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月隠の詩  作者: なつ
3/13

第参話 大火

  1


 かたりかたりと音の鳴る秋さり姫の機織の止まることの果てしなく、耳に響くこと限りなし。

 るるる、るるると尖らせる、唇に薄く紅の引く。音に合わせて体を揺らし、まるで赤子の子守唄。

 眠れよ、眠れ。今宵はまだ月が高いよ、明るいよ。お前の宿世が、お前を縛るよ。だから眠れよ、眠れ。

 厳かな部屋の片隅に、布団に乱れた少女の姿。黒い髪はあちこちに、いとけない寝息の安らかに。

 少女は何を夢見てる。

 何の夢見て、泣いている。

 機織る女の口先から零れる音の寂しくて、かたりかたりと繰り返す機の音の悲しくて。

 眠れよ、眠れ。

 眠れよ、眠れ。

 せめて務めのない夜だけは、心乱すことなく、安らかに。

 るるる、るるると音の鳴る。

 かたりかたりと音の鳴る。

 少女の寝姿安らかに、乱れた髪の艶やかに、布団から覗く手足の細く、細く、まるで赤子のように柔らかく。



  2


 ゆらゆらと揺れるともし火に俯く姿はそのまま消え入ってしまいそうなほど儚く、涙なみだと両手をつき、倒れ掛かる彼女の肩を抱き、その美しい黒髪を優しく撫でてあげることしか能のなく。

「どうかもう、泣かないでおくれ」

 ええ、ええと彼女は答えるけれど涙が止まることのなく。

「どうか、頼りないかもしれないけれど、僕に、話してくれないか。そうすれば、少しは気持ちが安らぐかもしれない」

 ええ、ええと彼女は答えるけれどまだ言葉となりこぼれることのなく。

 幾日かが同じように過ぎ去り、またわずかに回復の兆しもあるけれど彼女の弱さが変わることもなく。

 いつか床を同じくした日に、彼女は小さく思い出す。


 あの光景を思い出すだけでも私は狂ってしまいそうです。

 遠くに全天を焦がすような炎が高く舞っているのです。からがらと走り逃げ出すことができたのは運がよかっただけのこと。ただのひと時でもためらうようなことがあったとしたら、あの時あの荒れ狂う炎の海に飲まれ、私は焼け死んでいたことでしょう。考えるだけでも恐ろしいこと。

 私の周りにも同じように命からがらと走り逃げた者たちが溢れているのです。みな一様に、それまで自分たちが過ごしていた町を振り返り、なんと言葉を発していいのか分からずに、町を眺めているだけ。

 長い雨でも降ってくれたら、これほどまでに火事が広がることもなかったのだろうに。けれどもはやすべてを飲み込み、ああ、あの炎に飲み込まれ自らの肌が焼けてゆくのを狂気のうちに目の当たりにし、息絶えてゆくものがどれほどいたのでしょう。

 思い出すだけで、思い出すだけで狂ってしまいそうなのです。


 よよと、彼の腕の中小さくなる彼女を強く抱きしめる。大晦日に近い大火は、なんと多くの人の命を奪ったことであろうか。それに、彼女のように過ごす家をなくし、これから先行く末もないものたちが多く溢れる。

 小仙寺の寺小姓である生田庄之助は、寒さに震える彼女をそのままにしておくことなどできるはずもなく。

 蝋燭の明かりに薄赤く染まる彼女の頬に、美しさと愛おしさを感じないでいられることなどできるはずもなく。

 先のことを考えるならば、彼女と長くいられるはずかないことも分かろうものを。

 ひと時の思いに任せて彼女を抱いてしまうことが彼女にとって不幸でしかないことなど分かろうものを。

 けれどもその逢瀬を止めることも咎めるものもそこにはなく。

「庄之助様」

「お七よ」


 八百屋太郎兵衛の娘お七は年が明けて一月ほどたち町に戻ったが、そこに以前の活気さはまるで失われていた。聞くところによると何千もの人が亡くなったらしい。彼女がこうして生きていることは奇跡に近いことであった。けれど、彼女には住む家がもはやなかった。燃えてしまったのだ。

 彼女が浮かれ女のように男を渡り歩くのも生きていくために仕方がないことであった。

 その折に吉三郎と出会うことは彼女にとって不幸そのものであった。

「お前を抱いても面白くない」

「それはそうだわ。お前なんて私にとってただの一夜でしかないのだから。夜露さえしのげればよいのだもの」

「つまらない女だな」

「同じようなものじゃない」

 けれど、吉三郎は彼女に優しかった。彼女が気丈に振舞えばそれだけ吉三郎の口調は優しくなる。心の弱っている彼女にとってそれがどれほど甘い罠であったことか。

 一夜が二夜となり、三夜、四夜と、気がつけば一月以上もの間彼女は吉三郎と夜を共にしていた。

「どうしてわたしに執拗にこだわるの」

「こだわってるのはどっちだか。だがなあ、お七よ、俺だって何の考えもないわけじゃないんだぜ」

「何よ、わたしに何をさせる気さ」

「へへへ、そう恐い顔をするなよ。別に悪い話じゃないさ。ことによっちゃあ、お前の愛しい人にまた会えるかもしれないんだぜ」

 いつかの夜に、彼女は庄之助の話を吉三郎にしていた。

「無理な話よ」

「無理だと思ってるから無理なのさ」

「何をさせたいのさ」

 へへへと、もう一度吉三郎は笑う。彼がこうも羽振りがよいのは、暮れの大火のおかげらしい。逃げ惑う人々の中、焼け地に飛び込み、多くの財を手に入れた。要は火事場泥棒を働いたのだ。これほど楽なことはない。

「わたしに放火しろと?」

「そうすればまた愛しの庄之助に会えるだろうよ」

 その誘惑は危険だった。



  3


 少女の腕の律動的に、川面に浮かべる彼岸花。一片、二片放れゆく、流れにたゆたう赤の弁。

 ゆるり数えてなんとせか、なんとせ重なり幾十か、それともすでに幾百か。

 月の隠れた静かな夜に、三瀬の河に渡し舟。空に浮かぶ白の珠、ゆらりゆらりと漂いて。

 すらと伸ばした少女の平に白の珠は納まりぬ。珠はほのかに揺らめいて、揺れる火の粉の見え隠れ。

 紙の一片ひらひらと、珠の後に従いて、くんと表を眺むれば、涙の止まることのなく。

 少女の繰り返し音の吐く。

 いきなさい、

 いきなさい。

「お嬢様」

 絹を綾めた白の衣に、ふつりと浮かぶ黒の陰。

「朔よ、これは彼女の意思でしょうか?」

「それを決めるのはお嬢様ではありません」

「ええ、分かっています。分かっていますが、もう、避けることはできないでしょう」

「その通りです」

「それでも漂うものを、一体どうすることができるでしょう」

「それもお嬢様が決めることではありません」

「分かっています、分かっています」

 少女の目には、涙、涙。

 涙に映る赤と青、少女の瞳の深いところに沈み落ちぶれ、ひれ伏して。

「お嬢様が嘆くことではありません」

「それでは誰が嘆けというのでしょう」

 朔は沈黙。

「たとえそれが無駄なことであったとしても、せめて私だけはそうありたい。朔よ、お前は己を偽りすぎる。心のないことを、心にもないことを吐くものではない」

「これは失礼をいたしました」

「よい」

 せめて勤めの夜だけは、少女の心は深く、深く。



  4


 3月、あの大火からまた癒えたとは決して言えない。けれども、わずかばかりは回復の兆しが見えている。それは季節的なものが影響した幻かもしれない。けれどもそこに過ごす人々の顔を見れば幻であったとしても、希望を感じずにはいられない。

 にもかかわらず。

 お七の手には火種。

 夜辺りに誰もいないことを確認して彼女は火を放った。最初は弱々しい火も、わらを燃やすことで少しずつ勢いが増してくる。

 これで、もう一度庄之助さまに会える。

 彼女にあったのはその思いだけだった。


 火はすぐに消し止められ、お七は捕まった。


 ただ私は、庄之助さまにお会いしたかっただけなのです。

「そう」

 後悔などしているはずがございません。たとえこのまま火刑に処せられるのだとしても、私の思いは必ず庄之助さまに届いておりますから。庄之助さまへの気持ちは、私が消えてしまったとしても永遠に続くものです。

「お前の命はあと数時も残されていない。いいえ、すでに半ばを死の世界に踏み入れている。このように時の歩みを遅くしていても、それを止めることはできないわ」

 それがどうしたというの?

「お前の御霊は三瀬の河を永遠に漂うことになる。それを導くのが務め。お前がどれだけ請い願ったとしても、お前は二度と庄之助に会うことができないのよ」

 分かっているわ、分かっているもの。それでも、私の最後の姿を庄之助さまが見てくれるなら、私が後悔をするはずがない。

「本当に後悔しないのであれば、漂うことなどないだろうに。偽らなくてもいいのよ」

 お願い、止めて。

 今更私にどうしろというの、もう、どうしようもないじゃない。

「その通り、もうどうしようもないわ。お前が逝くことを私に止める力はない。けれどお前は悲しすぎる」

 どうしようもないのよ。

「庄之助はここにいない。遠く、お前がいつか世話になった寺にいるわ。ええ、とても多くの孤児を相手にしていて、お前のことを考える暇さえもない」

 どうしてそんなことを言うの?

「事実だから。お前を救う手段は絶望しかないわ。わずかでも希望が残されているとお前が考える限り、御霊は逝けない。苦しいことだわ」

 お願い、止めて、私から希望を奪わないで。

「お前は一人だ」

 お願い、だったらどうしてあなたは泣いてるの?

「朔よ、彼女を逝かせてあげなさい」


 朔はほとりの後ろからさっと立ち上がると、火が揺れる処刑台の彼女の前に立った。ほとりは顔を伏せると、後ろを向く。

 瞬間、彼女から零れた涙が宙を舞う。



  5


 みとせ、ふたとせ、ひととせと、ゆるり数えてなんとせか。花の弁を浮かべては、ゆるりゆるりと放れゆく。

 小船に黒く渡し守、闇夜に伸びた八角の樫の木を河につきさして、ゆるりゆるりと揺れている。

 綾衣薄衣美しく、花を手折る指の細く、黒の髪は闇に溶け、まだいとけない口元の、ぽそりぽそりと音の鳴る。

 すらと伸びたまつげの下に、赤と青の交じりたる瞳は細く閉じられて、もちのように膨れたる頬は桃に色づいて。

 少女は何を謡っている。

 何を謡って、泣いている。

 儚い少女の座り姿に、渡し守、自然と涙が浮かびきて、耳を澄ませば小さな声で、少女が繰り返し、音を吐く。

 いきなさい、

 いきなさい。

 河の真中に揺れている小舟の姿儚くて、月隠の暗き闇夜には、離れた岸辺に見えるものなし。

 いきなさい、

 いきなさい。

 少女の目には、赤と青の涙、涙。



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