其の漆
この時期の信州の夜はとても冷え込みます。
雪はそう降りませんが、道場のあるこの村の冬はヘタをすれば死んでしまうんじゃないかと、そう思えるほどに厳しい寒さです。なおかつ、先ほど寒垢離を済ませてきたばかりなので、お風呂に入ったとはいえ身体の芯がまだ冷たさを残していました。
「……さ、さむい……が、がくぶるですよ……」
ちなみに。
寒垢離とは、簡単に言うと冷水で身を清め、神さまに祈祷することでありまして。この巫女道場では帰った際に寒垢離を行う決まりがあります。しかも、わたしたち巫女が帰るのは大半が大晦日前。つまり、冬真っ盛りのこの時期。
この寒空の下で冷水を浴びるなど正気の沙汰とは思えません。
冷水に身を浸した経験のある稀有い人ならば、わかるかと思いますが――それはもう冷たいを通り越して、ただただ痛いのです。針を刺されたような、そんな痛みが体中を襲うのです。
これも帰りたくなかった理由の一つだったりします。
「お布団……お布団がわたしを呼んでいます」
二年ぶりの自室。
懐かしさを感じさせるお布団の中に飛び込みます。
もともと――わたしは、朝倉氏が納めていた『越前』という雪国で育ちました。
ですので、多少なりとも寒さへの耐性は持ち合わせているつもりでしたが……、やはり寒いものは寒いですし、冷たいものは冷たいです。
冷水、嫌いです。
逆に暑いほうがいいのかと訊かれれば、首を縦に降るのを悩むところではありますが……春。超えられない壁。夏。大なり、冬と、いったところでしょうか。秋は食としてはそれはそれは優秀な季節に値しますが、気候的観点から申しましてあまりに微妙なので、今回は排除とさせていただきます。
……まあ、どうでもいいですね。
わたしは手荷物を広げ、書物を取り出します。お布団に横になって、読書を始めました。
「…………くしゅんっ」
鼻を啜りつつ、かじかむ手で書をまた一枚めくります。
物事に集中しているとき――目の前のそれに没頭する自分とは裏側に、それを冷静に見つめる自分。そんな存在を感じるときって、あったりしませんか?
自分を客観的に見ているというか思考が二つに分離するというか――今のわたしが、まさにその状態だったりします。夕食でたらふく御馳走を食べたわたしは、寒垢離を行い、がくぶるしながらお風呂に入って――そして今、久しぶりの自分の部屋で、久しぶりの読書にふけっている。
書とはいっても、手に持つこれは自分の日記なんですけどね。
この日記には京での旅で起きた色々な出来事が記されています。
それを読み、思い出をなぞり、感傷に浸る自分。それとは裏腹に、ああ寒いなあ。お雑煮食べたいなあ。などと考えている自分を感じたり。
人って不思議ですよね。
「……あ」
ふと、手が止まりました。
旅先の茶屋で食べたお団子を絶賛する内容が、これでもかと盛大に書かれた頁。
それをめくると、日付が五日飛び、そこに書かれた内容は前頁から比べるべくもなく、疲労困憊の態でした。
……誰もがそうであるように、思い出は、優しいもの、楽しいものばかりとは限りません。辛い思い出も、苦い思い出も、それ相応にあります。
そこには、京での“とある出来事”が書かれていました。
はやり病――疫病――そして闇のように暗く、深淵を思わせるような瞳――
わたしを“姉”と呼んだ少女――
「…………」
ぱたん、と、わたしは日記を閉じ、まくら元に置きます。
そして部屋の端に置かれた蝋、ゆらゆらと揺れるその火を眺め、手をかざしました。
壁に浮かび上がる影。
それに、ぞくっと背筋が寒くなるのを感じ、わたしは両手で自分を抱いて腕をさすります。やがて思いついたように首を横に振り、蝋の火を消してお布団をかぶりました。
「んふふ、ぬくぬくです」
……思い返せば、わたしはこの旅で、幾度となく野宿を余儀なくされ、とても年頃の女の子とは思えない、それはそれは悲惨な生活をしてきました。
与えられた使命、任務を果たすため――その足で諸国をめぐり歩くのは、わたしのようにか弱く可憐な乙女にとってはとても過酷で、とてもとても辛いものです。
そんなわたしにとって、お布団というものは素晴らしいものなのです。
癒しなのです。
神さまが与えてくれた、神器なのです。
旅の宿での御馳走、そしてお布団。それにいったい何度救われたことでしょうか。
と、そんなことを考えつつ、うとうとと、重たくなったまぶたは自然と閉じます。
あたたかいお布団につつまれ、いつのまにかわたしは――ふっと、夢の世界へと旅立つのでした。
3/20に発表された、『エシュリオンライトノベルコンテスト』一時通過に伴い、更新頻度を上げていきたいと思います。
しかし、話の構成こそ整ってはいますが、現時点ではお肉なしの骨組のみという……。
むむう、これはまずい。
どうにか二次審査のある四月下旬までには、見せ場まで辿り着きたいところ……。