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月隠の詩  作者: なつ
1/13

第壱話 雨脚

  1


 みとせ、ふたとせ、ひととせと、ゆるり数えてなんとせか。花の弁を浮かべては、ゆるりゆるりと放れゆく。

 小船に黒く渡し守、闇夜に伸びた八角の樫の木を河につきさして、ゆるりゆるりと揺れている。

 綾衣薄衣美しく、花を手折る指の細く、黒の髪は闇に溶け、まだいとけない口元の、ぽそりぽそりと音の鳴る。

 すらと伸びたまつげの下に、赤と青の交じりたる瞳は細く閉じられて、もちのように膨れたる頬は桃に色づいて。

 少女は何を謡っている。

 何を謡って、泣いている。

 儚い少女の座り姿に、渡し守、自然と涙が浮かびきて、耳を澄ませば小さな声で、少女が繰り返し、音を吐く。

 いきなさい、

 いきなさい。

 河の真中に揺れている小舟の姿儚くて、月隠の暗き闇夜には、離れた岸辺に見えるものなし。

 いきなさい、

 いきなさい。

 少女の目には、赤と青の涙、涙。



  2


 小雨が降っている。

「あの人は、どうしているだろうか」

 小袖を着た女は、宿りにと、茶店の軒先に立ち空を見上げた。三十路に入る手前ほどであろうか。それなのに、長い髪はひどく乱れている。まるで、その髪を振り乱して走ってきたかのようだ。線は細いが、しっかりと肉がついているのが、袖から覗く腕や裾から見え隠れする足からわかる。

雨の勢いは強くない。そういえば、幼いころ同じようなことがあった。あの時は、あの人が隣にいて、雨が止むまでずっと軒先で笑っていた。濡れて帰っても別によかったのだけど、どちらもそうしなかった。そんな感傷に、少しさびしくなる。

「待ち人かい?」

「え、いいえ、違います」

 振り返ると、老齢の女性が入り口に立ちこちらを見ている。

「遠慮することはない、座っていいよ、雨が止むまで」

「悪いですわ」

「お茶は出ないけどね」

 肩をすくませながら笑うと、彼女は自ら軒先の椅子に座った。隣を少し空け、そこに女が座るのを待つかのように見上げる。

「それでは、失礼させていただきます」

「遠慮することない」

 女は深くお辞儀をしてから椅子に腰をかけた。

「見ない顔だね、遠くの人かい?」

「こちらに寄るのは始めてのことです。近くに来たこともありません」

「だろうね。誰を待っているんだい?」

「誰も待っておりません」

「かりそめのこと、構わないだろ」

 まるで、女のことを見透かしているかのような口調に警戒を感じる。

「雨はしばらく止まないよ」

「ええ、そのようですね」

「わたしはね、この道をもう何十年とやっている。見る目はあるよ」

「どういうことかしら」

「悔やんでいる」

 女は答えられない。

「ほらごらん。わたしには分かる。遠慮することはない」

「ええ、悔やんでいます。ですが、待っていても報われないでしょう」

 辺りには女と老女の他誰もいない。口に出せば、壊れてしまうだろうか、それとも少しは救われるかもしれない。けれど、ちらと老女を見る。彼女は自分の分のお茶を用意し、それを軽くすすっている。口に出してしまったほうが、楽になれそうな気がする。

 女は、あの人のことを簡単に話しだした。


 出会いは、私が養子に入ったことから。

 あの人とは、幼いころからの馴染みであり、乳兄妹でもありました。同じように養子となり育った人もありますが、実子でもあるあの人への思いは全く別のものでした。養子だからといって隔てることもなく、一緒に学び、遊んでくれましたから。

 それも、清盛が熱病でこの世を去ったころから、少しずつ狂い始めました。ただ、あの人の傍にいたかっただけだというのに。頼朝が東で反乱を起こしたのに乗じ、あの人も平家を打つために立ち上がりました。

 私も傍にお仕えしました。

 ええ、馬に乗り武器を手に持ちました。

 信濃や越後を得るのにそう時間はかかりませんでした。ですが平家が黙っているはずもなく。あの人の三倍もの兵を用いてあの人を討とうといたしました。倶利伽羅の峠の夜襲は、今思い出しても震えてしまいます。

 運がよかったのかしら。

 悪かったのかもしれないわ。

 あの人は勝ってしまいましたから、京へと向かわれました。だって、あの人と幼いころを過ごしたものであれば、それは過ぎたことだと分かりますもの。似合わないのよ、そういう姿は。

 ええ、ご存知でしょう。法王の罠に嵌りました。流れるがままに、法王に挙兵したあの人は、同志のはずの頼朝によって京を追われたのですもの。

 そのときお傍に残られたのは、私のように幼いころからのあの人を知っているものばかりでした。きっと私のように、あの人のことを好いていたのね。

 幾度となく追っ手を振り切りましたわ。ですが、あの人は優しい人。私の兄の兼平とはぐれてしまいましたから、そのまま畿内にまで逃げればよいものの、行きも去りもできないんですもの。兄もあの人によくお仕えしていました。ええ、同じように養子でしたわ。あの人よりも、頭が働く人でしたから、きっとそれが災いしたのね。

 散らばった仲間を集めても三桁にもならなかったのではないかしら。相手の数は知れません。近くに控える兵は、また減ってしまいました。

 そうしたら、あの人がなんと言ったと思いますか?

 女は戦場にふさわしくない。

 今までずっとお傍にお仕えして、ずっとお慕い申しておりましたのに。私の胸はつぶれてしまいそうでした。ああ、最後に捨てられてしまうのね、て。

 その時、陰から敵兵が現れました。私はこれが最後と思いまして、ええ、敵将を討ちました。それから言葉も交わしていません。

 鎧を捨て、

 馬を捨て、

 ええ、もう長い間歩いておりました。


「雨は止んでるよ」

 老女の言葉に女は顔を上げた。先ほどまで降っていた小雨はどこへ行ったのか、空を覆っていた雲もすでに失われていた。

「ごめんなさい、つい、話し込んでしまいまして」

「いやいや。この歳になると、これが楽しみなのだよ」

「けれど、なんだか少し楽になりました」

「そうだろう。先ほどよりだいぶ顔がほころんでいる」

「ですが、やはり悔やんでいるのかもしれませんわ」

 ずずと音をたて、老女はお茶をすすった。

「お前さん、何という名かね」

「巴と申します」

 女は、今まででもっとも凛とした声で答えた。



  3


 くん、と少女は顔をあげ、瞳を大きく広げれば、深い黒に赤と青、ゆらりゆらりと揺れている。

 ひらりひらりと舞い降りる、紙の一片少女の前に、そっと伸べたる左の平に、紙はぽそと納まりぬ。

「朔よ」少女の声が闇に抜ける。渡し守、舟に人気を覚え、少女の後ろに、人の姿。それが一言「はい」と答える。

「これは、いつのことですか」

「鎌倉の始めでありましょう」

「これは彼女の望みなのでしょうか」

「それを決めるのはわれらではありません」

「そうね。分かっております」

「お嬢様、よろしいでしょうか」

「わたしの意などないに等しい」

「そのようなことございません」

「苦労をかけるな」

「もったいないお言葉であります」

「よろしい」

「それではお嬢様、参りましょう」

 渡し守、声を出すこともなく、人の姿闇に解け、少女の姿もそれに続く。暗き河に浮かびたる、舟のゆらりと揺れている。



  4


 鎌倉では頼朝がすでに幕府を開いたと聞く。けれど、巴のいる田舎ではそれもそれほどの影響はない。

 彼女の小袖から覗く腕は細く、かつてはあれほど肉に溢れていた体からその魅力の多くが失われていた。彼女の生きてきた中で、これほどゆっくりと時が流れたことがあっただろうか。あの人と一緒に過ごしていた日々は満ち足りていた。思えば、なんと短い年月であったことか。

 歩くと鶯が鳴くような渡りを、巴はゆっくりと歩いた。

 庭は色づき、赤の葉が風に揺れている。一枚の葉が風に落ち、ひらひらと舞い落ちる。巴は歩みを止めた。違和感を覚え庭を見やると、いつからそこにいたのか、二人の姿があった。

 一人は少女、薄い着物を着ている。無地の着物は足先にかけて少しずつ紺を帯びていて、よく見ると綾だろうか。整えられた黒い髪は時折の風に、先だけが軽く揺れている。

 その少女の後ろに、彼女を守るように、大きな男。頭を剃り、僧侶のように袈裟衣をかけている。錫杖こそ持っていないものの、両の手を胸の前にきれいにそろえている。

「ここに何用ですか?」

 巴は彼らに聞こえるようにと、少し大きめな声を出した。その声に気がついたのか、少女はやや体を捻ると口元に手を当てた。それに答えるように、男は体を屈めると耳を少女の口に当てる。

 男は体勢を戻すと、同じように大きな声で、もう少しだけ近づいてもいいかと言った。

「ええ、構いませんが」

「安心してください。われらは追っ手ではありません」

 その言葉に、巴は警戒する。

「われの名前は朔と言います。それからこちらのお嬢様は三瀬ほとり、どうぞ、安心してください、巴さま」

「私はあなたがたを知りません。どうして私の名を知っているのですか?」

 再びほとりは口元に手を当てると、朔に何かを囁く。

「お嬢様があなたの隣に座りたいと言っています。よろしいでしょうか?」

 巴は逡巡してから、彼らに向かって正座をした。それを確認してからほとりはたたっと駆け寄り、巴の隣に座る。彼女が渡りから足を下ろして座ったため、一層彼女は小さく見えた。

 少女は前を向いたまま、小さな声で、どうして、と言った。油断していると聞き逃してしまいそうだ。

「何が?」

「どうして、お前は別れたの?」

「何のことですか?」

「お前はもう長い時を、何もなく生きている。お前の魂は、生きることも死ぬことも拒否してしまっている」

「どういうことですか?」

「時々、お前のように彷徨う魂が私の河の上を漂うことがあるの。その魂を導くことが私の務めですから」

 巴は困り、朔を見た。彼は、二人に背を向け、腕を伸ばしたり、体を折ったりしている。

「もう少し、分かりやすくお話してくれないかな」

「どれだけ待っていたところで、義仲は帰って来ないわ」

 その言葉に、巴は少女の両肩を掴み、上半身ごと彼女のほうに振り向かせた。

「それはお前だって分かっているはずなのに。なぜ認めないの」

「そんなこと、ない」

「のうのうと生きていることが苦しいの?」

 巴は首を振る。

「あれの最後を私は知っている。聞きたいですか?」

 巴は少女の目を見た。深い黒の瞳の奥に、赤と青がゆらゆらと揺れている。どうして、こんな少女がそんなことを知っているのか、そんな疑問を持つことさえ、その瞳からはできなかった。

「あれは最後、弓で射られました。もう冬も始まっていました。あれが通り雨でお前に会いに行ったことをお前は気がつかなかったかしら?」

 巴は再び首を振る。

「あの時、お前はすでに感じていたはずよ。待っていても、無駄かもしれないと」

「そんなこと、ない」

「それからお前は、生きることも死ぬことも止めてしまったのだもの」

 巴は少女の肩を放した。少女は再び正面を向く。

「でも、お前が悪いとは思わないわ。私の河の先には何もないもの。たとえどれだけの業を積んでいたとしても、あれとお前は結ばれない」

「ひどい話です」

「ひどいものではない。あれがお前に、女は戦場に必要ないと言ったことを覚えていますか」

 はい、と巴は頷く。

「最後に、私は捨てられてしまったのね」

「あれは、己の最期を悟っていた。女を最期まで連れていては、聞こえが悪いと、そのようなことを言わなかったか?」

「はい、ですから、私のことを必要ないと。それでも私はあの人と一緒にいたかったのに」

 ほとりは体を軽く浮かせると、地面に飛び降りた。それから振り返ると、一度小首を傾けてからにこっと笑った。

「分かっているのなら、何を悩んでいるの? あれはお前に、それでも生きていて欲しいと願ったのでしょ?」

 巴は顔を上げる。

「いきなさい」

 そのときすでに、ほとりの姿はなかった。巴は驚き、四方に顔を振るが庭の静かな景色しかない。朔という男もいない。

 巴は立ち上がると、鴬張りの渡りを再びゆっくりと歩き始める。

 ゆっくり、ゆっくりと。

 生きなさい。

 その言葉が頭の中を何度もめぐる。



  5


 みとせ、ふたとせ、ひととせと、ゆるり数えてなんとせか。花の弁を浮かべては、ゆるりゆるりと放れゆく。

 小船に黒く渡し守、闇夜に伸びた八角の樫の木を河につきさして、ゆるりゆるりと揺れている。

 綾衣薄衣美しく、花を手折る指の細く、黒の髪は闇に溶け、まだいとけない口元の、ぽそりぽそりと音の鳴る。

 すらと伸びたまつげの下に、赤と青の交じりたる瞳は細く閉じられて、もちのように膨れたる頬は桃に色づいて。

 少女は何を謡っている。

 何を謡って、泣いている。

 儚い少女の座り姿に、渡し守、自然と涙が浮かびきて、耳を澄ませば小さな声で、少女が繰り返し、音を吐く。

 いきなさい、

 いきなさい。

 河の真中に揺れている小舟の姿儚くて、月隠の暗き闇夜には、離れた岸辺に見えるものなし。

 いきなさい、

 いきなさい。

 少女の目には、赤と青の涙、涙。



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