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月隠の詩  作者: なつ
4/13

第肆話 一角

  1


 うなじに掛けた細い布、あるいはそれは羽衣の、風に揺れてひらひらと別れのときを嘆きつつ。

 いとど遠くにわずかに浮かぶ西への船はいずこへと、涙々と繰り返し、領巾をただただ振るだけで。

 三瀬の目には涙、涙。

 あの人が、二度と戻って来ぬのなら、私の心を捕らえるものなし。

 ならばとて、お前の命を使い捨て、我が世のために、天に捧げよ。

 三瀬の目には涙、涙。

「ほとり、起きなさい」

 優しい声が三瀬を呼び、乱れた髪もそのままに、彼女はふいと立ち上がり、機織の音に心を癒す。

「今宵は月が隠れます」

「そう。今支度をします」

「急がなくてもいいよ。急いでも変わらない」

「変えられないのなら、わたしは要らない」

「いいえ、違うわ」

「そうね、ごめんなさい」

 老女は答えない。

「朔は?」

「もう待っていますよ」

「ありがとう」

 寝衣をさと脱ぎ捨てて、白き着物を身にまとい、三瀬ほとりは息を吐く。

 ゆら吹く風に誘われて、三瀬の姿は風となり、あるいは鳥のごとくして、空へ飛び立ち三瀬の河へ。

 渡し守、ただ彼女の座るを感じ、八角の長き棒を河に刺し、ゆらりゆらりとただ揺れる。

 三瀬の目には涙、涙。



  2


「いきなさい」

 岩壁の先に立ち、三瀬ほとりはそこに立つ女性に冷たく言い放った。

「わたしは、生きて、いいの?」

「お前が生きたいと望むなら、生きればいい。望まないのであれば、そこから一歩進めばいい。けれど、進めばそれで終わり。お前の苦しみはすべて終わる」

「終わる……」

 その言葉に、けれど、足は動かない。

「喜びも終わる」

 足をかくっと折るようにそこに倒れる。

「決めるのはわたしではない。お前だ。だが、お前はすでに半歩足を出している。戻るなら急がなければならない」

「田村麻呂さま」

「あれはお前を待っている。けれど、その先に幸せが待っているのか、わたしには分からない。けれど、楽な幸せなど待っていない、それだけは確かなことだ」

「わたくしは鬼。人と相成ってはならないもの」

 彼女が自らを鬼と呼ぶ通り、その女性の額には角が一つ飛び出ている。その横顔を三瀬ほとりは感情を抑えて見つめる。

「わたくしが田村麻呂さまと一緒にあって、彼が苦しむことになるのなら、わたくしなどいなくなってしまったほうがいい」

「誰がお前にそう教えたのだ?」

「鬼と人は相成れぬもの、そうでしょう?」

 その女性は顔を三瀬ほとりに向ける。角を分けるように黒い髪が両目にかかるほどの長さで風に揺れている。ふっくらとした顔つきに、瞳は大きく。

「それはお前が決めること。決めてしまい後悔するのはお前……でも、人と相成れぬことなどない。人は恐ろしく、愚かで、残酷で弱い生き物だ。けれど、それでも人は優しく、暖かい」

 三瀬ほとりの肩を朔が掴む。いつからそこにいたのか、三瀬ほとりがしゃべりすぎていることを咎めるように。

「よい、これ以上は語らぬ。いく先を決めるのは鈴鹿の姫よ、お前だ」

「あなたは人ではないの?」

「人に見えるか?」

「ええ、見えるわ」

「わたしもお前が人に見える」

「お嬢様!」

「……ありがとう」

 足の力が抜けるように、その女性はそこにかくっと倒れた。

「お嬢様、お気をつけ下さい」

「構わぬ。それもわたしの務め」

「お嬢様が苦しむのを……」

「構わぬ。行くぞ」

 朔は三瀬ほとりの肩から手をどかすと、はっと一言答える。それから風に消えるように、三瀬ほとりと朔の姿は消えてしまった。

 しばらくその女性はその姿のまま座っていたが、やがて立ち上がると一歩ずつその岩壁から遠のいていく。自らの意思で生きることを決めたように。

 そして、それはまた、鬼を裏切ることを意味する。

 否、すでに裏切ってしまった。戦いはすでに始まっているであろう。大嶽丸と田村麻呂の。

 その女性は、結果を知るのが、恐かったのだ。大嶽丸から刀を盗んだとはいえ、鬼と人とではその力の差は目に見えている。ただ一度だけ愛し合った田村麻呂と、死んで再会するくらいならば、自らの命を絶ったほうがいいと。

 けれど、女性は生きることに決めた。


 その地に戻り着たとき、すでに戦いの結末は得られていた。



  3


 後悔をするくらいなら、死んでしまえばいい。

 けれど、死んでしまえばすべてが終わる。

 ならば後悔をしなければいい。

 生き続けて、後悔をしなければいい。

 後で悔やんでももう遅い。

 それならば先に希望をせめて秘めて。

 この長い長い務めの先に、自らの悔いを改めることができるのならば。

 この長い長いときを、わたしは生きると決めた。

 涙、涙。

 枯れることのない涙、涙。

 ただ生きるだけでは赦されない。

 忘れてはならないと、月にまします神が言う。

 わが目の届かぬときに、わが目となり、足となれと、神が言う。

 死の先に何もないように、神などいない。

 それなのに神が言う。

 わたしの務めはいついつまでも、終わらない。

 長い長い、絶望の日々。

 終わることなき希望の日々。

 けれど、

 あの人が、二度と戻って来ぬのなら、私の心を捕らえるものなし。



  4


 鈴鹿の山に鬼が住むと、坂上田村麻呂は征夷大将軍に任命され、こうして鈴鹿の地まで旅立ってきた。

 そして、自らの剣を構え、その鬼と対峙したとき、田村麻呂はそれ以上剣を振ることなどできようはずもなかった。

 鬼は女の姿で、十二単をまとい、ただ背中を向け、静かに座している。

「お前が、鈴鹿の鬼なのか」

「左様でございます」

「なぜ人の世に悪さをする」

「しておりません」

「なぜ人の世を支配しようとする」

「しておりません」

 田村麻呂は剣をしまった。そしてさらにそれを脇に置くと、女にこちらを向くよう口調を柔らかくして言った。

「俺はお前を殺すように朝廷より命を受けてきた。だが、無抵抗のものを切ることなど俺にはできぬ」

 女は座ったまま田村麻呂に向かう。確かに女の額には一つの角がある。だが、それ以外は人間と変わらない。

「もう一度だけ問う。お前が鈴鹿の鬼なのか」

「左様でございます」

「ではなぜ人の世を支配しようとする」

「わたくしはしておりません」

「分かった。信じよう」

 女の瞳が大きく開かれる。驚いた、という表情だ。

「俺にはお前が人の世を支配しようとしているとは思えぬ。鬼は人を惑わすというが、お前にならば惑わされてもよい」

「わたくしは人を惑わす力もありません。ですが、あなた様にとって災いをなす存在であることは確かです」

「だが、火のないところに煙は立たぬという。鬼は、お前だけではないのであろう?」

「左様でございます」

「どこにいる」

「あれは恐ろしい鬼です。名を大嶽丸と申しまして、わたくしに……わたくしに求婚を。この世界をくれてやるので、結婚するように、と。わたくしは、断りました」

「ならば、俺が大嶽丸を討ってやろう。それが俺の命でもある」

「あなた様には無理であります」

「俺もただの人ではない。鬼の討伐の専門家だ。心配には及ばぬ」

「ならば、もし、わたくしを信じてもらえるのならば、あと一月待って下さいませ。またそのとき、この場所であなた様と会いとうございます」

「一月も待てと?」

「わたくしを信じてもらえるのならば」

「分かった、信じよう」

 女は深々とお辞儀をした。


 一月後、同じ場所に田村麻呂と女はあった。女は両の脇に二本の刀を持っていた。

「信じた俺が愚かであったか」

 だが田村麻呂は剣を抜くことはなかった。あの時と同じように十二単を着たまま座り、女は刀を鞘から出す様子もなかった。

「これは、大嶽丸の持つ名刀、大通連と小通連にございます。今に、大嶽丸は参りましょう。どうか、この刀をもって、大嶽丸を討って下さい。わたくしの命はあなた様と共にあります」

 田村麻呂は女に近づくと、その刀を握るより先に女に口付けをした。女は一瞬ぴくと動くが、抑えていた感情があふれ出たのか、田村麻呂の口付けに答える。それから互いに強く抱きしめあう。

「あなた様を失いとうない」

「俺は負けぬよ」

「ですが」

「今度はお前が信じてくれ」

「分かりました」

 やがて田村麻呂は二本の刀を両手に持つと立ち上がった。女は顔を抑えるようにして去ってゆく。ここが戦場になることを女は知っていた。そして、あらかじめ決められていたかのように、岩壁へと走ってゆく。



  5


 みとせ、ふたとせ、ひととせと、ゆるり数えてなんとせか。花の弁を浮かべては、ゆるりゆるりと放れゆく。

 小船に黒く渡し守、闇夜に伸びた八角の樫の木を河につきさして、ゆるりゆるりと揺れている。

 綾衣薄衣美しく、花を手折る指の細く、黒の髪は闇に溶け、まだいとけない口元の、ぽそりぽそりと音の鳴る。

 すらと伸びたまつげの下に、赤と青の交じりたる瞳は細く閉じられて、もちのように膨れたる頬は桃に色づいて。

 少女は何を謡っている。

 何を謡って、泣いている。

 儚い少女の座り姿に、渡し守、自然と涙が浮かびきて、耳を澄ませば小さな声で、少女が繰り返し、音を吐く。

 いきなさい、

 いきなさい。

 河の真中に揺れている小舟の姿儚くて、月隠の暗き闇夜には、離れた岸辺に見えるものなし。

 いきなさい、

 いきなさい。

 少女の目には、赤と青の涙、涙。


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