けれども空ろな瞳が。

 赤と。

 青。

 色を孕んだ揺らめく炎の、瞳の奥でめらめらと。

 ちょんと付いた鼻の下にはまだ稚い、自然の紅に色づいた唇がそっと閉じられ、開かれ。同じ音を紡ぎ続ける。

「いきなさい、いきなさい」

 何百と、何千と、何万と。

 繰り返し、繰り返し。

 月隠の夜。

 渡し守、ただ、変わることなく。

 ゆらゆらゆらゆら、

 ゆらゆらと。



  2


 かつての美しさはすでに失われていたが、それでも背中を伸ばし座している姿には女の、決して時に負けぬという決意の表れであろうか、その姿を見て醜いと感じるものはいないであろう。

 三瀬ほとりは、彼女の背後に音を立てることなく立っていた。

「そこにあるのは誰か?」

 まだ枯れることのない女の声は、その瞬間を逃すことなく声を発する。けれど、ほとりはそれが自分に向けられて発せられたものとは信じられなかった。否、そんなはずはない。もちろん、いずれはその時が来ることは分かっていたが、まだその時ではない。まだほとりの存在を感じられるはずがないのだ。

「なぜ答えぬのです?」

 私が分かるのか?

 部屋には他に誰もない。夕闇の落ち、あるのは高くに昇っている月の柔らかい光だけ。わずかに遠く、庭でなく虫たちの音。近くの部屋にさえ、ほとりは誰もいないことを知っている。

「名も名乗れぬほど、低いものなのか? 私にはそうと思えぬが」

「私が分かるのか?」

「分かるとは、妙な言い方をする。それほどの殺気と、悲しみとを合わせて立っていて、これでも私はかつて、多くの戦場を渡ってきたのだぞ。その力は決して衰えることない」

「声も聞こえるのか。だが、私の姿を見つけることができるか?」

 女は声高くして笑う。

「何が可笑しい?」

「見つける必要などない。現に、お前は私の後ろにいる。それがすべてだ」

 かつて、戦場を蝶のように舞ったその女の、するどい瞳は今閉じられている。その上、後ろに立っているというのに、ほとりはすべてを見透かされているような恐怖を覚えた。何度のなく人の死に立会い、その先に何もない空しさを伝えてきた。もはや、恐怖などという感情は失われたと思っていたのに。

「お嬢様」

 朔が気がついたのか、ほとりの後ろに現れる。

「よい、大丈夫だ」

「あら、また新しい人が来たね」

「この女、本当に俺たちのことが分かるのか?」

「二人かしら。一人は人ではないようだけど」

「分かるから、私たちのことを正確に言い当てることができるのだろう。玉、朔、お前たちは先に戻れ」

「しかし、お嬢さま」

「ほとりちゃん」

「案ずるな。まだ時ではないとはいえ、私にはやらねばならないことがある。遅かれ早かれ、伝えねばならないこと。苦しむ時間が長いか、短いか」

 ほとりの後ろにあった朔と玉は、それ以上言葉を発することなく、再び闇に消える。残されたほとりは、恐怖を押し殺すように、まだ座ったままの女を見た。

「ほとり、というのね。真名ではないのでしょう?」

「恐ろしい女だ」

「恐ろしい? 私が? もう私にそんな力はないわ」

「いいえ、恐ろしい。お前はかつてよりも、はるかに恐ろしい力を持っている」

「そうかしら。私にはかつての、養母の仇を討ったときのほうが、恐ろしいと思うけど」

「あの時も私はいた。だが、お前は気がつかなかった。そうだろう、気がつくはずがない。その月が隠れるただひと時まで、私の存在はこの世にないのだから」

「もしかして、あの時私を助けてくれたのは、あなたなの?」

「私が? 誰かを助けるなんてことするはずがなかろう。私はただ一言を発するだけ。選ぶのはお前。それに、その一言を私はまだ発していない」

 女は一度俯くと、再び顔を上げ背中をまっすぐほとりに向ける。

「いいえ。あなたは私を助けてくれた」

「そう思うなら、そう思っておけばいい」

「どう考えても、あの時私が生き残るはずがなかった。浜田との一騎打ちに、私が勝つ? ありえない話だわ」

「お前は強かった」

「今考えても恐ろしい」

「お前の中に恐怖はなかった」

「ええ、本当に、あの頃の私にそんな感情はなかった。あなたみたいに。あなたの真名は何と言うの?」

「なぜお前に教えなければならないのだ」

「いいじゃない。私とあなたの秘密よ。それに私はもう長くない」

「死に急ぐような口ぶりだな」

「私には分かる。私は殺される」

「そんなことはない。お前の命はまだ先がある。私はそれを今日確認に来たのだ」

「いいえ。私は殺される。あなたが、何者なのか、そんなことはどうでもいい。けれど、私はあなたのようなものに殺される。私には分かる」

「そんなことは、ない」

「だから、私にあなたの真名を教えて」

「それが理由か? 理由になっていないぞ」

「いいえ。私があなたの存在を感じられることに、あなたは疑問を抱いているはず。私には分かる」

「なぜだ」

 ほとりの白い装束が、闇の中で大きく揺れる。

「あなたが真名を教えてくれたら、私も教えるわ」

「かつて、私は衣通郎女そとほしのいらつめと呼ばれていた」

 ほとりがその名を発した刹那のこと。

 目の前に座していた女の胸に、異物が発生する。ほとりは背後に立っていたため、すぐにそれに気がつかなかった。

「さあ、なぜお前は知っているのだ」

 だが、すでにそのとき、女の息はなかった。ほとりの目が、ようやく女の、胸と背中を貫いた矢の存在に気がつく。

「朔、玉!」

 叫びながら、ほとりは女の前に回った。目を瞑ったままの、息のない女の口が動く。

「そう、あなた、が……」

「しゃべるなっ」

「ほら、私は、殺されたでしょう? 私、はもう死んで、いる、だから、あなたの、顔も分かるわ」

「お前はまだ死ぬべきではない」

「いいえ、あなたの、能力は万能、ではない、だけ。私は殺された。それがすべてよ」

 躯から離れた女の手が、ほとりの頬を伝う涙に触れた。

「ありが、とう、私のために、泣いてくれている、のね。私は、あなたの川で、彷徨うことはないわ。安心して」

 やがて、女からすべてが失われた。残されたのは、人には見えぬ矢に貫かれた女の、座したまま果てた姿だけだ。

「お嬢様」

「誰がしわざだ」

「わかりません」

「玉、お前の同類か?」

「おそらく、そうだろうね。だけど、私や朔の目を盗んで矢を放った。跋扈する低俗な妖怪じゃあないね」

「まったく、お前たちにも正体が知れぬというのか」

「申し訳ないです、お嬢さま」

「分かった。帰るぞ」

 ほとりは唇を噛み、もう一度女の顔を見てから、その場から消えた。



  3


 なつくさの

 あひねのはまの

 かきかひに

 足ふますな

 あかしてとほれ

  (古事記 人代篇 その8より)


 いつもであれば眠っているだろう時に、三瀬ほとりは縁側に座り、かつて自らが詠んだ歌を思い出す。もう長く、自らの罪のためにここに来て、忘れようと心に誓っていたにもかかわらず、忘れることなどできるはずもなく。

 その歌を詠んですぐに、ほとりはここにいた。

 彼女の後ろで今機を織っている秋去り姫に連れてこられた。おそらくは、ほとりの、自ら絶とうとした命を、ただ見捨てることができずに。

 秋去り姫の感情のない、まるで、そう、機のような声を聞いたのは、後にも先にもそのときだけだ。

「いきなさい」

 そのときほとりは、答えることができなかった。逝くこともできず、だからと言って生きることもできず。

 秋去り姫はそれから、優しい声でほとりに語りかける。

「もしもあなたが、あなたの犯した罪を贖いたいなら、私の役目をあげるわ。そうすれば、いつかあなたの罪は許される」

「罪が、許される?」

「三瀬の河をご存知?」

「三途の川のことか」

「ええ、そう知られているわね。人の死後に渡るという。でもね、渡った先に何もないの。それでも、渡らないといけない。多くは、渡っていくわ」

 機を織りながら秋去り姫は、でも、と続ける。

「ときどき、その河で彷徨うものがいる。その生と死を導き続けるの。ただ、一言を告げるだけで」

「いきなさい」

 答える代わりに、秋去り姫は機を鳴らす。

「そうすれば、許される?」

 かたんかたんと、音がなる。

「分かった」

 それが、どれほどの業と悲しみを伴うことか、ほとりが知る由などなかった。


 (夏草の茂る阿比泥の浜の貝殻の欠片で、足など怪我をなさらないように、どうか夜が明けてるまで、行かないで下さい)


  4


 戦場にあってその舞は、まるで蝶が花から花へと移るように。幾百と囲われた敵兵に恐れをなすこともなく。名刀浪切を、寸分の狂いなく、描かれるのはあるいは6文字の、8文字の、あるいは1線のごとく。

 赤の陣羽織が、戦場に燦然と輝く。

 戦況は、彼女の登場によって一変した。

 甲斐姫、忍城が城主成田氏長の長女にして、このときまだ若干十九の若さであった。

 対するは石田三成、浅野長政らの救援を受けての大攻勢、忍城を捻りつぶすには、充分な戦力があった。にもかかわらず、彼らは忍城を落とすことができなかった。甲斐姫の、舞うような刀さばきに、誰も彼女を討つことができなかったのだ。

 が、不幸にも、成田氏長が小田原城に降伏し、甲斐姫は主を失い、忍城を開けるより他、どうすることもできなかった。それでも甲斐姫の赤の陣羽織、美しい甲冑を身に纏っての退去の大行列は、石田三成をして、堂々たるものと言わしめるものであった。

 甲斐姫はその後、福井の城を守ることとなる。

 だが、手勢が足りぬと得た浜田の兄弟の謀反により、すべてを失ってしまう。甲斐姫の育ての親である成田夫人も、浜田らにより殺されてしまう。

「許さぬ!」

 憤怒がごとき甲斐姫の、だが手勢に無勢。福井の城を側近らと共に去る。浜田弟は追っ手を出すが、それこそが一層のこと、甲斐姫の怒りを買うことに。

 その姿のなんと恐ろしいことか。まるで憑き物にでも憑かれたようだと、甲斐姫自身でさえも思うほどに。

 彼女の舞は、それが故に一層美しく。

 6文字、8文字と繰り出される刃のまるで闇夜に浮かぶ蝶のように、美しく、狂うことなく、やがてその刃は浜田弟の首も臆することなく刈ってゆく。

 追っ手を逃れ、成田氏長と合流した甲斐姫は、再び福井城を奪い返さんと、共に合戦へと立つ。

 長き戦いの末、甲斐姫は養母の仇である浜田兄を見つける。

「我は甲斐の姫、我と潔く勝負せよ」

 浜田兄はその一騎打ちを受ける。

 甲斐姫と浜田兄、いくら彼女でも一騎打ちで軽く勝てる相手ではない。それは両者の過去の戦いを見ていた三瀬ほとりであればこそ、分かることでもある。けれど、ほとりはそこにあって、彼女を助けることをしない。そんな必要などないことなど、彼女の命数を見れば分かるのだ。

 案の定、甲斐姫は見事浜田兄の腕を切り落とすと、生け捕りにしてみせた。

 これがきっかけで、甲斐姫は秀吉の側室に入ることになった。


 ほとりは、このとき確かに、甲斐姫の助けをしなかった。


 あるいはあの矢のように、ほとりにさえも分からぬ存在が、甲斐姫を助けていたのだろうか。

 否、

 否?

 否。

 否定を、したいだけ。

 そんなことができるのは、一人しか知らない。ほとりよりも長く、この業を行っている、あの人だけだ。

 かつては秋去り姫と呼ばれていた。

 否、

 否。


 なぜ?

 とうに失われたと思っていた、疑問の念がほとりに浮かぶ。



  5


  みとせ、ふたとせ、ひととせと、ゆるり数えてなんとせか。花の弁を浮かべては、ゆるりゆるりと放れゆく。

 小船に黒く渡し守、闇夜に伸びた八角の樫の木を河につきさして、ゆるりゆるりと揺れている。

 綾衣薄衣美しく、花を手折る指の細く、黒の髪は闇に溶け、まだいとけない口元の、ぽそりぽそりと音の鳴る。

 すらと伸びたまつげの下に、赤と青の交じりたる瞳は細く閉じられて、もちのように膨れたる頬は桃に色づいて。

 少女は何を謡っている。

 何を謡って、泣いている。

 儚い少女の座り姿に、渡し守、自然と涙が浮かびきて、耳を澄ませば小さな声で、少女が繰り返し、音を吐く。

 いきなさい、

 いきなさい。

 河の真中に揺れている小舟の姿儚くて、月隠の暗き闇夜には、離れた岸辺に見えるものなし。

 いきなさい、

 いきなさい。

 少女の目には、赤と青の涙、涙。



  (「口語訳古事記完全版」文藝春秋刊から歌・訳を引用しています)


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