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月隠の詩  作者: なつ
12/13

拾遺集 冬


     1



 ほら、雪が降っているよ。

 世界も、あたしたちも、すべてを白く染めてしまうの。手を伸ばせば、ひんやりとした冷たさがね、感じることができる。懐かしい、かな。

 だって、あたしはどれだけこの雪に触れていたとしても、震えることもないし、きっと裸でこの雪の中を駆け回ったとしても、死んでしまうこともないのだろうから。だから、冷たいって感じられるのは、懐かしいの。

 だから、もう少しだけ、この感覚を味あわせて。

 あたしのわがままだけど、あの言葉を告げるより先に、あと、少しだけ。


 すやすやと眠る少女のその顔はまだ幼く。白いシーツのあちこちに。まるで我が子をあやすように少女の頭を撫でる手のまるで人形のような美しさの。

 かつては浄蓮じょうれん絡新婦じょろうぐもと呼ばれた女はその長い睫の先から柔らかな瞳を少女に落とし。

 この小さな身体に何と思い責を背負っていることか。できることならば肩代わりをしてあげたいと心からそう思い。

 いつかは彼女に似た境遇の衣通郎女そとおしのいらつめと争ったことがあるけれど。その郎女の周りにはいつも彼女に従う朔と玉。

 せめてそのように。

「可愛そうな子」

 女は声に出さずただ少女の頭を撫でる。

 その抱える罪の重く。

 未だ思い出すことのない、少女の記憶の、永く失われたままに。


 都の喧騒から少し離れた高台に、女と少女は立つ。

「次はいつの話だ?」

「分かりません。ですが、寒い季節のようです」

「そのような感覚は失われた。分かるか、だんだんとそういうものが失われてゆくのだ。ただ、心のない器のように。きっとあたしなんて、この世界にあっても何の価値もない」

「いいえ、姫、どうかそのようなことを言わないでください」

「疲れたな」

「その先まで、お供します」

「酔狂だ」

「構いません」

「それで、そいつは死にたいのか、生きたいのか?」

 女はそれに答えず、ただ手を伸ばす。そこに、自然と白い玉が降りてきて二人を包み込む。

 高台に、もはや二人の姿はない。


 ほら、雪が降っているよ。




  2



 あかねさす むらさきのゆき しめのゆき のもりはみずや きみがそでふる



 風は冷たく、北から雪を運びくる。そこにはただ一人しかおらず、誰も彼女を見咎めるものはいない。長く黒く艶やかな髪は北からの風を受け、毛先だけがわずかに揺れている。そっと彼女は手を伸ばし、手に握られていた木櫛を投げた。

 綺麗な孤を描き、櫛は空を飛ぶ。

 風に負けることなく、下へ。

 何にもぶつかることなく、はるか眼下に広がる大海原に櫛は消えた。

「だからといって、わたしにどうすることができると言うのか」

 姿とは裏腹に、苛立った口調で彼女は言った。他に誰もいない。一人言であろう。

「時の帝に逆らうことなど、わたくしにはできぬ。わたくしの心など、帝は愛してくれぬ。ただ体だけを捧げればいいというの? わたくしに耐えられるかしら。でもだめ、耐えなくては。わたくしが耐えなければ、あの人が殺されてしまうかもしれない。それならわたくしの体くらい、何よ、わたくしは何だってする。感じて欲しいならいくらでも感じてやる。それが帝の望みだというのなら、いくらでも淫らになってやる、何よ。だけど、どれだけ望んだって、わたくしの心はやるものか。わたくしはすべてあの人のものなのだから」

 独白は小声で、もし一間に人があったとしても聞きとることなどできないほどであったであろう。その口元は、言葉の端々に強く結ばれ、けれど震え。自らの意志を奮い立たせ、けれども恐怖に怯えている。瞳も同じだ。大きな黒い瞳は、涙に濡れ、強く光るが、時折うつろに消えそうになる。

 放っておけば、そのまま前に進み、彼女もまた孤を描き、その大海原に身をささげてしまうかもしれない。否、すでにその足は動き、その身を空にささげようとしている。彼女の中の揺れる意思は、そこまでもろく、もはや朽ちようとしている。

「女」

 彼女の後ろに、今までなかった少女の姿があった。白装束を身にまとい、その袖は北からの風に強く揺らめいている。驚いた彼女は振り返り、そこにいないはずの少女の姿を見つける。

「自らの命を絶つのは容易い。それがお前の意思ならば」

「誰よ」

「冬のことであろうと、あたしのことを誤解しているものもあるな。だが、そんなことはどうでもいいことだ」

 少女とは思えぬ言葉に、彼女の瞳に疑惑浮かぶ。

「だが、そのようなことはこの際には大した意味はなさぬ。そうだな。お前からすれば、あたしは死そのものかもしれぬな。お前に死をもたらすものであるから」

「……誰なの。わたくしのことを知っているの?」

「聞いてはいたが、それを誰かに告げる気はない。そのような瑣末なことには興味がない」

「お願いよ、誰にも、言わないで」

「だから誰にも言わぬよ。信じられぬなら、あたしを殺すがよい」

 少女がまっすぐ彼女を見る。黒い瞳の奥に、赤と青の不思議な色が踊っている。けれど、その瞳には濁りがなく、清らかそのものだ。彼女は手を伸ばし、少女ののど元を掴もうとした。

「!!」

「あたしには触れぬよ」

 彼女の手は、少女の体の中にある。けれど、何も存在しないがごとく、手は何も感じない。ただ北からの風を受け、ひんやりとした冷たさがあるだけだ。

「あたしはお前に死をもたらすことができる。だが、それは今ではない。お前にはまだやらねばならぬことがあるようだからな。いつかまたあたしと出会ったならば、その時こそが最期かもしれぬ」

 少女は消えた。

 目の前にあったというのに、まるで初めから存在しなかったごとく、彼女は目で見ていたはずだというのに、それさえも信じられないほどに、忽然と。

 残された彼女は、その場にただ一人。北からの風にただ身を任せ、けれど、もはや自らの体をその空へ投げ出す思いはない。自らが一人言で呟いたように、それならば耐えてみせようと。

 愛すべき大海人皇子のために、生きて、耐えようと。

 少女の口元には、ただの強い思いだけが結ばれる。




  3



 かつては秋去り姫と呼ばれたことがあった。秋去り衣を織っていたときもあった。衣通郎女のために、白装束を織ったこともあった。

 あった。

 あった。

 すべては過去のこと。

 過ぎ去ったこと。

 今の彼女を、何と呼べばよいであろうか。彼女に従う絡新婦は、さびしく、音もない部屋に眠る彼女の頬をそっとなでる。

 いとけない幼子の、ふっくらとした頬。彼女は何を思い、この業に身をやつしているのだろう。

 衣通郎女は、兄との禁断の恋を罪とし、その業を購った。

 彼女の罪はなんであろう。

 彼女をここに導いたのは、衣通郎女だった。

 時を超えた、あるいは止まった世界からすれば、不思議なことではない。秋去り姫と衣通郎女は、お互いにお互いをこの業に駆り立てた。

 衣通郎女であれば、彼女の罪を知っているだろう。けれど、彼女はもうない。だから確かめようがない。

 ただ、彼女が思い出すのを、待つしかできない。


 雪が降っていたあの日、今回の業に旅立つ矢先のことだった。

 彼女は、声にならないほどの声で言った。


「雪が降っているよ」


 世界が白く染まる。


 ほら、雪が。





  4



 むらさきの におへるいもを にくくあらば ひとづまゆゑに われこひめやも



 そんな洒落た歌をあの人は返して下さいました。宴会の席で、ええ、わたくしの夫であり、天智天皇もいますのに。ええ、あの場でしたから、あれはただ笑うことしかできなかったでしょう。いい気味でございました。

 わたくしとあの人とのことは、みなご存知のことなのでしょう。わたくしの元夫でもありましたから。そして、わたくしがどちらを愛しているのかも、傍からみたらよく分かるでしょう?

 わたくしが強い女?

 いいえ、そんなことはございません。わたくしは、なんと弱い女なのでしょう。あの人とともにない人生など、なんの価値がございましょう。

 ねえ、あなたにも、愛する人があるの?


 答えてくれないのね。


 あの人は怒り狂いました。何と裁量の狭い男なのでしょう。人前では笑っておきながら、わたくしと二人になると、それはもうけだものそのものでしたわ。後のことを考えてるつもりなのでしょう、顔には一切手を出しませんでしたが。このあざが見えるでしょう? 黒く濁って。本当にわたくしの心そのものです。

 ああ、黒く、濁ってしまえるならば、それほど楽なことがあるでしょうか?

 これでわたくしのことを制したとでも思ったのでしょうか? あの人は、ことが終わると満足げに私の髪を、ああ、自慢の髪だというのに、乱暴に掴むと、にやりと笑いましたわ。

 その間、わたくしは絶えず大海人皇子のことを思っていたというのに。

 いい気味でしたわ。

 ねえ、あなたに、こんな思いが分かるかしら?


 ……


 答えてくれないのね。




 そこにいるのでしょう? いつかわたくしのなくした心をつなぎとめてくれた方、今は姿は見えませんが、確かにあなたを感じます。

 ねえ、いるのでしょう?


「お前には娘があるのだろう、愛する人との間にできた」


 ああ、やっと答えてくださったのね。わたくしの後ろにありますか? それとも、見えていないだけで、すぐ前にあるのかしら?

「そうであれば、幸せであろう。その中にあって、姫の心を乱すのであれば、わたしはお前を許さないよ」

 姫?

「残念ながら、わたしはお前が求めている存在ではない。その姫につき従うものに過ぎぬ。だが、それでも姫を慕っている。姫のためなら、この命、どれだけ使おうと惜しくない」

 そう。いいえ、ごめんなさいね、あなたでもいいわ。わたくしの想いを聞き届けてくれるのなら。

「それを決めるのはわたしではない」

 それなら伝えて。

「それを決めるのは姫でもない。姫はただ導くだけ。決めるのはお前自身だ。だが、お前がこのままその命を絶つというならば、三瀬の河にその魂は永遠に漂うことになる。姫の役目はそうならないよう、魂を導くことだけだ」

 来世でわたくしは幸せになれるかしら。

「無理だな」

 寂しいことをおっしゃるのね。あなたも、過去に愛する人があったのかしら?

「三瀬の河の先には何もない。人間は、死ねばそれで終わりだ。甘い期待など持たぬことだ」

 まあいいわ。最後にあなたがたのような存在に巡り合えて。それをせめてもの救いと思いましょうかしら。

「好きにするがよい」

 そうさせてもらうわ。



  5



 ほら、雪が降っているよ。



 積もるほどの雪など、どれほどの月日振りであろうか。少女と女は、崖のはるか上から見下ろしていた。

 そこはかつて額田王ぬかたのおおきみが自らの命を捨ててしまおうと、まずはその櫛を投げ捨てた場所であった。

 今は、わずかに降る雪の、白く染まった大地の上に、足跡が残されている。額田王その人の足跡だ。小さな歩幅で、それでも引きずることなどなく。

「あれを導くのはあたしの役目だった」

「承知しています」

「なぜ、あたしに黙ってあれに話しかけたのだ」

「申し訳ございません、姫」

「それでは、あの魂は永遠に三瀬の河をさまようことになる。ほとりのない今、再びあれに介入することはできぬというのに」

「申し訳ございません」

「お前は、そうまでしてあたしに従いたいのか。お前は、ほとりと戦うためだけの道具でしかなかったというのに」

「申し訳ございません」

「怒ってはおらぬよ」

「申し訳ございません」

「あたしも、お前があって救われた部分もあるからな」

「……ありがとうございます」

 少女と女は消える。


 雪が降る。

 崖に残された足跡は逝き、また帰る。

 その足跡も、新たな雪に消えようとしている。


 ほら、雪が降っているよ。



 はるか後、けれど時のない三瀬の河に、魂が来る。まるで闇の中を光る雪のように。

 渡し守、ただ独り。

 それを見守る。


 その口元が、わずかに動く。

 けれどその声は、聞こえない。


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