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月隠の詩  作者: なつ
5/13

第伍話 殺生

  1


 水面に映るは三瀬ほとりの、青く白く空ろな顔の。月の隠れた夜に残されたわずかな光はともし火の。ゆらりゆらりと舞い落ちて。

 そっと触れてはひとひらを、わずかに揺れる水面に浮かべ。広がる波紋も静かに、静かに。三瀬ほとりの顔を、静かに歪める。

 ひたと落ちるはひとしずく。三瀬ほとりの瞳から。赤と青に彩られ、広がる波紋も静かに、静かに。

 いきなさい、

 いきなさい。

 三瀬ほとりの、顔の真中に小さな口が、ぽそと謡うはその音ばかり。

 生きて償う罪は多く、たとえすべてを賭したとしても、果たしていつに終わろうか。

 逝きて償う罪はなく、それは罪に罪を重ねるがごとく。

 この果ての果ての、いや果てまでも、と。

 三瀬ほとりは、ひとしずく。

 涙に重なる白き息。

「お嬢様」

 渡し守の漕ぐ小さな船に、三瀬ほとりの真横に立つは僧のいでたちの。

「朔よ、お前には苦労をかけるな」

「そのような言葉を、どうかご自分に与えて下さいませ。この身はとうにお嬢様のためにあると心得ております」

「お前の罪はとうに許された。もう私になど付き従うことなど必要ないのだぞ」

「いいえ、手前の罪は、お嬢様の務めが終わるその先にまで続くものです」

「私が許すと言っておるのだ」

「手前が付いて行くと言っているのです」

「物好きな坊主だな、朔は」

「次は平安の時代のことのようです」

「私がそこに行ったとして、どれほどの価値があるというのか」

「どうかそのようなことを思わなくなることを」

「行くぞ」

「ただいま」

 黒く染まりたる闇夜の渡し舟。残るはただ渡し守だけの。それでも変わることなくゆるゆると、三瀬の河をいずこへ、いずこへ。



  2


「ああ、こんなにも強くわたくしを求めてくれたことを、わたくしはどれだけの思いをこめてお返しすればよいのでしょう。あなた様は、それでもわたくしのことを愛して下さいました。この先にどのような災いが起きようとも、あなた様はわたくしのことを今宵、愛して下さいました。わたくしのこのあなた様に報いる思いを、わたくしはどのように表したらよいのでしょうか。どうか願わくば、これから起きるであろう災いなど、すべて鍋にくべてしまいたい」

「わたしはお前のことを軽い気持ちで愛したのではない。喩えこの先に、どれだけの災いが二人の間に起きようとも、わたしのこの言葉と、今宵お前と互いに愛し合ったことをどうか忘れないでくれ。わたしは何の悔いもなく、お前にもまた禍根を残して欲しいとは思わぬのだ」

「ああ、わたくしのようないと貧しきものにそのような言葉を与えて下さいまして、何と何とお言葉を返すことができましょう」

「言葉などなくとも、わたしはお前のことを生涯愛してやるとも」

「ああ、ああ」

 光のない部屋に、微かに東からの朝日がかかり始める。女はその光を感じると、ビクンと体を震わせて、立ち上がる。

「ああ、見ないでください。わたくしの、この醜い姿をどうか、どうか見ないでくださいまし」

 光に反応するように、女の体が青白く光る。

 姿は人の容なれど、似て非なるもの。その、あまりに美しい様をこの暗い部屋の中にあって見ないことなどできようはずもなく。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 女は、体を翻すと、青白い光を放ったまま部屋を開け廊下へと出て行ってしまう。追うことなどできるはずもなく、男は、その残り光をただ眺めるだけで。

「後悔など、するはずがない」

 男は小さく、自らに言い聞かせるように声を出す。


 自らにあてがわれた部屋へと駆け込むと、女は、織物を体に被った。見られてはいけないと、分かっているから。自分が、人と相成れぬ存在であり、その姿を見られてしまえば、自分などこの世から消されてしまうだろうに。

 まだ仄かに光る体を隠すように、女は姿見を見る。

 青白い顔の先に、黄金に輝く髪と、人とは違う大きな耳がある。狐のそれだ。今は織物に隠れているが、お尻にも、狐が持つ尾を持つ。それも九つも。白面金毛九尾の狐と、遥か昔にそう呼ばれたときもあった。人に仇なす妖怪の名だ。人里を離れて長く一人であったというのに、どうしてこのようなことになってしまったのだろうか。

 けれども昨夜の鳥羽上皇との交わりを、体が避けることを許してくれなかった。もう二度とと思っていたはずなのに、あの人は、交わってくれた。そして後悔などしない、と。

 後悔など、しない、と。

「何を泣いている」

 一人と思っていた部屋にあった女は驚き顔を上げた。けれど、正面にある鏡には何も映っていない。

「玉藻前よ、お前が泣くなどという姿を見せるとは」

「誰?」

「お前と同じで人ではないもの。お前の後ろに立っている。恐れる必要はない」

「知らない。人ではないものなんて、そんなのいらない」

「お前のその青白い光と、体の容が人ではないと物語っている。お前は、あと少しすれば、その姿を隠すことさえできなくなっていたであろう。そうなれば、人によりお前は殺される。お前はそうなりたくなかった。だから鳥羽上皇を利用したのだ」

「違う」

「違う?」

「わたしは、鳥羽上皇を愛しています。心のそこから、あの人と一つになりたいと」

「心ではない。お前は体が求めたのに応じただけだ」

「違う、違う!」

「お前は鳥羽上皇から精気を吸出し、そうして青白く光っている」

「これは、わたしにはどうすることもできないことだもの」

「なら、交わらなければよかったのだ。体が繋がらなくとも、鳥羽上皇を愛することはできたはずだ」

「あの人は、わたしが人ではないと告白しても、それでも、わたしを愛してくれると」

「愚かなことだ」

「お願い、やめて」

「だが、お前の愚かさは嫌いではない。お前はいずれ、生きるか死ぬかの際に立たされるだろう。生きることは、鳥羽上皇にとって不幸であり、死ぬことは、鳥羽上皇にとってやはり不幸となる。どちらを選ぼうとも結果は変わらぬ。それならば、お前が逝くも生くも、変わりはせぬ。お前が悔いることのない道を選べ」

「お嬢様!」

「案ずるな、朔。最期を見るのが私の役目。それは変わらぬよ」

 玉藻前は、その場で体を翻した。だが、そこには誰も居ない。確かに、今まであったはずだが、何もない。人ではないものが、警告か、忠告に来てくれた、生きることも、死ぬことも、どちらも鳥羽上皇のためにならない、と。ならば、自らが悔いることがないように、わたしは、どうすればよいのだろうか。



  3


 緩やかに吹く風に、庭に生えた大きな木の枝から一枚の葉がひらりひらりと舞い落ちる。風にゆられて、その葉は軒先へと、三瀬ほとりの視界をさらう。

 三瀬ほとりは、部屋の片隅に敷かれた布団に寝転び、その行く末をしかと見つめる。

 果たして、どれほどの月日をこうして過ごしてきたのだろうか。

 数えることなどとうに尽きたはずだというのに、それでもいつしか数え数えている。

「ねえ、ばあや」

 顔を動かすことなく、同じ部屋の隅に座る老齢の女性に声をかける。

「次の月隠りは、どうか起こさないでおいてね」

「おやまあ、この子は、どうしたんだい?」

 機織の手を止めて、老女はゆっくり振り返る。歳を経てはいるが、その顔にはまだ芯の強さが残っている。

「ばあや、次はだって、あの月ですもの。わたしは起きてはいけないのです」

「ああ、ああ、もうそんな月なのね、早いものですわぁ、ほんに」

「朔はまだ気に病んでいるようですし、あの人にも、私早く幸せを手に入れてもらいたいもの」

「ほんに、ほんに、朔はとてもよい方じゃ。ここにあってはならぬほどに、元は高貴な方だからのう」

「それはばあやもでしょう?」

「それはお嬢様もそうでございましたね」

 再び老女は機織を続ける。

 秋さり姫の機織は、竪琴を奏でる女神のように、かたんかたんと、止まることなく、それ自体が美しく。

 ゆる吹く風に誘われて、再び一枚舞い落ちる。

「そうね、朔のこともそうですが、あの人もいつかは」

「いつかは、そうね、そうすれば、私の眠りも妨げられることはなくなるのかしら」

「ええ、ええ、それが幸せでございましょう」

「それでも、罪は罪」

「その罪もまた、許されましょう」

 自らが悔いることのない道を、

 三瀬ほとりの、赤く青い瞳に浮かんで消える、羽衣の、右に左に揺れている。



  4


 八万を超える大軍が那須野にあった。

 できるならば、この戦いを避けたいものであるが、それは行かぬと、目の前の兵士らの目が言っている。

「人ならぬものを、生かしておいてはならぬ」

「すべての凶は上皇の精を吸い出した、妖怪九尾の狐にある」

「玉藻前と名乗り、上皇をたぶらかし、世を転覆させようとした、悪」

 言われもないものばかりだ。

 どうしても、もう一度だけ、直接鳥羽上皇に会いたい。会って、確かめたい。その思いだけが、玉藻前の体を動かす。

 幾万と繰り出される剣を避け、矢を避け、必要最低限にと、人間を殺してゆく。

 けれど、相手は八万である。どれだけ玉藻前が人間に比べて能力が秀でていようとも、限界がある。

 将軍三浦介義明が放った矢が、玉藻前の急所を捉え、将軍上総介広常の繰り出した刀によって、ついに玉藻前は膝を付いた。

「手こずらせやがって」

「お願い、鳥羽様にわたしを会わせて」

 おびただしい量の血が玉藻前の体中から溢れ出る。

「黙れ、妖怪!」

「お願い、私は本当にあの人のことを愛しているだけなの」

「黙れといっているのだ」

 刀が再び振り下ろされる。


  世界が止まる。


 玉藻前には、何が起きたか分からない。彼女を取り囲むすべてが止まっている。人も、自然も、まるで動かない。先ほどまで流れていた血も、止まっている。

「後悔はないか」

 聞き覚えのある声が、背後から聞こえる。今度はすぐに振り返ると、彼女よりも二周りも小さな少女が立っている。元は白装束なのであろう、長い黒髪がそこにかかるように揺れている。足先にかけて、少しずつ色が着き、片方は赤に、片方は青に染められている。

「この終わり方に後悔はないか?」

 少女の後ろに、少女を支えるように大きな坊主が立っている。修行僧のようないでたちをしていて、頭も丸めている。

「私は、死ぬの?」

「そう。もうその結末に変わりはない。お前は生きることの選び、最期まで抗ってみせた。でもだめね、それが限界」

「いやだ、鳥羽様に、どうかもう一度だけでも鳥羽様に」

「それは無理ね。この軍隊を組織したのはその鳥羽上皇よ。彼は病に倒れ、陰陽師に観てもらった。その結果、お前が妖怪であることが世間に知られてしまった」

「あの人が、裏切ったの?」

「違う。彼には、そうするしかできなかった。人と相容れない存在なのよ、お前は」

「愛してるって、信じてくれって」

 少女はゆっくり歩き、玉藻前の目の前に来た。

「信じていないのは誰? それはお前の罪」

 痙攣するように、玉藻前の体は跳ねた。

「けれど、お前は嫌いではない。もし、お前がその罪を償いたいというのなら、私はお前を救うことができるかもしれない」

「お嬢様!」

「黙れ、朔」

「しかし、それでは!」

「玉藻前、お前は私の玉となれ」

「償う?」

「難しいことはない。あの後ろの坊主のように、私についてくればいいだけだ」

「償えば、もう一度あの人に会える?」

「かも、しれぬ」

「分かった」

「私は三瀬ほとり。それから後ろは朔。お前は玉」

「また遠回りをされますか」

「遠回りではない。これは決められていたことよ。さあ、立って」

 ほとりが伸ばした細い手を、玉は大きな手で握った。その瞬間、押さえていた妖気があふれ出し、玉の頭に耳が生え、お尻には九つの尾が踊る。

「お前はその格好のが似合っている」

 風に消えるように。


  世界が動き出す。


 玉藻前はその瞬間石となった。瘴気を放つ不気味な石は殺生石と呼ばれ、それから長いときを呪われた名で呼ばれ続けた。



  5


 みとせ、ふたとせ、ひととせと、ゆるり数えてなんとせか。花の弁を浮かべては、ゆるりゆるりと放れゆく。

 小船に黒く渡し守、闇夜に伸びた八角の樫の木を河につきさして、ゆるりゆるりと揺れている。

 綾衣薄衣美しく、花を手折る指の細く、黒の髪は闇に溶け、まだいとけない口元の、ぽそりぽそりと音の鳴る。

 すらと伸びたまつげの下に、赤と青の交じりたる瞳は細く閉じられて、もちのように膨れたる頬は桃に色づいて。

 少女は何を謡っている。

 何を謡って、泣いている。

 儚い少女の座り姿に、渡し守、自然と涙が浮かびきて、耳を澄ませば小さな声で、少女が繰り返し、音を吐く。

 いきなさい、

 いきなさい。

 河の真中に揺れている小舟の姿儚くて、月隠の暗き闇夜には、離れた岸辺に見えるものなし。

 いきなさい、

 いきなさい。

 少女の目には、赤と青の涙、涙。


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