第弐話 恋浦
1
三瀬の河をゆらゆらと白き思いがただよえば、少女は顔を傾けてその思いの形に息を吐く。
すっとすぼめた唇の紅にほのかに色づいて、すっと細めた瞳の奥に、赤と青の混じりあう。
少女を乗せた小さな船の、三瀬の河をゆらゆらと、月の隠れた暗い夜に他に見えるものはなし。
闇に消える姿のはかなく、闇に溶ける声の小さく、少女の繰り返し息を吐き、ぽそりぽそりと掻き返す。
いきなさい、
いきなさい。
少女が謡う文句に誘われ、渡し守、自然と涙を流し、三瀬の河にゆらゆらと、小船の他に何もなし。
「朔よ」少女は伸べた指に紙を持つ。
闇に白く輝くように、少女の姿の、声の、凛として。
「お嬢様」
「これはいつのことでしょう」
答える声は闇に溶け、いつから居たのか、男が一人。
「いいえ、何でもありません。これは彼女の望みなのでしょうか」
「それを決めるのはお嬢様ではありません」
「分かっておる」
「それではよろしいでしょうか」
「よろしい」
「参りましょう」
月隠の日の三瀬の河に、渡し守、一人残されて、けれども変わることなく、ゆらりゆらりと揺れている。
2
「あの人は立派な人でした」
男の名は越智安成。
「ええ、生まれながらにして苦労を背負っていたようなものです。男に生まれたのであれば、少しはそれも和らいだのかもしれませんが。ですが、女に生まれてくれたことに私は感謝しています。あの人の苦労を、少しでも私が肩代わりしてあげることができたのであれば、それほどの幸せはないでしょう」
そこで一息つくと、軽く俯く。
「安成よ、お前はまだ若い。この難局を切り抜けることは非常に難しいかもしれぬ。だが、お前にはまだ先がある。それを忘れてはならぬ」
「心得ております」
「鶴姫様は強く、お優しい方じゃ。お前の言うように、男に生まれたのであれば、それほどの苦労もなかっただろうに。だが、あれも女に生まれたことを後悔などしておらぬよ。お前という馴染みを持つことができたのだからな」
「ありがとうございます」
「だが、この難局にどう対するか、それが問題よ」
「明日には、晴賢の軍勢が沖に姿を現しましょう。私は鶴姫様と御手洗において、彼らを迎え撃ちます」
「まだ傷が癒えきってはおらぬ」
「上陸されれば、すべてが終わります」
「そう、よな」
安成は、両の拳を床についた。すべてが終わる、わけにはいかない。鶴姫と築いたこの国を奪われるわけにはいかない。
できれば、鶴姫には城を守っていてもらいたいものだが、承服しないであろう。それならば、共に出陣し、共に戦いたい。
安成は思い出す。大明神の化身がごとき、鶴姫の姿を。
「出あえ!」
戦場にあっては高すぎる声が海岸に響いた。漆黒の髪を結い一つにまとめ、馬の上にあって右手には薙刀を持ち、左手は手綱を握る。胸の部分が膨らんだ甲冑を身にまとい、人に倍する草摺の数は柔らかにまとまっている。
「わたしは大山祇、大明神の使い、鶴姫。われと思うものよ、出あえ!」
彼女はそう叫ぶや、馬を駆り敵陣へと駆け出した。周りには彼女の精鋭が続く。これまで数に勝る大内の兵に圧倒され、ついにはこの島に上陸されてしまうほどの戦況にあったのだが、彼女の檄が響くや、味方の兵が一気に活気だった。
先の戦で兄を失い、守る地である三島を奪われるわけにはいかない彼女の戦意は敵兵よりもはるかに高かった。
馬上より繰り出される薙刀の舞に、大内の兵は次第に乱れていく。三島の兵の、それを見てなんと勇気の奮い立ったことか、彼らもまた叫び声を発するや敵陣へと突進した。
戦況は一転し、大内の兵は海岸からの撤退を余儀なくされた。
勝鬨を上げた鶴姫の姿に、大明神の化身を重ねるものも少なくなかった。
が、大内の兵がたった一度の負け戦で終わるはずもなく。数ヶ月も経たない内に再び水軍が姿を見せた。小原中務丞を大将として、先の戦いの傷のまだ癒えていない三島を一気に攻め滅ぼそうというのである。
鶴姫は決死隊を募り、あらかじめ用意していた小さな舟に乗り込むと、まだ夜が明けぬ頃に奇襲を仕掛けた。
すでに勝った気でいた大内の兵は、酒盛りを繰り返しており、鶴姫にとって相手ではなかった。中務丞をその手で討ち取ると、さらに混乱した大内の兵など相手ではなかった。本隊を合流させると、そのまま大内の水軍を滅ぼしてしまった。
その姿の、なんと神々しかったことか。
安成は思い出しても誉れであり、同時に悲しくもあった。
天文12年。安成と鶴姫は御手洗において、晴賢の軍勢と対峙した。が、先から続く戦の傷が深い三島の兵と、さらなる大軍勢で押し寄せてくる敵兵とではまるで戦にならなかった。
鶴姫は安成とはぐれ、乱れる水軍に檄を入れつつ後退した。
3
月隠の夜。
風の和ぐ。
河原には無数の、
重ねられた石の山。
三瀬の河。
ゆらゆらと揺れる小船。
誰が渡っている。
朔の夜。
風の吹き。
河原には無数の、
柔らかな草が揺れる。
三瀬の河。
ゆらゆらと揺れる小船。
誰が戻ってくる。
三瀬ほとりは知っている。彷徨う魂たちと、その行く末と、そして、その河の先に何もないことを。一度逝ったら二度と戻ることのかなわない。
そうであるから、彼女は自らを律し、この果てしない勤めにつこうと。
彼女は謡う。
いきなさい、
いきなさい。
朔は知っている。お嬢様の終わることのない罪の勤めと、その終わることのない日々の中で、お嬢様が泣いていることを。
そうであるから、彼は自らを律し、お嬢様のために尽くそうと。
彼は寄り添う。
いきなさい、
いきなさい。
4
小波が鶴姫の足先を濡らす。まだ日の東の方に現れぬころ、鶴姫は幾時かをそこに立ち、それから一人船に乗ると、大海原へと漕ぎ出だす。小波の繰り返される音が、鶴姫に安成を思い出させる。
あの人は、ずるい人でした。
御手洗の決戦で、ええ、あれは負け戦でしたから。あの人とはぐれてしまい、三島まで必死に戻っているさなか、あの人は戻ることを選ばなかったのですから。あの人は、本当にずるい人です。私たちが逃げるだけの時間を稼ぐために、自ら死地に旅立ってしまうなんて。
戦いは終わったのだと兄は申しますが、私には耐えられませんでした。大明神様も、私と同じ気持ちだったのでしょう、あの日、御手洗に停泊していた彼らに嵐を起こしてくださったのですから。私たちの奇襲に彼らは逃げていってしまいましたから。
でも、それももうどうでもいい。
もう私には何も残されていないのだから。
またそれからどれほどの時が流れただろうか、薄暗闇の中四方に島の形さえもはっきりと見えなくなったころ、彼女が乗る小船に少し離れたところから別の小さな船が並んでいる。鶴姫はうつろの気持ちでその船を眺めた。一人は座り、もう一人が立っている。薄暗く、はっきりとは見えないが二人しか乗っていないようだ。それがゆっくりと近づいてきている。
座っていた影がすっと立ち上がる。一方の胸くらいの背丈しかなく、またわずかな風に揺れる髪が年端ない少女のように思わせる。
その少女の顔がすっと動くと、もう一方の人がそっと屈み、少女の口元に耳を当てた。
「鶴姫殿」
闇を低い声が抜ける。
「われの名は朔、それからお嬢様は三瀬ほとり。お嬢様がそちらの船に行きたいと申している」
「追っ手でしょうか」
朔は再び少女の口元に耳を当てると、それから声をあげた。
「追っ手ではありません」
「私の気持ちは変わりません」
毅然とそう鶴姫は発すると、前を向き姿勢を正した。そのとき、ぐらっと船が動き、驚き振り返ると先ほどまで少し離れたところにいたはずの少女が立っていた。白の着物の先の辺りだけ色が着き、そこに映える黒い髪は艶やかで。
「私は追っ手ではないわ。お前と話がしたいだけ」
「話すことなど、ありません」
「もうここは現世とは離れたところなのよ」
鶴姫は顔を上げる。
「いつまで経っても日が昇らないでしょう?」
「それが」
「それに私は安成の最後にも立会いました。あれの最後の話を聞きたくないですか?」
ほとりの瞳の中に、ゆれゆらと揺れる青の赤の色。その瞳を見つめていると、どうして彼女がそんなことを知っているのか、という疑問を抱くことさえできなくなる。
「あれが、何のためにあの戦のとき戦っていたのか分かっているのでしょう。お前のために、お前が三島まで逃げる時間のために戦っていたのですよ」
「知っているわ」
「あれがお前にこんな結末を望んでいたのかしら」
「恋する人のいない現世に存えることに何の意味もないわ」
「甘い幻想だわ。お前は誤解をしている。もしもお前がそれを選ぶのなら、それで終わりなのよ。三瀬の河の向こうには何もない」
「ここにも何もないわ」
「そう……」
ほとりは俯くと、さびしそうに首を振った。それから、小さくつぶやく。
「いきなさい」
ぞっとした感情が鶴姫を包み込む。その瞬間には、すでにほとりの姿はなかった。驚き、四方を見やるが、もう一艘の船も見えない。
逝きなさい……
鶴姫は立ち上がり船から身を投げた。
5
みとせ、ふたとせ、ひととせと、ゆるり数えてなんとせか。花の弁を浮かべては、ゆるりゆるりと放れゆく。
小船に黒く渡し守、闇夜に伸びた八角の樫の木を河につきさして、ゆるりゆるりと揺れている。
綾衣薄衣美しく、花を手折る指の細く、黒の髪は闇に溶け、まだいとけない口元の、ぽそりぽそりと音の鳴る。
すらと伸びたまつげの下に、赤と青の交じりたる瞳は細く閉じられて、もちのように膨れたる頬は桃に色づいて。
少女は何を謡っている。
何を謡って、泣いている。
儚い少女の座り姿に、渡し守、自然と涙が浮かびきて、耳を澄ませば小さな声で、少女が繰り返し、音を吐く。
いきなさい、
いきなさい。
河の真中に揺れている小舟の姿儚くて、月隠の暗き闇夜には、離れた岸辺に見えるものなし。
いきなさい、
いきなさい。
少女の目には、赤と青の涙、涙。