第玖話 贖罪
1
会いたい。
会いたくても、もう、会えない。
あの人は、遠くへ行ってしまったから。
遠く、遠くへと。
遠く、もっと遠くへと。
そう、
私は、どうしてこんなにも遠くへ来てしまったのだろう。
会いたい。
会いたい。
三瀬ほとりは目を覚ました。悲鳴でも上げてしまうのではないかというほどの、恐怖が体の中を走っている。息は上がり、汗を感じる。
大事なものを失ってしまった。
それは、何なのだろう。
布団から這い出るように起き上がると、聞きなれたあの音がないことに気がつく。
静かだ。
ただあるのは、虫の声。
部屋の隅にある機織の前には、誰もいない。小さな座布団がその前にあり、そこについ先ほどまで誰かが乗っていたのであろう、跡が、残されている。
月が、
隠れる。
三瀬ほとりは縁側まで歩いた。庭先には三人の、否、人ではない。一人は僧のいでたちの朔。あれとの出会いはどこでであったか。確か元は人であった。一人は絹のような金髪の、大きな耳に九つの尾。かつては世界を駆け巡った妖怪であったか、今はただ玉と。残るは絶世の、けれども毒のある女。浄蓮の絡新婦、滝に濡れたその姿は怪しく、妖しく。
「お嬢様」
朔が起きてきた三瀬ほとりに気がつき、縁側に歩いてきた。
「いつから、機の音がなくなった?」
「分かりません。ここに時はありません」
「そうだな。あちらも、気がついているということだ」
「けれど無策」
「お前たちには苦労をかけるな」
「最果てまで」
「そうだよ」
玉が尻尾を振りながら微笑む。
女郎蜘蛛も、ただ微笑む。
2
もはや、失うものなど何もないと、細川玉の、年経てもなお色ある唇がそう言っている。
「いきなさい」
という言葉に、けれど彼女は耳を傾けない。三瀬ほとりを見えているはずなのに、それに気がつかない。あと数刻を経ずしてこの城は燃え落ちてしまうであろう。それなのに、細川玉は動かない。
「このままでは、お前はお前の信ずる教えに背いたことになる」
三瀬ほとりは細川玉の後ろに立ち、その背に手をかける。けれど、彼女に触れることができない。彼女が気がついていないのだから、仕方がないことだ。
炎がさらにうねりをあげて彼女に迫ってくる頃、ようやくにして、彼女の心に思うところがあったのか、その閉じられ自らを律していた瞳から一粒の雫が流れ落ちた。
「ええ、顔向けが出来ないわ」
三瀬ほとりの手が、細川玉の肩に触れる。驚いたのか、彼女の肩がビクンと揺れる。けれど、それはすでに肉体から離れた反応であった。
時は遅くなり、揺らめく炎ですらその目で追うことができるほどに。
「いきなさい」
三瀬ほとりは、もう一度その言葉を告げる。
「あなたは何? 天使さまかしら、それとも、そうね、私に天使さまが迎えに来て下さるはずなんてないもの。悪魔の使いに違いないわ」
「お前の信ずる世界ならば、私はそのどちらでもないよ。まだ、お前の行く末は決まっていない。もっとも、お前が信ずる死後の世界なんて、どこにもないがな」
「ひどいことを言うのね」
「それが救いになることもなる。お前の意思さえあれば、お前はまだこの先も生き続けることが出来るであろう。それを自ら捨てるのであれば、それはお前の信ずる教えに背くことになる」
肩に乗せられた三瀬ほとりの手に、彼女は頬を寄せた。
「そうね。そうかもしれない。でも、私にはどうすることもできない。いいえ、もうこれ以上この世にあるわけにもいかない」
「それはお前の勝手だ」
「ええ、自分勝手なこと。本当に、世のすべてが勝手。忠興様は、その中でも最も勝手な方だわ」
勝手だと繰り返す彼女の表情は、怒っていない。むしろ慈しみか、愛しさか、慈愛の相が浮かんでいる。
「ねえ、聞いてくれるかしら、本当にあの人はひどい人なのよ」
その美しい声が続ける。
細川玉の父、明智光秀が本能寺で謀反を起こしたことは、たちどころに彼女の耳にも届いた。それは織田信長を滅ぼすに値する、見事な謀反であった。が、細川忠興は、父の名を細川藤孝といい、織田信長の家臣であった。本来ならば、細川玉の命など、そのときに潰えてしまったであろうに。けれど、細川忠興はそうしなかった。政略結婚の多い世にあって、細川忠興は細川玉のことを心から愛していた。
ゆえに、細川玉は丹後の山中に長く幽閉されることとなった。それでも細川玉は嬉しく、その幽閉のときを堪えることができた。細川玉も細川忠興のことを深く愛していた。
2年を越える幽閉のときから放たれ、細川玉は忠興のもとへと帰った。
「勝手だわ」
と、細川玉は独白の最中に何度も口にする。
細川忠興は側室との間に子を設けていた。愛し、愛されていると信じていた相手の裏切りなど、戦国の世にあって常であろうに。嫉妬に狂う気持ちは、表に出すことなどできるはずもなく。
細川玉は、程なく、外の国の宗教を信じるようになった。それほどまでに、細川玉の心は深く傷ついていた。やげて、彼女のその思いは、洗礼という形で叶えられる。
洗礼の名は「ガラシャ」、恵みという意味だったかしら、と再び細川玉は勝手ね、と口にする。細川忠興は、自ら側室を置いたにも関わらず、細川玉に外出でさえも禁じるほどであった。
「あの人は、二人のときに言ったわ。好色な秀吉に、私を盗られたくないって」
それが故、細川玉は、二度とここから離れることなどできるはずもなく。それがため、それだけ細川忠興のことを愛していたともいえる。
石田三成が人質にと、細川玉を要求したときに、その要望に応えることなどできるはずもなく。
「ええ、だからといって、私は自らの命を絶つことさえもできないのだから」
細川玉の、頬のぬくもりが、三瀬ほとりの手を通して伝わってくる。これほどの暖かさがまだあるのだから、彼女はまだ死ぬべきではないと、三瀬ほとりは心の中で何度も叫ぶ。
けれど、それを決めるのは三瀬ほとりではない。三瀬ほとりに許されているのは、ただ一言を告げるだけ。
「いきなさい」
再び、三瀬ほとりはその言葉を告げる。
カランと、刀身の長い剣が、細川玉の横に転がった。もはや、周りに誰も残されていないにも、関わらず。二人は驚き、互いの眼を合わせる。
三瀬ほとりは、策、玉、女郎蜘蛛の、誰も今近くにいないことを知っている。残されている答えは多くない。
「それをあなたが求めるのなら、あたしたちはそれに応じなければならない」
三瀬ほとりと、同じほどの背丈の少女が、同じように白装束を身にまとい、二人の近くにあった。
「秋去り姫」
「この姿で直接会うのは、初めてのことね。でも、とても大切なこと」
「あなたは、私に出来ることはただ告げるだけだと言った」
「いいえ、言っていない。あなたがそう解釈しただけ。ガラシャを真に救うには、ここで彼女を殺さなければならない。あたしか、あなたが」
「だけど、死の先に何もない」
「それを決めるのはあたしたちではない。彼女よ」
「お願いするわ」
細川玉は、刀身長い剣に軽く触れてから、静かに俯く。
三瀬ほとりは、その剣を手に持った。
3
月隠の月隠、大晦日の夜。
世界は闇に包まれ、どこまでも深く、遠く、どこまでも、静かで、恐ろしく。けれども、愛おしく、狂おしく。
残された動物たちの咆哮と、風さえも凪ぎ、わずかな草を踏む音と。
秋去り姫と衣通郎女。
二人は互いに向かい合い、両手を伸ばし互いの手を握っている。
一人は、その表情に怒りと悲しみ。
一人は、その表情に慈しみと憎しみ。
白装束の赤に、青に。
揺れる瞳のその奥に、赤に、青に。
三瀬の河に、さすらうのはただ一隻の。
その対岸に見えるものはなにもない。
衣通郎女の後ろには三人の、人に似て人でないものたち。
生と死の狭間で、彼らは何を見て、何を思うだろう。
すべて捨ててしまえば、苦しむこともないだろうに。
すべて捨ててしまえば、ここにいることもないだろうに。
罪に穢れたその業の、
終わることは、
果てしなく。
いきなさい、いきなさいと。
何十と、何百と、ゆるり重ねて、いく億と。
一人は、その重荷に押しつぶされて。
一人は、それでも抗いて。
いきなさい、いきなさい。
いきなさい。
そのとき、何を選ぶだろうか。
4
炎は、すべてを焼き尽くした。後の人は、細川ガラシャは家臣に自らを殺させ、そして燃え落ちる屋敷とその運命を共にしたと思うであろう。
その名にふさわしい洗礼名と、多くの人に語り継がれるであろう。
三瀬ほとりは、秋去り姫の腕を離さなかった。震える手で、目の前に静かに座る細川玉を斬り、心臓は激しく打っている。
「そんなに強く握らなくても、あたしは逃げないわ。あなたはあたしに聞きたいことがあるのでしょう」
「山のようにある」
「あなたの望む場所に行くわ。あたし一人なら、あなたよりも強いだろうけど。あなたの大切な彼らを足し合わせれば、きっとあたしはあなたたちよりも弱くなる。その場所で構わない」
「それは助かる」
そのまま場所を越え、三瀬ほとりは己が勤めに寄る三瀬の河のほとりに来た。すでにそこには、朔と玉と女郎蜘蛛とが待っていた。
「あらら、本当に準備を整えておいでなのね」
さっとそこに降り立ち、二人は互いに向かいあう。互いに手を合わせたまま、その瞳はまっすぐ相手の目を見る。
「私が、お前をこの業に連れ出したのか?」
「そうよ。あなたが、あたしを導いた。そして、あたしがあなたを導いた。あたしもそれを知ったときは驚いたわ。だけど、考えてみれば不思議じゃない。だって、あそこに時は流れていないのだから」
「どうして?」
「それを決めるのはあたしじゃない」
「お前はもっと年老いていた」
「そう見せていただけ。油断させる必要があるのよ」
「分からない」
「今は、まだ分からなくもいい。だけど、すぐに分かる」
「そんな戯言、いらない!」
さっと、秋去り姫は手を離した。そして、懐から何かを取り出す。それは、とても小さな、斧のような、けれども、先は尖っていない。
「まずは、すべてを戻さないといけない。もちろん、これに何の力もない。こんなものを振ったところで、あなたに危害を加えることはできない。けれど、これは、ある人にとって、最高の脅威となるし、それが救いともなる」
「分からない、いちいち意味が分からない」
「これは玄翁といってね。殺生石の呪いを解いた神具なの」
「待って!」
後ろに立っていた玉が大声を上げる。
「あなたの罪はもう贖われた。いきなさい」
その言葉と同時に、玄翁を振ると、玉の姿は露と消えた。驚いた朔の両手を、女郎蜘蛛が抑える。
「朔よ、あなたの罪も遥か昔に贖われている。いつまでもここに留まっていい魂ではない」
「女郎蜘蛛!」
「残念。私と先に契約を結んだのは、ほとりちゃん、あなたじゃない。浄蓮の滝で私の話を聞いてくれたのは、秋去り姫よ」
「そうなの、このときまであなたに仕えるように、あたしがお願いしたの」
蜘蛛の糸が、朔の身体を縛り付ける。
「お、お嬢さま」
「朔!」
「無駄なこと。あれと朔とでは力の差は明らか。そして、あたしとあなたとでも力の差は明らかなこと。あなたはあたしに逆らうことはできない」
「もう嫌だ。意味が分からない。どうして、こんなことになるんだ」
「あなたが今流している涙のせい」
三瀬ほとりの両目から、たくさんの涙が溢れている。渡し舟の上で流す涙とは種類の違う、悲しさや空しさから来る涙ではない。もっと感情的な、爆発的な涙だ。
「あなたが、あたしの存在に初めて気がついたのはいつ?」
「甲斐姫の最期に立ち会ったとき」
「その通り。あたしも甲斐姫の最期に立ち会った。そして、あたしは細川ガラシャのときと同じように、彼女の最期を作った。それが救いになると分かっていたから」
「違う、彼女はあの時死ぬべきじゃなかった」
「いいえ、あなたは気がついていない。そのときから、あなたの力は失われていた。あなたに、彼女の死期を見る力はそのときなかった。あなたのいきなさいという言葉にも、もはや力はなかった。そうでしょう、それから後、生と死の狭間にいる人に、あなたの言葉が届いたかしら? いいえ、一度として届いていない。それに、もう一つ、あの甲斐姫のとき、あなたは普通ならありえないことを口にした」
「衣通郎女」
「あなたの真名。思い出すはずがない。あたしでさえ、あたしの本当の名前を知らないんだから」
「それが、何だって言うの?」
「分からないの?」
「分からない。全然分からない」
「あなたの罪は贖われた」
「……っ」
三瀬ほとりの表情が、何千と、何百との時を一瞬にして通り過ぎるように、凍りつき、変化し、そして、瞳が大きく開かれる。
「あなたはもう、許されたのよ。そして、思い出した。あなたがここに来ることになったことを、あなたには、まだやらなければいけないことがあることを」
「だ、だけど」
「あたしからあと言えるのは一つだけよ」
秋去り姫は、その瞳に感情を押し殺し、三瀬ほとりをまっすぐ見つめた。
「いきなさい」
5
みとせ、ふたとせ、ひととせと、ゆるり数えてなんとせか。花の弁を浮かべては、ゆるりゆるりと放れゆく。
小船に黒く渡し守、闇夜に伸びた八角の樫の木を河につきさして、ゆるりゆるりと揺れている。
綾衣薄衣美しく、花を手折る指の細く、黒の髪は闇に溶け、まだいとけない口元の、ぽそりぽそりと音の鳴る。
すらと伸びたまつげの下に、赤と青の交じりたる瞳は細く閉じられて、もちのように膨れたる頬は桃に色づいて。
少女は何を謡っている。
何を謡って、泣いている。
儚い少女の座り姿に、渡し守、自然と涙が浮かびきて、耳を澄ませば小さな声で、少女が繰り返し、音を吐く。
いきなさい、
いきなさい。
河の真中に揺れている小舟の姿儚くて、月隠の暗き闇夜には、離れた岸辺に見えるものなし。
いきなさい、
いきなさい。
少女の目には、赤と青の涙、涙。