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月隠の詩  作者: なつ
13/13

拾遺集 春


    1



 三瀬の河に渡し守、真黒き闇に閉ざされて、わずかに光るは白い珠、空より稀に降り落ちる。

 川面に刺したる八角の、樫の木重く動かせば、その手に伝わる未練の塊、されど行く場、有りはせぬ。

 知れず座りし白装束の少女はすでに失われ、彼女の瞳に浮かびしは、赤と青の複雑な、糸に絡みし、人の生。

 彼女はまさに、その時を、重く重く受け止めて、最期の時まで見送れば、ただただ涙をひとしずく。

 ああ、思い返せばあの頃は、三瀬の河にもひとしずく、希望と光があったものよ。

 渡し守、孤独に息をつく。


 闇夜に白き、魂の珠。垣間見れば、懐かしき、人の世の、けれど悲しき運命。


 渡し守、首を振り声を出す。

「これが最期の年であろうか。今の彼女の心はすでに壊れている。彼女を救うには、思い出さねばならぬだろうよ、彼女の本当の記憶の底を」

「それでも、常に在りし者は、また新たな彼女を生むのであろうな。人の世の、悲しき定めは決して終わらぬ」

「けれどそれは彼の人の、さらには深い悲しき運命」


 真黒き闇に、音はなし。渡し守一人、舟を漕ぐ。



  2


 黒き太陽が天を覆う。

 群衆はざわめき立つ。この世の終わりが訪れたのではないか、と。朝に日が昇り、このあまねく世界を照らしているのは、他ならぬ天照大神。その化身たる姫巫女の身に何かがあったのか、あるいは、その姫巫女の力が衰えたのか。

 けれどそれはわずか数刻。

 再び空には全円の、天照大神の御姿が現れる。

 弟王は後のこれをこう言った。

「邪悪なものが、彼女に働きかけている。だが、彼女の強き祈りの前に、邪悪なものは世を去った。彼女の力を称えよ。天照大神は常に彼女とともにある」

 群衆はなるほどと納得し、彼女を称えた。ひと時の不穏な空気は一掃した。


 かに、見えた。


 火種がくすぶるのは、この世の常。天照大神の化身たる姫巫女の統治を苦々しく、否、疎ましく思っていた者は多い。中央に集約された権力は、富をもそこへ集められる。姫巫女と、その弟王を囲う宮殿のなんと大きいことか。

 その翌年、天照大神の悪戯であろうか、天とは気紛れ。

 再び食が大地を覆った。弟王のあの言葉が、むしろ負の感情となり群衆をも食らう。邪悪なものが、姫巫女を侵食している。

 群衆と、中央に不満を持つ者たちに燃える火を消す力を、姫巫女は持っていなかった。

 この革命は、弟王が姫巫女の骸を群衆に晒すことで、終息した。弟王が助かるには、この手段しか残されていなかった。

 後にこの国は、再び大乱の年々を迎える。

 それが止むのは、二代目の姫巫女、台与を女王と据えてからであった。


 しかし、内情は大きく異なる。

 一代目の姫巫女がこの世を去ったのは、そもそも一度目の日食よりさかのぼること20余年。弟王でさえ、彼女の死を知るのに一年以上の時を費やしたという。そもそも、姫巫女は宮殿から出ることを許されていない。彼女を知る者は、ごくわずかな、彼女の身の回りの世話をする女性だけだ。その彼女たちでさえ、直接姫巫女の姿を見ることはできない。御簾が間にあり、普段はめったに口を開かない。

 ある天照大神の言葉を姫巫女が語る日のこと、その用意をしていた身の回りの世話をしていた女性の長が、姫巫女に呼びかけても返事なくいぶかしげに思ったのが、気がついたきっかけだったか。長としては、過ぎた行為であったであろう、返事のない御簾の裏を、彼女はのぞき見た。

 姫巫女は伏し、すでに息がなかった。

 だが、長の判断は正しかった。

 それから20余年、群衆をだまし続ける結果となったとしても、大乱を引き起こすことなく平和な世を守ったのだから。

 本物の姫巫女を隠し、偽物を立てた。長の信頼できる部下であり、身の回りの世話を普段し、神卸しの儀の間の姫巫女の様を知っていた女性に、騙るべく言葉すべてを用意し、その儀式を無事に終えた。

 わずかに調子が違うといぶかしがったものもあるだろうが、それを確かめる術を持ち合わせているものなどいなかった。

 けれど何度かの儀式の後に、彼女たちにも限界であったのだろう、弟王のもとに長を始め身の回りの世話をする女性らが訪れてすべてを打ち明けた。

「らしい、な」

 怒り、あるいはそのまま殺されたとしてもおかしくなかったでろうが、弟王は彼女らの言葉を疑うことなく受け入れた。さらには、

「お前たちは正しい判断をした。もっと早くに打ち明けてくれればなお良かったであろうが、それは問うまい。今後は儀式の前に、俺のもとを訪ねよ。すべての言葉は俺が用意する。なに、案ずることはない。この一年が平和であったように、これからもこの平和は続くであろうよ」

 20余年、まさにその通りであった。

 日食の、なんと恨めしいできごとであっただろうか、あるいは、天照大神のごとき神からすれば、20余年など、ほんの瞬きのごとき間でしかなかったのだろうか。


 弟王は結局、台与の立つ矢先、大乱の内にその命を散らした。



  3




 高台に立つのは白装束をまとった少女、彼女には過ぎた代物であろうか、ゆるやかに吹く風にその裾が揺れている。

 手を伸ばせばさらには白い手がその袖から現れる。彼女の後ろには妖艶な、ただあるだけで周囲をひきつけてやまない魅力ある女性が立っている。彼女であればおそらくは、一人になろうとも恐れるものはなにもあるまいに、前に立つ少女に従うように、さらには見守るように少女の挙動を窺っている。

「暖かくなったな」

「ええ。前は雪が降っておりました」

「気の早い桜はすでに散ってしまった」

「ええ。すぐそこに夏が迫ってまいりましょう」

「そうだな、この仕事が終われば夏となろう」

 少女の伸ばした手の平に、白い玉が舞い落ちる。

「いびつな形をしているな。これはいつのことであるか?」

「これはまた、かなり古いものですね。大陸では三国が相争っていた頃のこと」

「邪馬台国か。となると、その相手は卑弥呼。彼女は逝こうとしているのか?」

「それを決めるのは姫ではありません」

「分かっておる」

「どうか、気を確かに」

「本当に、なんと長くこの枷の続くことか」

「姫さま」

「案ずるな、感傷よ。衣通郎女でさえ、はるか昔にその業を終えたというのに、あたしの罪はなんと重いのだろう」

「その果てまで、お伴致します」

「酔狂だ」

「ええ、そう思います」

 玉が消えるとともに、二人の姿も失われる。

 酔狂だと、女郎蜘蛛は思う。どれほどの罪を彼女は犯したのだろう。秋去り姫をこの業に導いたのは衣通郎女であったが。あのときのでき事は、真実なのだろうか? あの生き地獄を生き抜くほどの力が、この少女にあったのだろうか?

 高台に、黒い影がふと現れる。

 その口元が、不気味に笑う。

 否、それに口はない……



  4



 秋去り姫は、御簾に背を向けて座る女性に相対して立つ。

「お前が卑弥呼か」

「人では、ありませんね」

「一言目からしてそれか。お前こそ、人ではないのではないか?」

「わたくしは神の依代。人であって、人であってはならないもの」

「なるほどな、その言葉、あたしにもよく当てはまろう。あたしは人であって、人でない。お前と同じではないか」

「わたくしは、どちらかと言えば人。あなたはどちらかというと人ではない」

 ダン、と強く秋去り姫は板張りの床を打つ。

「ならば、あたしの力をもってして、お前をこの時に殺めることができるのだぞ」

「……好きにすればよい。わたくしももはや、この地に未練などない」

 これは異なること、と秋去り姫はいぶかしがる。だとしたら、三瀬の河を漂うこともなかろうに、なぜ彼女を導かねばならないのだろうか。それとも言葉とは裏腹に、この生に執着しているのだろうか。

 凛と睨むその瞳に、秋去り姫は真意を測りかねる。

「嘘だな。お前は、死を恐れている」

「わたくしには神の言葉が聞こえます。わたくしの運命を知っています。これから先何が起きるのか。数多ある未来のその先まで」

「なるほど。では、あたしがここでお前を殺さないということも知っているということか」

 その言葉に、卑弥呼は笑みを見せる。わずかに老衰の見え始めた口元のしわが、その笑みが作ったものではないことを教えている。

「確かに、どう言ったところであたしはお前を殺せない。お前があたしに触れようとも、触れられぬように、また逆もしかり」

「つまらぬものよ」

「自分の未来を知っていることが、か?」

「卑弥呼であることが、ね」

「優越であろう?」

「囲われているだけ。自由がない。わたくしはこんな人生を望んだわけじゃないのに。神の言葉が聞けるからと言って、こんなところに閉じ込めて。みんなわたくしのことを恐れたのでしょう」

「お前ならば、その追手を逃げ切ることができたであろう」

「その未来に失うものは多い。わたくしがここにあることが、この地において最も必要なことなのよ。それに、あなたの名前は何と言うの?」

「なんだ、藪から棒に」

「わたくしのことを卑弥呼と人は呼ぶ。けれど、それは身分であり、わたくしの名ではない。誰も、わたくしの名を呼んでくれない」

「なるほどな、未練などないわけだ」

「あなたの名前は?」

「秋去り姫、あるいは棚機女と呼ばれることもあるな」

「それは、あなたの真名かしら?」

「そうでなければ、何だというのだ?」

「あなたの誤った記憶が作り出した、間違った名」

「……神の、言葉か?」

「わたくしなら、あなたの記憶を呼び覚ますことができる」

 凛とした瞳が、まっすぐ秋去り姫を射抜く。

「いきなさい」

「止めろっ」

 それはあたしの言霊だと、秋去り姫が叫ぼうとしたときには、すでに卑弥呼の体から彼女が飛び出し、秋去り姫を貫いていた。


 残された体は、そこに倒れる。

 女郎蜘蛛がかけつけた時には、秋去り姫もそこに倒れていた。逝ってはいない。眼を開き、がくがくと震えている。

「姫さま!」

 何度も女郎蜘蛛が呼びかける。

「姫さま、姫さま!」



 秋去り姫の、記憶が、よみがえる。



  5


 みとせ、ふたとせ、ひととせと、ゆるり数えてなんとせか。花の弁を浮かべては、ゆるりゆるりと放れゆく。

 小船に黒く渡し守、ただ懐かしく、闇夜に伸びた八角の樫の木を河につきさして、ゆるりゆるりと舟を揺らす。

 綾衣薄衣美しく、花を手折る指の細く、黒の髪は闇に溶け、まだいとけない口元の、ぽそりぽそりと音の鳴る。

 すらと伸びたまつげの下に、赤と青の交じりたる瞳は細く閉じられて、もちのように膨れたる頬は桃に色づいて。

 少女は何を謡っている。

 何を謡って、泣いている。

 儚い少女の座り姿に、渡し守、自然と涙が浮かびきて、耳を澄ませば小さな声で、少女が繰り返し、音を吐く。

 いきなさい、

 いきなさい。

 河の真中に揺れている小舟の姿儚くて、月隠の暗き闇夜には、離れた岸辺に見えるものなし。

 いきなさい、

 いきなさい。

 少女の目には、赤と青の涙、涙。


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