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月隠の詩  作者: なつ
11/13

第拾話 兄妹

  1


 ゆるり、ゆるりと流れゆく。三瀬の川に、舟一隻。八角の樫の木をただ渡し守、繰り返し、ゆらり、ゆらり、漂いて。

 小船の上には、白装束の、少女の小さく畏まり。時折水面に、手を伸べて、広がる波紋の、鐘のよう。

 闇に浮かぶ少女の姿の、小さく白く、輝いて。闇に溶ける少女の髪の、黒く長く棚引いて。

 まだいとけない少女の頬の、わずかに色づき、膨らんで。

 その先にある唇の、わずかに引いた紅の色。

 ただただ同じ音の、繰り返し、繰り返し。

「いきなさい、いきなさい」

 少女の瞳に赤と、青。そのまま外に零れ落ち。

 空よりひらり、舞い落ちる、泡のごとき玉一つ。少女の伸ばした細い手に、迷うことなく収まりて。

 いつからいたのか少女の後ろに、大人の色香を振りまいて、怪しくたたずむ姿は蜘蛛のように。

「これはいつの時代のことかしら」

「行けば分かる」

「そうね。でも、あたしの言葉に何の力もない」

「いいえ、姫。あなたの言葉には力がある」

「ないわ。だって、あたしはただ導くだけ」

「それがどれだけの救いになっているか、あの時あなたが教えてくれた」

「違う、ただ利用しただけ」

「それでも姫、わたくしはあなたに従います」

「ありがとう」

「さあ、行きましょう」

「はい」

 すでに二人の姿なく、三瀬の河に渡し舟。静かに波に漂いて、闇夜に浮かぶ、ものはなし。



  2


 ささばに うつやあられの

 たしだしに ゐ寝てむのちは

 ひとはかゆとも

 うるはしと さ寝しさ寝てば

 かりこもの みだればみだれ

 さ寝しさ寝てば

          (古事記 人代篇 其の八より)


 木梨之軽のその歌は、軽大郎女を詠んだものだった。軽大郎女はその美しさから、衣通郎女と呼ばれ、皆に慕われていたものだが、その歌のために、周りから多くの非難を受けたものだ。

 愛を深く歌ったものでありるが、二人は兄であり妹であった。同じ腹から生まれたのであればこそ、それが叶わぬ愛であることは明らかであったし、そして、にも関わらずその愛を貫こうとすれば、先には何もないことなど、明らかなことであった。

 木梨之軽の弟、穴穂命はこの事件をきっかけに、多くの味方を得て木梨之軽に戦いを挑んだ。戦いはあっけないものだ。木梨之軽に勝てる要素などまるでなく、早々にして勝敗はついてしまった。

 衣通郎女はそのとき、どこでどうしていたであろうか。きっと気丈な姫のこと、それでも宮中に座し、揺れることがなかったであろう。いや、そこまでは気丈ではなかった。いやいや、やはり気丈であったというのが正しいだろう。木梨之軽が伊予に流されるとなったとき、ただ一度だけ応えた歌があった。


 なつくさの あひねのはまの

 かきかひに 足ふますな

 あかしてとほれ

          (古事記 人代篇 其の八より)



 それでも愛しています、最期のときまで一緒にいたいと、彼女は返したのだから。

 衣通郎女は、離れていく舟を見ながら、ずっと羽衣を振っていた。それが、わずかに点ほどの大きさになるまで。

「いきなさい」

 彼女の後ろから声が聞こえた。芯があり、力のこもった声だ。いつか聞くことになる秋去り姫の、しわがれた声とは違う、迫力があり、それだけ彼女の心にまっすぐと突き刺す声だった。

「いきなさい」

 再びの声に、けれど衣通郎女は応えることができなかった。左右に揺れる羽衣がまるで時を失ったように、止まっていた。

 肉体から離れた衣通郎女は、導かれるように秋去り姫に連れて行かれた。


 その、数刻も置かず後、まさに同じ場所に衣通郎女は立っていた。わずかに見える舟の大きささえ、あのときのまま、点のごとく。羽衣はゆっくりと、けれども風に揺れ、そしてやがては彼女にまとわるように、落ち。あげていた手も、ゆっくりと下ろし。

 戻ってきた、と声に出すことなく彼女は思う。何と言ったかしら、罪が、贖われた? 私の罪が許されることなんて、有り得ないことなのに、それが許された?

 静かに彼女は首を振る。

 そうではない。ただ、私がどうすればいいのか、を分かったに過ぎない。私がお兄様を愛した罪が、許されざるものだということを知っているからこそ、私は、私の務めが終わることがないと知っていたのだから。

 果てなく、あそこで人の生死を見送り続けることができたとしたら、私は幸せだったのだろうか。

 いいえ、いいえ。

 私は分かったしまったから。

 かぶりを振り、衣通郎女は歩き出した。そして静かに歌を歌う。


 きみがゆき けながくなりぬ

 やまたづの むかへをゆかむ

 待つには待たじ

          (古事記 人代篇 その八より)


(笹の葉に 打ちつける霰はたしだしと

 たしかにしかと 寝たのちは

 たとえ人など離れても

 うるわしいとて 共寝をしたならば

 世は刈り菰に似て 乱れるなら乱れてしまえ

 ともに相寝て過ごせるならば)

(夏草の繁る 共に寝る阿比泥の浜の

 貝の欠けらで 足などを踏み抜きなされるな

 どうぞ朝までそばに居て)

(あなたのお出まし 長く日は過ぎぬ

 ヤマタヅのごと 山を尋ねてお迎えに

 とても待ってなどいられませぬ)



  3


「ほら、あたしはただ利用しただけ」

「そのようなことありません、姫。あの長い時があったからこそ、彼女はそれを選ぶことが出来たのです」

「そうかしら、きっとあたしが呼び止めなければ、彼女はもっと幸せなときを過ごせたのではない?」

「彼女が何に幸せを感じるのか、わたくしには分かりません。ですが、兄と妹であれ、彼は愛し、彼女も愛していた」

 伊予への船の甲板に衣通郎女は立っている。西から刺す太陽の光に、彼女の白装束は半ば透けるように、肌の形もあらわに見える。軽大郎女が衣通郎女と呼ばれるのは、なるほど、そういうことなのだろう。

 あまりにも美しく、同姓であれ、つい見惚れてしまうほどだ。そしてその心に、恋し止まないものがあればこそ、一層にして彼女を美しくしている。

 秋去り姫と同じほどの歳の、まだ幼いと思われるかもしれないが、おおよそ十を越えてしまえば、嫁ぐ先など親に決められてしまうだろうに。宮中にあって、それでも愛する兄と過ごし、互いに交わした夜は幾たびか。

「それに、姫。姫が彼女を導いたのには、きっと他の意味があると思う」

「何だ?」

「それは、わたくしが口に出すことはできません。それは姫の、忘れ去られた記憶にあるはずだから」

「あたしの罪はまだ許されない」

「それでもいつか許されます」

「そうね」

 西への船は伊予へ。

 その後を二人は追っている。

 再び、あの言葉を告げるために。



  4


 こもりくの はつせの山の

 おほをには はたはりだて

 さををには はたはりだて

 おほをにし なかさだめる

 おもひづま あはれ

 つくゆみの こやるこやりも

 あづさゆみ たてりたてりも

 のちも 取りみる

 おもひづま あはれ


 木梨之軽は伊予に衣通郎女が向かっていると知り、また伸ばして歌う。


 こもりくの はつせのかはの

 かみつ瀬に いくひを打ち

 しもつ瀬に まくひを打ち

 いくひには かがみをかけ

 まくひには またまをかけ

 またまなす あがもふいも

 かがみなす あがもふつま

 ありと言はばこそに

 いへにもゆかめ

 くにをもしのはめ

          (古事記 人代篇 その八より)


「いきなさい」

 伊予で木梨之軽と衣通郎女が会ってすぐに、秋去り姫は言った。時は遅くなり、衣通郎女はすっと身体から抜け出すと、振り返りまっすぐと秋去り姫を見る。

「いきなさい」

「その言葉に、これほどの力があるなんて、私には分からなかった」

「本当に、いいの?」

「あら、お前からそんな言葉を頂けるなんて、殊勝」

「あの人が、二度と戻って来ぬのなら、私の心を捕らえるものなし。あなたは長い勤めの中で時々その歌を繰り返していた」

「ええ、覚えてる。でも、あの人が誰かなのか、どうしてそんな歌を歌っていたのか分からなかった」

「あなたは、あの人が二度と戻って来ないという絶望の中で、あの人を追うことに決めた」

「いきなさいと、お前が言った」

「そう。あたしが言った。それに、あなたが何百回と何千回と繰り返してきたことばだもの。いつか、あなたがその選択肢に気がつくとあたしには分かっていたわ」

「いきなさいと、そしてお前は今また私に言っている」

「あなたは、どちらを選ぶの?」

「兄と結ばれることはない」

「来世なんてないと、あなたは知っているのでしょ」

「知っている。だからこそ、あの人と結ばれたまま逝ってしまいたい。無理やり引き裂かれるのはいや」

「そうね。きっと見つかれば、あなたたちは離れ離れに殺されてしまうのだもの」

「だからお願い。私とあの人がつながっているときに、その最期の瞬間に、私とあの人を殺して」

「あなたとの付き合いは長いもの。叶えてあげるわ」

 すっと、秋去り姫の存在が小さくなる。

「待って」

 衣通郎女は呼び止めた。そして、自らが着ていた白装束と、長く棚引く羽衣を秋去り姫に手渡す。

「これを、あたしに?」

「お前と過ごした日々は止まっていたけど、悪くなかった。それに秋去り姫、お前には羽衣がよく似合う」

 秋去り姫の存在が消える。


 やがて、聞こえたか聞こえないか分からないが最期の言葉を彼女は紡ぐ。

「いきなさい」


(山に籠もる 泊瀬の山の

 その高い嶺には 長い幡を張り立て

 小さな嶺にも 幡を張り立てる

 大きいのと小さいのとの間に その仲を契り

 心を掛けたいいとしい妻お ああ

 伏せ置いた槻の木の弓の 寝ている時も

 立て掛けた梓の弓の 起きている時も

 いついつまでも 変わらずに見続けていたい

 心を掛けたいとしい妻よ ああ)


(谷に籠められた 泊瀬の河の

 流れの上には 忌み杙を打ち立て

 流れの下には 真杙を打ち立て

 忌み杙には 鏡を掛け吊り

 真杙には 大きな玉を掛け吊り

 大きな玉のごとくに 思い続けるいとしい妹よ

 鏡のごとくに 思い続けるいとしい妹よ

 お前が待っていると 言うからこそ

 家にも行きたいと思うのよ

 郷を懐かしく思うのよ それが今はもう)



  5


 みとせ、ふたとせ、ひととせと、ゆるり数えてなんとせか。花の弁を浮かべては、ゆるりゆるりと放れゆく。

 小船に黒く渡し守、闇夜に伸びた八角の樫の木を河につきさして、ゆるりゆるりと揺れている。

 綾衣薄衣美しく、花を手折る指の細く、黒の髪は闇に溶け、まだいとけない口元の、ぽそりぽそりと音の鳴る。

 すらと伸びたまつげの下に、赤と青の交じりたる瞳は細く閉じられて、もちのように膨れたる頬は桃に色づいて。

 少女は何を謡っている。

 何を謡って、泣いている。

 儚い少女の座り姿に、渡し守、自然と涙が浮かびきて、耳を澄ませば小さな声で、少女が繰り返し、音を吐く。

 いきなさい、

 いきなさい。

 河の真中に揺れている小舟の姿儚くて、月隠の暗き闇夜には、離れた岸辺に見えるものなし。

 いきなさい、

 いきなさい。

 少女の目には、赤と青の涙、涙。




(「口語訳古事記完全版」文藝春秋刊から歌・訳を引用しています)


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