断章 人外
1
「……あれは、寝ているのか?」
軒先の庭園の中央に立ち、玉は部屋の中を指差した。本来あるべきところに耳はなく、代わりに狐のような耳が髪に逆らうように立っている。南天に差し掛かった太陽の光が、金色の髪を風とともになびかせる。ぴんと逆立つように、玉のお尻からは九つの大きな尻尾が立ち上がっている。
「見れば分かるだろう」
朔は腕を組みそう答える。修行僧のいでたちで、錫杖こそ持っていないもののよく鍛えられた肉はそれだけ一層朔を大きく見せている。
部屋の隅には機織があり、秋去り姫とかつて呼ばれていた老女がその前に座りかたんかたんと、機を織り続けている。そこからさらに奥に敷かれた布団の上に少女が一人。暑いのか、掛け布団を四方に蹴り、あろうことが白い下着が玉の位置からもはっきりと見えている。わずかな会話の間にも少女は寝返りを打ち、さらに布団は乱れてゆく。
「いやいや、寝ているのは分かっているよ。あれはどう見ても寝ている。だけど、寝ていていいのか?」
「お嬢さまが仕事に出かけるのは月に一度、晦日の夜だけだ。それも、年に一度は休みとなるのだが」
「私は自分の罪を償うためにこうしてここにいるというのに、これでは何だか全く無駄ではないか」
「まあ月に一度といっても、それは現世での話。ここではどれだけ時間経とうとも、一日として過ぎたことにならぬ。それに、お嬢さまが行く先は、どの時代ともまだ決まっておらぬ。お前があせることではない」
「お前、お前だと? この九尾の狐を捕まえてお前とはいい度胸をしているな」
「俺にはお前が妖怪だろうと、どうでもいいことだ。お嬢さまがお前を必要とした、それなら俺はお前を仲間だと思っている」
「そうか、それは頼もしいことだ。それで、お前はどんな妖怪なのだ?」
「俺が妖怪に見えるか?」
「そうだな、見たところ人間と変わらないように思えるが」
「俺は元人間だ」
「ほぉ、ほぉ、そうなのか」
ぴくぴくと玉の耳が動く。
「お前は根が素直なようだ。それでも俺はお前よりも強いぞ。お嬢さまとこれまでさまざまな地に出かけているからな。下手な妖怪よりも妖気がある」
「確かに、お前からは強い妖気を感じるが、それはまあまた今度にしてやる」
とことこと歩きながら、玉は朔の周りを一週進む。それからぱたと立ち止まると、朔を見上げ、首を捻る。
「それにしても私は暇なのだ。こうもやることがないというのはつまらないことだ。そこでだ、お前、お前はどうしてほとりちゃんに付き従っているのだ?」
一瞬朔の顔が怪訝に曇る。いや、怒っているのか?
「ほとりお嬢さまに、俺が付き従うのには、一言では言いがたいものなのだが」
「仲間だろう?」
「そうだ。お嬢さまがお前を認めたのだからな、お前には、いや、むしろ話しておいたほうがいいだろう。だが、聞けばお前は、俺のことを仲間と思わぬかもしれぬ」
「どうだろうな」
「だが、聞け」
朔はゆっくりと歩き出す。玉はそれの後ろから着いてゆく。
かたりかたりと、秋去り姫の機織が庭に響いている。
2
渡し守、小さな舟をゆらゆらと。
えっく、えっくと繰り返す、少女の嗚咽は止まることなく。
舟の縁にしがみつき、少女の涙は暗き川面に。
白き織物に黒い髪、か細い吐息に赤と青。
いきなさい、いきなさい。
いきなさい、いきなさい、いきなさい。
いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい、いきなさい。
狂うほどに繰り返し。
少女の涙は止まることなく。
されどいつしか、渡し守、舟に誰も居らぬと気がつく。
風に消えるように、
三瀬の河にただ一隻。
月が隠れる夜のこと、
繰り返し少女は現れ、消える。
3
大山朔次郎の大きな手が、首元を、強く強く締め上げる。その意志の強く、両の親指は深く首の真ん中を押さえつける。声をあげることさえもできず、いつしか傀儡のように、力の抜け、動かなくなったそれを大山朔次郎は担ぎ上げると、流れの激しい川へと投げ捨てる。その先は滝となり、すぐにそれは消えてしまう。
何度も繰り返してきた儀式。
「愚かね」
朔次郎は後ろから聞こえた少女の声に驚き振り返る。年のころは十と少し数えたほどであろうか。丁寧に揃えられた前髪が、川上からの風に微かに揺れている。
「ああ、残念だ、残念だ。お前も、こんなところにいなければ、これから先まだ長い人生を謳歌できたものを。この俺の、しかも見てはならない場面に遭遇してしまうなんざ。だがな、お前はもしかしたら最高に幸せ者になれるかもしれないぜ」
「もう一度言うわ。愚かね」
「ああ、残念だ」
ゆらりと朔次郎は少女に近づいた。けれど、少女は動じることなくまっすぐ朔次郎の目を見つめる。
「へぇへぇ、よく見れば上玉なんじゃないか?」
珠のような肌に、すらと細い線。白い着物の胸元からはわずかに膨らんだ胸の陰も見えている。その肌も白く、穢れを知らない。
「お前はすぐに自らの愚かさを悔いねばならない。私がただ一言告げるだけで、お前の存在は露と消えるのだから」
「ほぅ? それは脅迫か?」
「その通り、脅迫よ」
声に出して高く笑うと、朔次郎の大きな手が少女の首を捕らえる。片方の手で、苦もなく少女を持ち上げる。それでも、少女は動じることなく。ただ朔次郎の目を見据える。その瞳の奥に、赤と青の揺らめきが、朔次郎の眼にも映る。
「……」
少女は口を動かすが、それは声にならない。
「気丈だな。恐くないのか?」
「……」
「なあに、あとほんの少しさ。まずは苦しくなって、それからは高揚感がお前を襲うだろうよ。そしたら、あの川に返してやらぁ。滝と一緒にさよならだ」
「……ょ」
朔次郎の手の力が強くなる。少女はけれど、抗うことなく。その足は地面からわずかに浮かんだところに静止し。
やがて時は、長く、一巡し。それでも少女の瞳は閉じられることなく、ただ、朔次郎まっすぐにとらえ。やがてその左の目からは一粒の、大きな涙が頬を伝う。その刹那に、朔次郎の手は放たれた。少女はしりもちをつく。
「お前、何なんだ。ありえないぞ」
「お前は可愛そうな男だ。愚かだと評したのを心から詫びる」
少女は首を押さえながら立ち上がる。
「人外か」
「……っ」
「はぁん、図星か。この俺に何の用だ。少なくとも俺はお前らには用はねぇ、糞食らえってんだ。お前らのせいで、俺はすべてを失ったんだ」
「ええ、知っているわ。お前たちの理を乱したのは私。それでも、私には為さねばならないことがあると思っていた」
「お前らがいなければ、俺は、今頃はそれなりの身分で、結構な生活を満喫していただろうに。それを、すべて奪いやがって」
「私がなければ、あるいはそうなっていたかもしれない」
「そうさ。でなければ、俺はこんなところで、殺しの仕事なんてしていられない」
「私はお前を消すためにここに来た。けれど、それは無理なようね」
「それこそ、糞食らえ、だ」
朔次郎の手がたくみに動き、少女の体から着物を剥ぎ取る。そのまま着物を地面に投げ捨てると、再び朔次郎はその手で少女の首をつかんだ。
「何度殺しても、殺し足りない」
「お前、私を抱きたいの?」
「はん、冗談じゃない」
「私は構わないよ。どうせ、私の体には何の意味も残されてない。感情も無ければ、痛みもない。お前に許してもらえるなら、私はこの体くらい何度でも差し出す」
朔次郎が少し力をこめると、少女はそのまま後ろに倒れこんだ。そのまま、朔次郎は少女のちょうどお腹に体を乗せる。その線は細く、とても朔次郎を支えるほどの弾力がない。朔次郎は、残された腕を振り上げると、少女の顔めがけて振り下ろす。
わずかに逸れた腕は、少女の右耳を掠めるようにして地面をえぐる。朔次郎はそのまま、少女の唇を奪った。
数度舌を絡めたあと、朔次郎は口を離すと少女の目を見る。
初めと何も変わっていない。赤と青が黒のそこに交じるその瞳はまっすぐ朔次郎を見つめている。
「あああ、ああ」
朔次郎は立ち上がると、川めがけて突進した。
「待ちなさい!」
今までになく強い声が少女から発せられる。無視しようと思うが、意に反し朔次郎の体は動かない。
「私は三瀬ほとり。朔次郎よ。もしもお前が贖いたいというなら、私について来い」
「贖う?」
「いつになるか分からない。それでも、私の罪よりも早く、お前の罪は許される」
「……分かった」
「今このときより、お前は朔」
「朔」
「私と同じ、人外の、お前が望めば、私を殺せる存在となった」
朔はゆっくりと振り返る。ほとりは落ちていた着物をすでに半ば身にくるませていたところだ。朔が望めば、無防備な今の少女を殺すのはたやすい。けれど、もはやそんな気分ではない。動くことなくほとりを待つと、最後にほとりは、着物から髪をさっと持ち上げる。
ゆるやかな風に、ほとりの黒髪が光る。
4
みとせ、ふたとせ、ひととせと、ゆるり数えてなんとせか。花の弁を浮かべては、ゆるりゆるりと放れゆく。
小船に黒く渡し守、闇夜に伸びた八角の樫の木を河につきさして、ゆるりゆるりと揺れている。
綾衣薄衣美しく、花を手折る指の細く、黒の髪は闇に溶け、まだいとけない口元の、ぽそりぽそりと音の鳴る。
すらと伸びたまつげの下に、赤と青の交じりたる瞳は細く閉じられて、もちのように膨れたる頬は桃に色づいて。
少女は何を謡っている。
何を謡って、泣いている。
儚い少女の座り姿に、渡し守、自然と涙が浮かびきて、耳を澄ませば小さな声で、少女が繰り返し、音を吐く。
いきなさい、
いきなさい。
河の真中に揺れている小舟の姿儚くて、月隠の暗き闇夜には、離れた岸辺に見えるものなし。
いきなさい、
いきなさい。
少女の目には、赤と青の涙、涙。
5
珠は、怒り出すどころかお腹を抱えて笑い出す。それも、尋常じゃないほどの笑い方だ。庭園の地面の上を転がりだし、九つの尻尾がくるくると回る。
「そんなに、おかしな話だったか?」
「そういうのを傑作というんだよ、まるで毒気を抜かれた。お前は確かに人間だ。それもどうしようもない類のな」
朔は剃った頭を軽く掻く。
「だが、ほとりちゃんも酔狂だよな。その状況でお前を連れるなんて」
「お嬢様が望んだことだ。俺が決めることではない」
「そうか? もしあのとき、ほとりちゃんが呼び止めなかったら、お前は入水してただろう。違うな。ほとりちゃんが決めたんじゃない。お前が決めさせたんだ」
「……」
「もしかして、お前今までそう考えたことがなかったのな? だから傑作なんだ」
「お前だって、そうだろう。お嬢様がいなければ、今頃死んでいた」
「そうだろうな」
ようやく珠は立ち上がると、まだ笑った表情のまま、朔の前に立つ。耳をぴくぴくと動かし、朔を見上げる。体格もしっかりしているし、力もある。ほとりが求めるのも分からなくない。そういう意味では、珠が救われたのも同じ理由なのだろう。たとえそれが理由であったとしても、珠は感謝している。そして、同じ気持ちで、朔もほとりに感謝しているのだろう。
「だが安心しろ。私はお前を仲間だと思うよ。むしろ同じ穴に住んでる気持ちだ」
「そう言ってもらえると、俺も助かる」
「二人とも」
軒下の日が隠れたところに、いつの間にか三瀬ほとりが立っている。まだ寝具を身にまとったままで、髪もひどく乱れている。
「これは、お嬢様」
「ほとりちゃん、おはよう。あらら、いつから起きてたの?」
「私が朔と出会った頃の話をしていた頃だ」
「それって最初じゃない」
「懐かしくてな、ついずっと聞いていてしまった」
ばつが悪そうに、朔は再び頭を掻く。
「だが、二人に言っておくが、私がお前たちを選んだのは、お前たちが強いからではない。確かに、お前たちがそばにいると私も心強い。人間には私を殺せぬが、それでも、私を殺そうとするものが雇う物の怪もあるからな。だが、強いてあげるなら、気に入ったからだ。例え遠回りになるのだとしても、だ」
「お嬢様」
「ほとりちゃん」
「それに、お前たちの罪を贖うなど、わずかな時で叶えられるものだ」
「私はその果てまでお供します」
「朔よ、お前の罪はもうすべて償われた」
「それでも、お供します」
「それじゃあ私も」
「その必要はない」
「もぅ、ひどいなぁ」
珠は頬を膨らませると、たたたとほとりの前に駆け寄る。
「そういうときは、ありがとう、と答えるものよ」
「珠、お前が一番人間らしいな」
「もうもう、ひどいなぁ」
「ありがとう」
三瀬ほとりの口元が、柔らかく緩んでいく。