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戦国おとぎ語り  作者: 独楽
序 蒼眼の月
21/48

其の伍


 紗綾は巫女だが、同時に千代女によって鍛えられた忍びでもある。


 昼間、情報という餌を捲き、それに顔色を変えた将監を見て、紗綾はその心中でにやりと笑った。

 すでに佳代、小袖、そして止水氷月、小比奈を引き連れ新都へと行った主君――望月千代女から、紗綾が任された任務は『仁木将監の監視』だった。

 もちろん、任務ともあれば紗綾だって人を殺すことは厭わない。命を受ければ、誰であろうと残虐冷徹に殺してみせるが――しかし、忍びにとって、死ぬ、あるいは殺すことは失敗と同義なのだ。わけもなく人を殺せば、その影に潜む忍びは陽光に晒されることとなり――それだと少々都合が悪い。死というものはどう足掻いたって匂い過ぎる。

 武士という人種は名誉を大旗に掲げ、何かにつけて切腹だの、そのときは見事に死んでみせるだの戯言を口にするが……、


「――笑止」


 死ぬことなど簡単にできる。それこそ赤子にだって。

 問題なのは、死んだからといって失敗の責任を負うことにはならないし、殺したからといって事態が好転するようなことは基本的にない、ということだ。

 まず、忍びはどんな情報でも相手に簡単に与えてはならない。見ざる言わざる聞かざる、全てを拒否し黙秘する。怪しまれるような振る舞いは先立って殺す。後の危険になるようなものは前もって土を被せておき、比較的安全性の高い手段を用いて任務にあたる。

 対人で情報を探るなら、まず第一に相手に信用を与え――あくまで訊き出そうとはせず、相手が持ちかけた形を作り出すのが望ましい。


「猫撫で声をあげて添ってやれば、こうも簡単に誘導される――本当、男とは単純です」


 邪悪な笑みで紗綾は呟く。そこに昼に見せた純真な笑みは毛ほどもない。

 陽も傾き、山に被さる雪が茜に色を変える頃――白装束を身に纏い、紗綾は巫女道場を抜け出た仁木将監の後を付けていた。

 気配を殺しつつ、ひっそりと先を行く影を追う。

 双眸に捉えた男――将監は完全に油断していたのだろう、数週に渡る看病の甲斐あってか、当初張っていた警戒の糸は次第に緩み、あまつさえ綻びを見せた。

 好意を含ませた行為に見せかけて相手方の隙を作る。

 これは人心攻略の常套手段だが、効率的かつ安全で、なにより人間の心理を突いた正攻法。一見、非道徳的にも見えるが、むべなるかな人の心は城のように外壁が厚く――危害を加えようものなら、さらに壁は強固になる。だから安心を与え、偽の信頼を築き、内側から鍵を開けさせてやるのが最も簡単かつ最も確実なやり方なのだ。

 満を持して紗綾はそのわずかな綻びを逃すことなく、将監の言動から迷いのようなものを汲み取り、傀儡師さながら行動に移させるため最小限の情報を開かした。結果、将監は紗綾の思惑以上の行動を見せる運びとなった。

 己が手の平の上に転がされているとも露知らず――

 踊り続ける、哀れな道化。

 この紗綾の技量こそ武田信玄公が望んだ諜報員、歩き巫女のそれであっただろうが……しかし、一介の少女をここまで育て上げた千代女の手腕こそ恐るべし。


「――……」


 紗綾は直視することなく、それでいて油断なく監視の目を向ける。まじまじと見てしまえば、視線に勘付かれる恐れがあるからだ。

 ……見るに、あの将監という男は馬鹿だ。

 止水さまが驚かれたように、確かに回復力の異常さは際立つものの――他にそれといった芸らしきものもなく、警戒心も薄ければ、ぎらついた何かがあるわけでもない。本当に忍びなのかすら怪しくなってくる。

 あんな男、殺そうと思えばいつだって殺せそうなものだが――いや、やはり敵――それも織田の忍びとあれば、“消えてしまっては禍根を残す”。そうなると、将監が滞在していた道場、関わった人間に必要のない疑いを招くことになり、自分らの行動に制限が掛かることになる。それだけは避けなければならない。

 忍びにとって、疑いを持たれるということは、その瞬間に死んだも同じなのだから。


「……しかし、気に掛かかりますね……」


 小県の祢津村を出、先を走る将監の後ろを追いつつ紗綾は零す。

 とても同じ忍びとは思えない粗末なそれもあるが――なぜ千代女さまはあんな男を警戒しているのか? そして、なぜ将監はここまで止水さまに執着しているのか?

 考えても――それは紗綾にはわかることではないが、腑に落ちないものがあるのは確かだ。

 ……が、やはり主君に命じられた任務をこなすのが忍び。考えにとらわれていては、いざという時に動きが鈍る。

 紗綾は一切を払拭し、任務のことだけを頭に置いた。



 西へ、西へ。

 雪化粧された険しい街道を、まるで風に乗るように走りゆく。

 やがて二つの影は、宿場町までたどり着いた。きょろきょろと首を振る将監――その後ろには、屋敷の陰に潜む紗綾の目。

 将監は周囲を伺うような素振りも見せず、並ぶ宿屋のひとつに入った。


「……ちっ」


 紗綾は苦虫を噛み潰したように顔をしかめ、舌打ちをする。

 屋内という環境では音が籠り易く、いくら感の鈍い将監であっても気が付くだろう――流石の紗綾もこれ以上は踏み入れない。それならばと、紗綾は屋敷の壁に耳を添え、反響する足音を頼りに、将監の後を追う。

 ……木の軋む音、階段を登っている……二階、卯の方角……。

 紗綾はばっと身を翻し、音もなく屋根へと上る。

 そして、板一枚隔てた奥の様子に耳を向けた。

 聞こえてくる声――


「……その足音、将監かの?」

「ああ」

「なにか言うて貰わんとわからんよ。もう少し、盲のわしに気を使って欲しいものじゃ」

「馬鹿を申すな。ふくろうともあろう者が何を盲人を気取っておる。……や? 鎌之助の姿が見えんな、それに弟も」


 紗綾は静かに微笑む。

 鎌之助とは十中八九、年の瀬に道場に忍び込んだ織田の忍び――鎌瀬鎌之助のことだろう。それを将監が口にするとは……やはり、千代女さまの読みは当たっていた。

 自然吊り上がった口角が細かく震える。確信的な情報を得たというのもあるが、織田の忍びの粗末なそれに、呆れを通り越してもはや笑えたのだ。


「ホ、あれなら死んだ。……いや、長兄は生きておるが、使い物にならん。放っておけばいいものを……ホ……ホ……、お優しい冥さまのことじゃ。喰ってまた使い廻すおつもりじゃろうて」


 初老を過ぎた男のような声が言う。

 の太く、押し広がるような声。

 なぜだろうか? 落ちつき払ったその声は、どこか気味の悪いものがある。頭の芯に響くような……まるで肩から息を吹きかけられているような……そんな不快感を感じる。

 ふと紗綾は、屋根の軒先にぶら下がるつららが、細かく揺れていることに気が付く。垂れる露が妙に震えている――なんだろう、風か?


「喰う、か。あれの遊び心は本当にわからん。しかし、まあ……首尾よくやっているようだ。西谷の門は開けそうなのか?」

「木曾谷のことかの? ホ、もちろんじゃ。木曾義昌との話は既に済んでおる。彼奴めは“叛旗を翻す”その時を、いまかいまかと待ちわびておるに相違ない」


 刹那。

 紗綾は驚愕に身を貫かれた。


「……っ……!」


 隠密であることを忘れて、思わず喉から息を漏らしてしまう。

 心臓がばくんとうねり、隠密にあたっていなければそれこそ驚きに声を上げていたかもしれない。それは仁木将監の素性など度返しにしても差し支えない――それほどの大秘事だった。

 木曾は織田との領境に位置する武田親族、先方衆の一角。いわば、武田という城の西門を守る一家である。それの頭領を務める木曾義昌が叛旗を翻す――つまり、謀反を起こし、武田の敵となって織田の味方についたとなれば……もはや考えるまでもないだろう。

 開けた門から軍勢が押し寄せるのは必至。

 紗綾は考える。

 自分はどうするべきか――いますぐに戻って千代女さまに報告するか……いや、主君は侍女を連れて新都へ行ったのだ。全力で駆ければ二日と掛からない距離ではあるが、相手方がいつ行動に移るか……未だ情報は漠然とし過ぎている。

 それに、木曾義昌が裏切ると言ったところで、敵の虚言を掴まされた、と歯牙にも掛けて貰えない可能性だってある。もっとも、千代女さまは信じてくれるだろうが――ここで問題になるのが、一忍びの言葉を上の人間がどこまで信用し、“どこまで問題にしてくれるか”、だ。

 武田がその守りを担う木曾を疑えば、さらなる内部崩壊に発展しかねない。ただでさえ危うい均衡を保っている武田だ。これは迂闊には扱えない、非常に繊細な問題と言えた。

 紗綾は思考を巡らし、最善手を模索する。

 しかし、焦る紗綾に構うことなく、初老の声は続ける。


「ホ、飛んで火にいるとはこのことかの? どれ、わしも冥さまに習ってひとつ遊んでみるか……と、言いたいところじゃが……将監よ、お主なにか企んではおらぬか? 音がはやいぞ?」


 将監の声がせせら笑う。


「梟を相手に嘘が通じるなどとは思ってはない。逃げるが吉というやつだな。いやなに、醜態を晒した手前、お前らに会うのが気まずくてな。それより、俺が向かうはずだった穴山はどうなっている?」

「ぬかりなく。駿河の穴山梅雪には女郎が行ったが……あやつのことじゃ、徳川、穴山……ホ、狸二匹の相手など、楽なもんじゃろうて」

「……甲斐侵攻の時はいつ?」

「ホ、ホ……手筈が整い次第、もう間もなく」

「武田が、逃げるならいま、か」

「逃がさんよ、一人としてな。……じゃが、その前に。まずは集る蝿を叩き落としておかにゃあなるまいて。例えば――」


 途端。

 初老の声色が、


「――“そこにいる女狐"とかの」


 戦慄に化けて紗綾の心臓を鷲掴みにする。

 存在を――感付かれていた――

 どくん、と唸る胸の音より先に、紗綾は屋根を蹴り逃走を謀る――が、しかし、


「ホ」


 どっ、と。

 初老の声が、紗綾の耳を激しく震わせた。

 否。

 紗綾の脳天を直接揺さぶるようなそれを描写するにはまだ足りない。隔てた壁を突き抜け、紗綾の感覚を――意識を根から掻き切るそれは大筒の砲撃か、はたまた崩れ落ちる断崖絶壁の岩雪崩か。強大な質量を持ったが如く、初老の声は音の大塊となって紗綾を襲った。

 束の間、紗綾はふらりと頭を揺らし、目の焦点を彷徨わせながら屋根に崩れ折れる。そして駆け出そうとした慣性の働くまま、ごろりと屋根を転がり虫のように地面へと落ちた。


「……、……なんだ?」

「ホ、将監よ。いつから女を連れるようになった? いくら病み上がりでも、あまりに情けないじゃろうて。まだまだ小童よ」


 揺れる視界。

 き……ん、と鳴り続ける鼓膜。

 まるで頭を思い切り振り続けたような、そんな感覚の混乱に紗綾はなす術もなく――


 かくて千代女の侍女巫女、紗綾は鎮静の森の虜となる。

 紗綾が最初に迷った段階で迷わず踵を返しておけば――それが牧歌的なものか、あるいは破滅的なものかはさておくとして――やはり未来は変わっただろう。

 哀れ紗綾はこの帳を破り抜けることが出来るのか、否か。少なくともこの時、紗綾の天運は極まったと言えた。

 しかし、

 それはこの時点での話、ではあるが。



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